春告姫
三の章 07
その日は、朝からひどく雪が降っていた。
吹き荒れる風は冷たく、時折、美春と咲哉のいる御帳台にまで流れてくる。
横になった咲哉は、額に脂汗を滲ませていた。
十二歳の美春と同じくらい小柄な身体は、熱に浮かされて、いつもよりさらに儚く見えた。柔らかな布で汗を拭ってやると、ほんの少しだけ楽になったように、彼は頬を緩める。
「どうして、お前が泣きそうなの? 苦しいのは僕なんだけど」
がらがらに掠れた声で、咲哉は心底不思議そうにつぶやく。焦点の定まらない彼の目で、今にも泣きだしそうな美春が揺らいでいた。
「咲哉が、苦しいから」
できることならば、代わってあげたかった。病がちな咲哉と違って、美春ならば熱に負けることはない。
「情けない顔するなよ、こっちまで嫌な気分になる。――熱が出るのは悪いことじゃないんだろ? お前が言っていたように、悪いものを退治するため。僕が戦っている証だ」
唇の端をあげて、咲哉は無理に笑ってみせた。出逢ったばかりの頃、熱で臥せった咲哉に話したことを、彼は憶えていたらしい。
「……っ、うん。咲哉は強いから、悪いものをやっつけて元気になるよ。絶対に」
熱は戦っている証。
悪いものを追い出すために、咲哉の身体が頑張っている。頑張っているうちは、彼が死出の旅に向かうことはない。
まだ、美春の手は、この少年を繋ぎ止めることができる。
「無責任な言葉、いつものことだけど。どうせ、元気になってもすぐに寝込むことになる。僕はいつになったら楽になれるわけ?」
楽になるという言葉は、死んでしまいたい、という意味だ。冗談とも本音ともつかぬ言い方が、美春には恐ろしくて堪らなかった。
「だめ! 咲哉は、春宮なんでしょ? いつか帝になるんだよね? この国を守るんだって、女房も言っていたよ」
「帝なんて、僕でなくとも良い。必要とされているのは、この身に流れる血だ」
「そんなことない! それに、冬が明けたら、鯉に餌をあげるって約束したよ! 枇杷も食べていないし、山までお花見にも連れていってくれるって」
次から次へと咲哉との予定を連ねていくと、彼は呆れたように溜息をつく。
「そんなの他の者たちとすればいいだろ」
「咲哉じゃなきゃ嫌。春になったら、ぜんぶするの」
「春、ね。……今年の冬は明けるのかな。こんな季節、大嫌いだよ」
紙のように白い面で、彼は零した。
雪国で生まれ育ったからだろうか。美春には、彼の口にした嫌いの意味が分かる。
真白の雪は美しく、清廉とした冬の空気は何処までも澄んでいる。月明かりに照らされた雪原を前にすれば、呼吸を忘れるほど魅入られる。
されど、それは冬が見せるほんのわずかな優しさに過ぎない。
「怖いもんね、冬は」
美春の知っている冬は、暴虐そのものだった。
水気を孕んだ重たい雪に足をとられ、荒れくるう風に皮膚や目をなぶられ、呼吸をする度に肺腑の奥に爪を立てられる。やっとのことで温めた熱さえも奪われて、指先から冷えていく感覚は緩やかな死に似ていた。
冬は恐ろしく、何処までも不毛である。
「そう、怖いんだよ。僕たちは、ずっと冬が怖かった。明けない冬の訪れを、いつだって恐れている」
明けない冬。永久に冬が続くことを、咲哉は怖がっている。
美春は冷え冷えとした彼の手に熱を与えるよう、もう一度、強く握った。
「大丈夫。春は来るよ。咲哉だけ置いてけぼりになんてしない」
かたく凍りついた冬野に囚われても、どれほどの命が枯れ果てたとしても、いつか雪解けの季節は訪れる。眠りに落ちていた命は芽吹いて、柔らかな春風に花々は綻ぶだろう。
