雪に咲く花
雪の中で、白い水仙が咲き誇っていた日のことを、今でも憶えている。
『おいで、
砂雪。今日から、私がお前の家族だ』
病床で微笑んだ美しい青年に出逢った幼い日から、砂雪は十分過ぎる幸福を得た。
――別れは避けられぬ出逢いであったけれども、二人で過ごした愛しい日々は砂雪の宝だ。
「ねえ、
静真様。貴方は、真に幸せでいらっしゃいましたか?」
庭先に咲く花に問いかけて、砂雪は赤い唇で微笑んだ。
◆◇◆◇
凍えるような冬の空気が、肌を撫ぜる。
明け方、まだ誰も起きていないような薄闇に包まれた時刻。砂雪は紅梅の小袖の帯をきつく締めあげて、長く伸ばした茶色の髪を手早く結い上げた。
室の外へ出ると、庭園には昨晩降った雪の名残がある。降り積もった雪を一瞥してから、早速、朝の勤めを始める。この離れに住まう侍女は砂雪だけであるため、雑事のすべてを一人で行わなければならない。
諸々のことを済ませ朝餉を作り終えた頃には、空は白み朝日が昇り始めていた。そろそろ、砂雪の主を起こさなくてはならない。
主の室まで歩くと、砂雪は障子戸に手をかける。
「
静真様。朝ですよ」
一言声をかけてから障子戸を開けて、砂雪は褥に横たわる青年の傍へと近寄った。
砂雪の声に、青年はゆっくりと身を起こして微笑んだ。
「もう、朝か。おはよう、私の砂雪。もっと近くで、顔を良く見せておくれ」
傾城、と謳われても可笑しくない美貌を湛えた青年の微笑に、何年も共に暮らしている砂雪でさえ頬を赤くしてしまう。
青年の絹糸のように艶やかな黒髪が、細い首を流れて鎖骨に届く。理知的な瞳は頬を赤く染めた砂雪を捕らえて離さず、透き通るような白磁の肌が濃紺の小袖に良く映えていた。
美しい御仁だと知っていたが、何度見ても、惚れ惚れとしてしまう。
「おはようございます、静真様」
慌てて静真に近づいて挨拶した砂雪に、彼は手を伸ばした。骨ばった大きな手が頬に触れて、砂雪は小さく身体を震わせた。
「頬が赤い。この頃は冷えるから、あまり無理はするな。お前が風邪でも患ったら悲しい」
「……っ、さ、砂雪は、丈夫さだけが取り柄ですから、心配は無用です。静真様こそ、顔色が悪うございます」
男性にしては華奢な身体と青白い肌から分かるように、静真は酷く病弱な
性質だ。特に雪が降る今頃の季節は彼にとって鬼門であるため、砂雪は彼の体調に気を配るようにしていた。
「今日は、
清春が来るのだろう? 床に伏せってはいられない」
静真の唇から零れ落ちた男の名に、砂雪は思わず眉をひそめてしまう。
「……、さあ、砂雪は存じません」
「砂雪。子どものような意地悪をしないでくれ。弟に会いたいと思う兄の心を、分かってはくれぬか」
清春。それは、どうしても、砂雪が好きになることのできない男の名だ。
――清春は、本来ならば静真が手にするはずだった地位を奪った男。
「昼下がりの頃には、……こちらにいらっしゃるそうです」
「そうか。あれも忙しい身だというのに心苦しいことだ」
「そのようなこと、静真様が気になさる必要はありません」
「私の身体が、このように弱くなければ、あれに余計な苦労をかけさせることはなかったというのに……っ、……」
「静真様!」
そう言って咳き込み始めた静真に、砂雪は悲鳴染みた声をあげた。
骨の浮き出た彼の背を何度も摩って、砂雪は血が滲みそうなほど強く唇を噛む。
目の前の御仁は、本来ならば、本邸に隠されるように建てられた離れに砂雪と二人で住まう身分の人ではない。
――、武家の名門、
黒塚家の嫡男。それが、静真の本来の身分であった。
その立場を取り上げられ、このような寂れた離れに押し込められていることが、砂雪には悔しくて仕方がない。
