海の星
わたしの両肩に手を置いて、精一杯の背伸びをして、貴方は触れるだけの口づけをくれた。
今は頼りないけれど、いつかわたしを守る騎士になるから、と貴方はわたしの手を握り締めて誓った。丸みを帯びた頬は可哀想なくらい赤くなっていて、肉刺だらけの掌には汗が滲んでいた。
その誓いがどれほど嬉しかったか、きっと、貴方は知らない。
潮の香りを運ぶ海風、夜の穏やかな波音、そして可愛い貴方。わたしの幸せのすべてがそこにはあった。
アクウィラ。
わたしは貴方と見た海の星を、決して忘れないでしょう。
***
数多の民族と国家が鬩ぎ合う大陸に囲まれた、小さくも深い海がある。
海の真中には一つの島国が浮かび、そこには遠い昔に滅びた旧世界の遺産が眠ると伝えられていた。諸国は遺産を手に入れるため挙って船を出し彼の国の征服を試みたが、一度として叶うことはなかった。
――穏やかな海には、時折、美しい魔性の歌が響き渡る。
歌声は船を大波で攫い、渦潮に沈め、数多の人々を海の藻屑にした。
***
雲のない澄んだ青空をした、良く晴れた日だった。
春風に乗った潮の香りと穏やかな波音に身を委ねながら、わたしは海に通じる入江に佇んでいた。
入江を囲む白い砂浜には、何処から養分を吸いあげているのか、赤い薔薇が年中咲き誇っている。荊は冠のような形を成し、入江の中央で水に浸る
機械を守っていた。天辺に大きな
青の魔石を戴いた機械を見下ろしてから、わたしは海に視線を遣る。
――海は何処までも穏やかに凪いでいた。
荒れ狂う波や激しい渦潮とは無縁で、いつも人に味方してくれそうだ。四方の大陸に住まう人々も、まさかこの海が自分たちに牙を剥くとは考えもしなかっただろう。
だから、彼らは海に繰り出す。頑強な戦艦を造り、選りすぐりの兵たちを乗せて、魔法と言う名の旧世界の遺産が眠るこの国を征服せんと勇む。
「懲りない人たち」
前方に他国の艦隊を発見して、わたしは溜息を零した。それほど大規模なものではないようだが、放置すれば、いずれ島まで辿り着いてしまうだろう。
――わたしは唇を開いて、歌を口ずさみ始める。
高く声を張り上げて、記憶に刻み込まれた旋律を紡いでいく。十年以上も前から、わたしの歌に新しい旋律が増えることはない。わたしはひたすらに思い出の歌を繰り返す。
やがて、わたしの歌に呼応して、機械に埋め込まれていた青い魔石が輝きを放つ。それはあまりにも禍々しい、晴れ渡る空に相応しくない光だった。
突如、遠く離れた海面が揺れ、酷い荒波が現れた。その波は艦隊の行く手を阻み、頑強な戦艦たちに襲いかかり、容易く転覆させてしまう。示し合わせたように発生した渦潮が、瞬く間に戦艦を海底へと引き摺りこんだ。
あとは海の藻屑となるだけの艦体を眺めながら歌い終えるた時、わたしは砂浜を踏み均す足音に気づいた。
この入江も含めた島の周縁は、すべて白い砂と化している。そのため、民が住まうのは島の中心部であり、こんな辺境にまで出て来る人間は滅多にいない。
「歌、止めちゃうの?」
柔らかに問いかけてきたのは、長い白髪を見覚えのある飾り紐で結わえた男だった。大人の男にしては小柄な彼は、荊の隙間から、わたしのいる入江を見つめている。
「船は沈んだもの。これ以上は無意味よ」
「そっか。今日は出遅れちゃったみたいだね」
彼は残念そうに零して、薔薇に触れながら砂浜を歩き出す。皮の厚くなった掌を荊で傷つけ、赤い血を散らしながら、彼は所在なく足を進めていた。
ただ、黄金を塗した眼差しだけは入江に向けられたままだった。
「ねえ!」
わたしは荊の森を抜け出して、彼の背中を追いかけた。
「なあに?」
「どうして、こんなところに来るのよ」
「来てほしくないの?」
茶化すような物言いで、挑発するような声色だった。わたしの言葉など端から聞き入れるつもりはないのだろう。普段は気が弱いというのに、決心すると意固地になるのは変わらない。
「もう、ここに来るのは止めなさい。皆も、良い顔はしないでしょう。……海の魔物に引きずり込まれても、わたしは助けてなんてあげないわよ」
「それはそれで、幸せかもしれないね。二人一緒に海の底で仲良く暮らそうか」
「アクウィラ!」
咎めるように彼の名を叫ぶと、彼は幼子のように唇を尖らせて立ち止まった。
「君はずるいね。自分は何も告げずに勝手な真似したくせに、僕のことばっかり咎めるんだ」
アクウィラは振り返って、右手を伸ばした。まるで私に向かって手を差し伸べているかのようだった。