美春の大好きな桜とて、大振りの花房を揺らしながら笑ってくれる。
「嘘つき。僕は冷たい冬に抱かれて、きっと春など知らぬまま死んでいく」
吐息に毒を滲ませて、咲哉は自嘲した。
◆ ◆ ◆
暗がりの室で、美春は擦り切れたセーラー服を脱いだ。
桶に張った水に布を浸し、泥だらけの身体を拭う。あちこちに水が沁みて、その痛みに、心が少しずつ研ぎ澄まされていく。
身を清めた美春は、緋色の打袴、淡い単衣を着ると、仕上げに桜襲の袿を羽織った。
深呼吸をひとつして、脱いだばかりのセーラー服のポケットから箏爪を取り出す。
こちらに戻ってくる直前、祖母から譲り受けた箏爪は、嘘か真か、美春たちの先祖である姫君――桜に娶られた女性の形見なのだと言う。
料紙で爪を包むと、肌身離さぬよう袖口に仕舞う。
そして、汚れたセーラー服ごと、生まれ育った世界への未練を衣装櫃に閉じ込めた。
「馬子にも衣裳だな」
几帳の影から出ると、待ち構えていた柊が厭味をぶつけてくる。
よほど腹に据えかねているのか、昨日よりも刺々しい態度だった。こちらの方が、彼にとっては素の性格なのかもしれない。
「怒っているの? 逃げたこと」
「怒っていないと思うのか? 逃げ出しただけでなく、帝の腕まで壊しておいて。罰せられないだけ感謝しろ。あの方も甘いな。お前になんて、優しくする必要もないだろうに」
「甘い? あの人は咲哉を殺したのに」
「……帝が、そうおっしゃったのか。春宮を殺したのは《桜姫》だろうに」
腑に落ちないといった様子で、柊は肩を竦めた。
「さくら、ひめ?」
「役目から逃げ出した、神祇庁の女だ。そんな女を愛したが故に、春宮は死ななければならなかった。帝が殺したわけじゃない」
「神祇……、咲哉の傍仕えをしていた?」
咲哉の周りにはべっていた男たちは、《神祇官》という役職だったはずだ。桜姫がその一員であったならば、咲哉の近くにいた女性なのだろう。
――咲哉の愛した、咲哉を殺したという人。
美春は、自分が現代に戻ったあとの咲哉を知らない。
美春がいなくなってから、彼は美春とは別の人に想いを寄せ、そして死んでしまったのだ。
美春ではない誰かを愛した咲哉も、彼に愛された女性も憎らしい。
会いに来なかったのは美春だというのに、身勝手にもそう感じた。
「正確には、桜花神に仕えていた連中だ。春宮の傍仕えをしていたのも、職務の一環に過ぎない。もともと皇族の管理をしていたのは、俺みたいな傀儡子ではなく、神祇官の奴らだったからな」
「管理なんて、嫌な言い方」
「事実だ。皇族の血を絶やさないことも、奴らの務めだった。何も知らないんだな、本当に」
「それは!」
余所者だから仕方ないと訴えそうになり、美春は口を噤んだ。いつまでも蚊帳の外で、自分には関係ないと拒むわけにはいかない。
美春は決めたのだ。神域に囚われた咲哉に会うために、死んだ彼の骨を拾うために、帝たちに協力することを。
「なら、いろいろ教えてよ。ばかにする前に。それとも、自分がなんにも教えられないから、ばかにすることしかできないの」
「調子に乗るなよ、小娘」
額に青筋を走らせて、柊は声を低くした。
「乗っていない。いい大人なんだから、そういう子どもっぽい真似は止めたら? あなたの言う、こんな小娘に意地悪しないで!」
「春宮」
短く伝えられたその響きは、容赦なく美春の胸を抉った。
「意地の悪いこともしたくなる。会いたかった男が死んだのに、のうのうと生きていられる薄情な女に、どうして優しくしてやらなければならない。俺はお前みたいに身勝手な女が、いちばん嫌いなんだ」
柊は真っ向から美春を糾弾した。踵を返した彼の言葉が、頭のなかで反響する。