「兄上。もう、起きている?」
突然、障子戸が開かれ、背の高い青年が顔を出した。
室の入口に、静真と瓜二つの顔が在る。尤も、無造作に白小袖と袴を纏っただけの青年は、髪もろくに整えていないため、静真と大分印象が違って見えた。
「清春。たった今、昼下がりに来ると聞いたばかりなのだが」
漸く咳の治まった静真が、呆れたように溜息をついて、青年――清春を見た。
「いやあ、昼は正室の機嫌伺いに行けって言われてさ。跡継ぎまで生ませたのに、ずっと放っておいたから、かなり怒っているみたいで」
「お前の正室となった姫も可哀そうに。もう少し、大事にしてやれ」
窘める静真に、清春は何の反省もしていないように肩を竦めた。
「美人だけど、あんな高飛車できれば相手にしたくないんだ。行ったところで、泣きながら金切声で詰られるだけだ。兄上たちといる方が、よほど楽しい」
「……楽しいのは結構ですが、いらっしゃる時は、必ず報せてくださいと申し上げたはずです」
砂雪が突然現れ自分勝手な言い分をする清春を睨みつけると、彼は可笑しそうに口元を綻ばせた。
「おお、怖い怖い。せっかくの美人が台無しだぞ、雪姫《ゆきひめ》」
「砂雪は、そのような名前ではございません!」
まるで厭味のように、姫、などと口にしないでほしい。そうなれなかったからこそ、今、砂雪は静真の傍に控えているのだ。彼に仕えることに不満はないが、自分が引け目に感じていることを指摘されると苛立ってしまう。
「まあ、急に予定変えたのは悪かったけどさ。朝だと迷惑だった?」
「まさか。いつであろうとも、お前が私を訪ねてくれることは、とても嬉しい。我が弟」
「良かった。俺も会えると嬉しいよ。我が兄上」
微笑み合う兄弟たちの姿に、砂雪は唇を引き結んだ。静真と清春の間には、砂雪の入り込めない繋がりが在る。静真との間に血縁という絆を持つ清春が、羨ましくて堪らなかった。
「それで、早速だけど兄上に頼みがあるんだ」
「……次の戦の布陣か? 常々言っているが、私は戦場に出たことがない身だ。あまり、役に立てるとは思えぬが」
「謙遜は要らないよ。俺と違って、うちの軍師並みにあんたは頭が回るんだから。頼りにしてる」
「ふふ、褒めても何も出ないぞ」
「雪姫が美味い朝餉を出してくれるだろ?」
不機嫌な顔を隠さずに控えていた砂雪を見て、清春は笑う。
静真と同じ顔をしているというのに、彼は随分と陽気に笑うので、砂雪は胸の奥が酷く痛んだ。日の当らない場所で一生を終えるしかない静真と、太陽の下で栄光に駆けていく清春の姿は、あまりにも対照的だ。
仲の良い兄弟だと分かっている。たとえ、片方が――砂雪と同じように端女の子だったとしても、彼らには彼らなりの関係が在ることを知っている。
それでも、愛しい主の居場所を奪った清春を、砂雪は赦せないのだ。
◆◇◆◇
夕暮れ時を迎え、室の中には茜色が差し込む。
火鉢の傍に座り込みながら、砂雪は横になって書物を広げる静真を見る。いつもより血色の良い顔に、思わず安堵のため息が零れ落ちた。今日は調子が良い日らしい。
「今日は、清春は来ないのか?」
砂雪の視線に顔を上げた静真が、不意に唇を開いた。どうやら、ここ数日訪れていない清春のことが気になるらしい。
砂雪は、主の質問に敢えて答えることなく代わりに眉をひそめた。
「静真様は……、清春、清春と仰いますが、その名は静真様のものでしょうに」
黒塚清春の名は、本来、静真が元服を迎えたときに与えられるべきものだった。静真という名は幼名なのだ。