――だが、わたしはその手をとることができなかった。
わたしの小さな掌は彼をすり抜け、彼はそのことに気づきもしない。当然だ。アクウィラはわたしを視認できず、わたしも彼に触れることはできない。
辛うじて届くのは、機械を通した声だけだった。
「ばかな子」
この人は、とても優しくて愚かだ。
姿も見えない女のために、薔薇の荊に傷つきながら、入江まで足繁く通う。幼さを残していた少年の頃と変わらず、わたしの享年を過ぎた大人の男になってからも、彼はわたしに会いに来るのを止めなかった。
「わたしは、もう、貴方の好きになってくれた女じゃないのよ」
――わたしは、
海の星。
とうに滅びた旧世界の遺産、歌声で意のままに海を操る魔法兵器として造られた機械である。海を渡ろうとする敵国から、この島国を守る要だった。
かつて、わたしはこの国の王女として生まれ、十七年間を生きた少女だった。
しかし、十八歳を迎える直前、わたしは海の星に選ばれ、肉体を棄て彼の魔法兵器と同化した。
海の星を動かすためには、その核となる青の魔石に宿り、内部から操作する者が不可欠だ。それができるのは、滅びた世界の血を継ぐ者、つまり旧世界の遺産を代々受け継いできた王族だけだった。
海の星の操り手とは、彼の兵器の動力源でもある。わたしの魂は魔石に宿り、力尽きる日まで海の星と共に在るのだ。
大波で敵船を転覆させ、荒れ狂う渦潮に沈める歌を奏でる。海の星なんて御綺麗な名を授けられていても、行っていることは船乗りを惑わす魔物と変わらない。国を守るという大義を掲げて、多くの人々を殺める兵器そのものだった。
「どうして、はやく見捨ててくれなかったの。人殺しになる前に、遠くに消えてくれなかったの」
人でなくなったわたしを見捨てられないばかりに、優しい彼は何処にも行けなくなった。自由に羽ばたけるはずだった鳥の翼をもいで、窮屈な籠に閉じ込めてしまったのは他でもないわたしだ。
――会いに来てくれることは、とても嬉しかった。
けれども、同時に変わり果てたわたしを知らずにいてほしかったのだ。彼の褒めてくれた金色の髪も、青い目も、柔らかな肌も、全部わたしは失くしてしまった。代わりに得たのは、温もりのないかたく醜い機械の身体だけだ。
貴方の隣で笑っていたわたしは、もう、何処にもいない。機械仕掛けのわたしが喰らい尽くしてしまった。
「……昔、二人で夜の海を歩いたことを憶えているかな」
アクウィラは困ったように眉をひそめ、不格好な笑みを浮かべた。 憶えている。何も憂うことなく、無邪気に未来を信じていた頃の話だ。楽園とも呼ぶべき平和な祖国を守るために払われていた代償など、考えたことすらなかった。
「塩の香りがする風に包まれて、君に初めて口付けた夜を、星明かりを映した海を僕は忘れてなんかいないよ。――まるで、君のように優しくて、美しい海の星だった」
あの夜よりも大人びた顔をしたアクウィラは、そっと目を伏せてから、ゆっくりと開いた。寂しがり屋で泣き虫だった彼は、そこにはいなかった。
「愛しているよ、ウェスペル。あの夜に君に捧げた誓いは、永久に変わらない。僕は君を守る騎士だ」
アクウィラは白い砂浜に跪いて、在りもしない手を恭しくとって、虚空に口付けた。それは高潔な騎士が守るべき貴婦人に誓うような光景だった。
「触れることさえ、できないのよ。幼い頃のように頭を撫でてあげることも、寂しい夜に抱き締めてあげることもできない。……わたしは、こんなにも変わってしまった」
胸が張り裂けそうだった。肉体は腐り落ち、骨さえ海に散らされた後なのに、どうして、こんなにも痛いのだろう。苦しくて仕方がないのだろう。
幻の涙が頬を伝った時、アクウィラは微笑んだ。その金色の眼差しが、確かにわたしを捉えた気がした。
「君はここにいる。あの頃と何も変わらない、僕の守りたかった美しい人のままだ」
彼は何も見えてなどいないだろう。それなのに、まるであの夜のように、幸せそうに笑うわたしが彼の瞳にはいた。
「歌を聞かせてよ、優しい歌を。君だけが僕を幸せにする歌を知っているんだ」
この人殺しの歌が貴方を幸せにするならば、わたしは貴方の前でだけは、あの夜に海で瞬いた星になれるだろうか。
貴方のための優しい歌だけを口ずさんでいた、少女のわたしに戻れるだろうか。
奏でる歌は海面を揺らし、何処かの船を沈め続けるだろう。
それでも、そんな残酷な歌が、どうかいつまでも貴方を幸せにしてくれますように。
アクウィラ。
わたしは貴方と見た海の星を、貴方の愛してくれたわたしを忘れはしない。