「砂雪は、悔しゅうございます。どうして、貴方様が不遇な目に遭わねばならぬのですか。あの男と来たら、貴方様の立場を奪っただけでは飽き足らず、跡継ぎまで生ませているのですよ」
「砂雪。清春を、あまり悪く思わないでくれ」
寂しげに眦を下げた静真に、砂雪は俯いて唇を噛みしめた。どれだけ彼に窘められても、砂雪は清春を好きになれない。
「……っ、砂雪は、あの恥知らずを赦せませぬ」
与えられるはずだったすべてを奪われ、捨て置かれ、病床で苦しんできた静真を見てきたからこそ、清春を認めることができない。
「酷い言い様だね、雪姫」
挨拶もなしに障子戸を開けた男に、砂雪は目を釣り上げる。今日も今日とて、無神経にも何の先触れもなしに彼は静真の元を訪れる。
「清春。あまり、砂雪を煽るな」
褥に横になっていた静真は、上半身だけ起こし呆れるように呟いた。
「雪姫が勝手に騒いでいるだけで、俺は悪くないよ。それより、調子はどう? ちょっとは良くなった?」
自身の兄に対してのあまりの馴れ馴れしさに、砂雪の頭に血が昇る。
「このうつけ! 誰に向かって、そのような口を利いているのですか!」
「身内にどんな口利こうが、俺の勝手だろ。兄上も気にしていない。黒塚の人間でもないあんたが口出すようなことじゃないよ、雪姫」
「……っ、それ、は」
確かに、砂雪は静真の世話をするために余所から連れて来られた人間だ。身代わりとはいえ、黒塚の血を引く男に対して、無礼を赦される立場ではない。
「清春、砂雪の言葉に気を悪くしたならば謝るが、この子は私の家族だ。二度と黒塚の者ではないなどと言うな」
静真に庇われたことで、砂雪は一瞬怒りを忘れ、恥じらいと嬉しさで頬を朱色に染める。その遣り取りを見た清春は、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「兄上は雪姫に甘いよ。まったく、こんな女の何処が良いんだか」
「私に下らぬ嫉妬を覚えるならば、もっと好かれる努力をすると良い。だから、お前は子どもなのだ」
「そんなこと言いながら、手を出したら怒るの兄上のくせに良く言うよ」
青紫色の唇で麗しく微笑む静真に、清春は溜息を零した。
「あーあ、折角、抜け出してまで兄上の様子を見に来たのに面白くない。……邪魔者は、本邸に戻ることにするよ」
「また、来てくれるのだろう?」
「当たり前だろ、俺は兄上の身代わりなんだから。だから、……早く、元気になれよ。ずっと、あんたの代わりを続けるなんて、こっちは御免だからな」
静真は、曖昧に笑んで目を細めた。
その表情を見た清春は、遣る瀬無さそうに顔を手で覆ってから、無言で室を後にした。
◆◇◆◇
廊下に出た砂雪は、身体の芯から痺れるような寒さに小さく息をついた。
静真の具合が悪くならなければ良いのだが、こういう日こそ油断ならない。彼は砂雪に心配をかけまいと無理をする癖もあるため、目を光らせて彼の様子を窺う必要があった。
「雪姫、雪姫。兄上、何処? 室にいないんだけど」
突如、背後から声をかけられて砂雪は足を止める。主に良く似た声だが、これは歓迎できない客のものだ。
「だから、先触れもなく来ないで下さいと申したはず……っ……!」
半ば怒鳴り声をあげるような形で振り返った瞬間、砂雪は目を見開いた。
「貴方、……その、怪我」
柱に寄り掛かって首を傾げている清春の小袖の胸元が、赤黒く滲んでいるのを砂雪は見逃さなかった。飛びつくように彼に駆け寄って、胸元に顔を近づける。今日の彼は黒地の小袖を着ているため分かりにくいが、間違いなく血の染みだった。
「ああ、滲んでた? 大したことないから、放っておけば……」
「……、こちらに」
「え?」
「こちらに来てください、早く!」
しなやかに筋肉のついた彼の腕を掴んで、砂雪は自室へと無理やり招き入れる。畳の上に彼を座らせて、自分は箪笥の中から目当てのものを探す。
「ゆ、雪姫?」
直ぐに見つかった晒しと白布に、砂雪は安堵の息をつく。
そうして、目を丸くしている清春の小袖の襟を掴んで、勢い良くはだけさせた。
「ええ、と、雪姫に迫られるのは嬉しいけど、昼間からは流石に俺でも問題あると思うよ……? 兄上もいるのに大胆だね」
目を細めて苦笑する清春の言葉を理解した途端、砂雪は羞恥で唇を震わせた。
「なっ……、何を莫迦なことを! 傷です、傷を見せてください!」
「おお、怖い。そんなに怒るなよ、冗談だって」
「貴方が言うと冗談に聞こえません!」
彼の胸元には、砂雪が予想した通りの刀傷があった。晒しを巻いていたようだが、思いの外出血が多くて緩んでしまっていたようだ。命にかかわるような深い傷ではないだろうが、決して浅いものではない。
傷口に白布を宛がって、砂雪は眉をひそめた。
「侍医は何をしているのですか」
「いや、自分で手当てしたから、侍医に責任はないよ」
砂雪が非難の目を向けると、清春は苦笑した。
「胸の上に古傷があるんだよ。こればかりは兄上と違うから、見せたら気付かれるかもしれない」
「だから、侍医に見せることができなかったのですか。こんなにも血が出ている傷を、自分一人で手当てして……?」
「戦場では、もっと酷い傷を負う。こんなもの酷いの内に入らない」
傷口に丁寧に晒しを巻き終えた砂雪に、清春は目を細めた。
「手当て、ありがとな。随分と手際が良い」
「昔、自分の怪我の始末をしていましたから。……貴方だって、知っているでしょうに。どうして、砂雪が静真様の元へ来たのか」
「雪姫」
清春が砂雪の頬に触れようと手を伸ばすが、砂雪は彼の手を咄嗟に弾いてしまう。
「姫なんて呼ばないで」
静真と出逢えたことは、砂雪の人生のなかで最も尊い奇跡だった。どれだけ願っても手に入らなかった家族と言う絆を、彼は幼い砂雪に与えてくれた。捨て置かれた子どもに手を差し伸べ、育み、愛しんでくれたのは彼だけだった。
それでも、異母姉妹たちのように姫君として大切にされる日々を、思い描いたことがないと言えば嘘になる。
「……悪かった。また、後日来るよ。兄上のこと頼む」
静真と同じ顔を曇らせて、清春は室を出ていった。
畳に座り込んだ砂雪が小袖の裾を強く握りしめていると、不意に影が落ちる。その影の主を、砂雪は知っている。
「静真様」
涙を滲ませた砂雪の頤を、細く滑らかな指先が優しく掴みあげる。袖から覗く青白い腕は、先ほどまで触れていた清春のものとは違うが、何よりも砂雪が望むものだった。
「砂雪。――あまり、清春を嫌わないでおくれ」
零れ落ちた砂雪の涙を払って、静真が眦を下げた。
「聡いお前は、十分に分かっているはずだ。清春は、望んで黒塚の嫡男に……、私の身代わりとなったわけではない。父上が無理やり、戦とは無縁の場所で幸せに暮らしていたあれを連れてきたのだ」
清春が、自ら望んで静真の地位を奪ったわけではない。
彼らの父である黒塚の当主が、身体の弱かった静真を跡取りとして不安に思い、入れ替えてしまったのだ。以来、静真は離れに隠され、代わりに連れ出された清春が黒塚の当主となるべく本邸で暮らしていた。
「もう、気付いているのだろう? あれと私が、双子だと」
静真の目が伏せられて、白磁の肌に長い睫毛が影を作る。寂しげなその顔は、室を去るときの清春に驚くほど似ていた。
「我が国で双子は忌むべきもの故に、父上は弟を――清春を遠縁に預けたのだ。あれと私を入れ替えることは、苦労しなかっただろう。驚くほど顔が似ているのだから」
穏やかに微笑む静真と、快活に笑う清春。
二人は対照的だが、その傾城の美貌は驚くほど同じなのだ。その上、彼らは国一番の美姫と謳われた生母にそっくりだ。腹違いの兄弟と言うには無理がある。
「父上も、悔いておるだろうな。私のような役立たずを黒塚に残すくらいならば、初めから清春を嫡男として扱うべきだった」
「……っ、そんなこと、仰らないで、ください」
自虐するような物言いに、砂雪は首を横に振る。彼自身の言葉であったとしても、そのようなことは聞きたくなかった。
「すまない、嘆いているわけではないのだ。この身体を不自由に思ったことは数えきれいほどあった。だが、……私にお前を与えてくれた、この不自由な身体を今はとても愛おしく思う」
静真は、砂雪の頬に指を這わせる。冷たく白い指が彼の儚さを現しているようで、砂雪は嗚咽を漏らす。
「私の、……私だけの砂雪。お前は、強いな」
強くなどない、と否定したかったが、静真があまりにも優しく笑うので何も言えなかった。
「お前は、まるで雪中の花だ。白雪の中で咲き誇り、春に命を繋ぐ花。寒さに凍えながらも、決して命を絶やさぬ強さを持っている」
静真が、砂雪の身体を強く抱いた。縋るような抱擁に、砂雪の眦から、また一筋涙が流れ落ちる。
「いつまでも咲いていてくれ、砂雪」
砂雪の視線の先では、雪に埋もれた水仙が庭先で花を咲かせていた。
◆◇◆◇
月の光さえも遮るような、酷い吹雪の夜だった。
荒れ狂う音を連れた冬風のせいか、火鉢の中で炭が爆ぜる音も聞こえない。
「熱が、……あがってきましたね」
静真の額に手を当てて、砂雪は眉をひそめた。凍えるような寒さが続く中、砂雪が懸念していた通り、静真は性質の悪い風邪にかかってしまった。
桶に汲んだ水に清潔な布を浸して搾り、目の前に横たわる麗人の額に載せると、砂雪の手首を静真が掴んだ。
「砂雪。……私は、もう、長くないな」
唐突に、青白い唇から零れ落ちた言葉に、砂雪は無理やりに笑みを作った。
「何を仰いますか。風邪ですもの、お休みになっていれば、必ず良くなります」
「そうではない。そのようなことを言っているのではないと、分かっているだろう? この風邪が治ったところで、……この身体は、持たない」
「熱で、心細くなっていらっしゃるのですね。大丈夫ですよ、砂雪がお傍におりますから……」
「砂雪」
駄々を捏ねる子どもを宥めるように、静真の声は厳しかった。
「死は、恐ろしくないのだ。物心ついた時から覚悟していた。不自由のない身体であったとしても、この戦乱の世、武家に生まれた者はいつ死ぬか分からぬ」
「……っ、縁起でもないことを」
「だが、お前だけが心残りだ。私が死ねば、お前は殺されてしまうのだろう?」
闇色の瞳で見つめてくる静真に、砂雪は目を見開く。
「何故、……それを」
「自ずと察せられることだ。黒塚の嫡男が入れ替わったことを知っているのは、父上と清春と、――砂雪だけだ。お前が死ねば、秘密は守られよう。憐れだな。私などの世話をしたばかりに、お前の命は奪われる」
自嘲する静真の手を、砂雪は強く握りしめた。これ以上、自分を貶めるような言葉を口にして欲しくなかった。
「……いいえ。違うのです」
憐れなのは砂雪ではなく、静真なのだ。砂雪には、彼に情けをかけてもらえるような価値はない。怯えから命ながらえる道を探した自分には、いつか静真が口にした、雪中に咲く花のような強さなどない。
「砂雪は憐れみを頂けるような者では、ありません。ただ、死にたくなかっただけなのです」
砂雪は、黒塚の同盟国の国主だった父親と端女の間に生まれた。高貴な血を継ぐ異母姉妹たちと違って、扱いに困る卑しい娘だった。
だからこその、砂雪という名だ。砂のように細かな雪は、直ぐに溶けて消えてしまう。直ぐに溶けてしまう雪になるように、父は願っていたのだ。
砂雪が静真の世話の話に飛びついたのは、少しでも自分の命を延ばしたかったからだ。父や他の家族の暴力に晒されていた砂雪は、国元に留まり続ければ命が危ういと知っていた。
「浅ましい、醜い心です。死を恐れるあまりに、砂雪は静真様を利用したのです」
「……それでも、お前は逃げ出さないのだろう。優しいお前は、私を見捨てられぬ」
砂雪の両肩に、縋るように静真は手を伸ばした。
「……っ、見捨てるべきだったのだ。そうすれば、お前の人生を縛ることはなかった。誰かと添い遂げて、幸せになる道もあっただろうに」
静真の言葉に、砂雪は迷わず首を横に振った。
そのような道が、もしかしたら、砂雪にも存在したのかもしれない。だが、砂雪がその道を選ぶことはない。
――静真の隣に在る日々は、幼い日に夢見て求め続けた、泣きたくなるほど愛おしい幸せだった。寄り添い、同じような傷を分かち合ってくれる人がいることで、虚ろな心はいつの間にか温かなもので満たされていた。
「いつまでも、お傍に。黄泉の果てまでも、砂雪は静真様と共にありましょう」
かつて、砂雪は生き長らえることだけを願った。己の運命と血を呪い、大切に慈しまれる異母姉妹たちを憎み続けながら、生きるために静真を利用した。
だが、たった一人の家族を得た今、ただ生きるだけの日々に何の価値があろうか。
静真のいない世界を生きるくらいならば、共に死した方が良い。
――彼以外の誰が、砂雪の傍にいてくれる。
大粒の涙を流す砂雪に、静真は決心するかのように一度だけ目を伏せた。
「砂雪、……私の、願いを叶えてくれるか」
静真は砂雪の背に腕をまわして、そっと自分の隣に横たえる。褥に仰向けになった砂雪の上に影が落ちる。
「酷い男で、すまない」
絹糸のような黒髪が頬に触れたと同時、砂雪は目を閉じる。
冷たい唇が、頬を、首を、胸を這う。彼の指先に少しずつ身体を暴かれながら、砂雪は夢のような一瞬一瞬を噛みしめる。
熱に浮かされる身体で、砂雪は小さく喘いだ。
――もう、終わっても良いのかもしれない。
このまま、雪のように彼に融けて消えるならば、どれほど幸せだろうか。静真が囁いてくれた、強く咲く雪中の花になれなくても良い。
共に、融けてしまいたい。共に、消えてしまいたい。
そうしたら、二人で幸せになれるような気がした。
◆◇◆◇
柔らかな光に目を覚ました砂雪は、隣に眠る人を起こさぬように、畳に投げ捨てられた小袖を纏った。
障子戸を開けると、庭には冬晴れの空から淡い光が零れ落ちている。昨晩の吹雪が嘘のような光景に砂雪は目を細めた。
「直に、春が訪れるな。お前が私の元へ来てから、七度目の春が」
背後からまわされた腕が、砂雪の身体を抱き竦めた。背中から伝わる熱が、冷えた身体に温もりを分け与えてくれる。
「起きていらしたのですか、静真様」
耳元を擽る吐息に砂雪が身体を捩ると、静真が小さく笑う。
「出逢った時は幼子だったというのに、いつの間にか、お前は美しくなった」
静真に髪をかき上げられ、首筋に冷たい唇が落とされる。心地よい痛みに、砂雪は目を伏せた。
「ずっと共に生きていけたら、どれほど幸福だろうか」
静真の言葉に、砂雪は微笑む。
叶わぬ願いだと知っていても、夢を見たかった。
「砂雪はずっとお傍にいますよ、静真様」
――その三月後、春の終わりとともに、静真は眠るように息を引き取った。
燦々と輝く太陽が照らす庭には、春を連れ去る初夏の匂いがした。青く瑞々しい木々の緑さえも、今の砂雪には色を失ったように感じられる。
喪服の胸元を強く握りしめて、砂雪は願う。時が戻るならば、どうか、隣に彼がいた凍てつく冬へ誘ってほしい。
「静真、様」
静真の葬儀は行われず、入れ替わりの秘密を守るために遺体は秘密裏に焼き尽くされた。骨の欠片さえ、灰の人握りさえ、砂雪たちには遺されなかった。
「雪姫」
畳の上に座り込んだ砂雪を、清春が静かに見下ろしていた。亡き人に良く似た面差しに、堪えていた涙が溢れ出す。
「……ねえ、いつ、いつ、殺してくださるの?」
何も、見えない。確かに在ったはずの彼が遠くなって、伸ばした手が何度も空を切る。
砂雪が縋るように口にすると、清春は顔を歪めた。
「殺さない。兄上の望みだ、お前は生きろ」
清春の言葉に、砂雪は首を振る。
「……っ、あの方のいない現世に、何の、意味がありましょうか! 殺してください、黄泉に渡ろうとも、……砂雪は静真様と共に、いる、と」
「なら、どうして、お前は自害しない」
喉の奥から絞り出すような清春の声に、砂雪は動きを止めた。
「知っていたよ。お前の胎に、
ややがいることを、兄上は知っていたよ」
目を見張った砂雪に、清春は眉を下げた。彼は震える手を伸ばして、砂雪の肩を強く掴んだ。
「兄上は、お前を心から愛していた。だから、お前に生きていてほしいと、いつも言っていた」
「……、っそ、んなの、砂雪も、同じです」
ただ、穏やかに、幸せに生きていてほしかった。彼を連れて逝ってほしくなかった。叶わぬ夢だと知りなら、――新しい家族を迎えて、三人で幸せになりたかった。
「大切にする。だから、生きてくれ。前と同じように、兄上の居場所を奪った俺を蔑んでくれよ、……、なあ、
砂雪」
清春は寂しげに呟いて、砂雪の身体を強く抱きしめた。
◆◇◆◇
雪花が舞う庭を眺めていた砂雪は、近づいてくる愛らしい足音に口元を綻ばせた。
「母上、母上! きよはるが、来たよ!」
この寒さの中、無造作に小袖を纏い袴を穿いただけの青年が、幼女に腕を引かれて姿を現す。
既に多くの女を囲い、何人もの子を持つ父親であるというに、随分と若々しく見える。あの人に良く似た傾城の美貌は、そのだらしなさのせいで随分と印象が違って見えた。
「……、雪姫。こいつ、俺のこと父上って呼ばないんだけど」
「だって、わたくしの父上は、しずま様だもん!」
「いや、間違ってないけどさあ。俺だって、お前の父親だって」
不服そうに唇を尖らせた清春に、砂雪は目を細める。
愛らしい幼女の本当の父親は、おそらく、誰にも分かりはしない。誰もが、黒塚清春の側室――砂雪が生んだ娘を、清春の子だと思うだろう。
前当主が亡くなった今、娘の出生の真実を知るのは砂雪と清春だけだ。
「ねえ、静真様。貴方は、真に幸せでいらっしゃいましたか?」
誰もいない庭園に咲く花に、砂雪は問いかける。
彼が砂雪のようだと言ってくれた水仙が、凍えるような寒さに負けることなく、雪の中に咲いている。
「幸せだったに決まってるだろ。美人な嫁を貰って、可愛い可愛い娘まで授かったんだから。黄泉の国で、菩薩みたいに微笑んでるだろうよ」
「……、もう。貴方には聞いていません」
砂雪は苦笑して、畳の上で胡坐をかいた清春を見る。その膝の上には、甘えるように彼の胸にすり寄る娘の姿が在る。
何も見えない、彼が遠くなったなんて、嘘だった。
穏やかに流れる時の中で、静真が遺してくれたものたちが砂雪の周りには溢れている。
「愛しています。いつまでも」
雪の中で春を告げ、咲き誇る花のように生きよう。
――、いつか辿る黄泉路の先で、微笑む貴方に手が届くまで。