「……のうのうとなんて、生きていない」
立ち止まってうずくまっていることが、正しいとは思えないだけだ。
こちらの世界と、生まれ育った場所。どちらも選べず迷っているうちに咲哉が死んでしまったならば、もう美春は迷いたくない。
「着替えは終わったのか」
柊と入れ替わるようにして現れた帝は、昨日と打って変わり、直衣ではなく狩衣姿だった。かつての咲哉がそうであったように、首が詰まっているのが苦手なのだろう。狩衣の下に着ている単衣の襟元は、少しばかり緩められている。
美春と会うなり、彼は興味深そうに目を細めた。
「なに?」
不躾な視線に居心地が悪くなり、美春は語気を強めた。
「その衣で正解だったな。お前には薄紅が良く似合う」
『美春には薄紅が似合う。春の色だから』
唐突に過去がよみがえり、美春は喉が渇くのを感じた。
かつて、同じことを口にした少年がいた。桜の飾りを美春の髪に挿して、彼は笑った。
動揺する美春に気づきもせず、帝は両手を伸ばしてくる。
「似合っているが、袿は頭から被った方が良い。これから外に出る。お前の瞳は目立つ」
彼は美春の羽織っていた袿を摘まんで、そのまま頭に被せてきた。布地で視界が狭くなった直後、拳ひとつもない距離に帝の顔が迫っていた。
染みひとつない、石膏のようになめらかな肌をしていた。咲哉の目元にあった黒子はなく、柔らかな産毛すら生えていない。
一度だけ瞼を下ろして、美春は己の心に言い聞かせる。
ここにいるのは咲哉ではない。また、柊の言っていることが真実であるならば、咲哉を殺したのも帝ではない。
帝は咲哉を殺したと言ったが、直接、手にかけたとは口にしていない。
何より、咲哉の死を悔いているのは、この人も同じだった。そうでなくては、どうして、あんなにも悔いるような表情で、泣いている美春に手を伸ばしたのか。
いまだに傀儡のことは恐ろしいが、帝への怒りは、もう湧かなかった。
「外に出るのは、神域の門を開くため?」
今はただ、咲哉の遺体を神域から取り戻すため、できることをするのだ。
「そうだ。門を開くための道具を取りに行く。皇族の血が途絶えた今となっては、あれに触れることができるのは異姫だけだからな」
「待って。いま、血が絶えたって」
こともなげに伝えられた事実は、聞き流すには不穏過ぎた。
「ああ。皇族の血が絶えたからこそ、私のような傀儡が帝となり、皆を欺くことになった」
「みんな、騙しているの?」
どれほど人と似通っていても、帝は傀儡である。誰かの操り人形。おそらく、柊の操る木偶に過ぎない。
帝は苦笑いを浮かべた。
「言えるはずもない。皇族の血肉こそ、この国を守るために必要なものだったのだから」
皇族の血肉が、国を守る。
神域の門を開くことができるのは、皇族の血が流れる者だけ、という意味だろうか。
だが、異姫もまた、皇族と同じように、神域の門を開くための道具に触れることができる。さきほど、帝はそのように示唆していた。
「神域の門を開くための道具って、何処にあるの?」
「神祇庁だな、まずは」
神祇庁。咲哉を殺したという桜姫が所属していた場所だ。
帝に勘付かれないよう、美春は拳を握った。
――きっと、咲哉の死には、美春の知らない真実が隠れている。
神域で咲哉が死ぬ前、いったい何が起きたのか。おそらく、桜姫と呼ばれた人が深く関係していることなのだ。
「あのね。わたし、こっちのこと何も分からないの」
咲哉と暮らしていたとき、内裏は美春にとって庭だった。苦言を呈す者もいたが、咲哉の赦しもあり、好き勝手に駆けまわったものだ。
だが、内裏の外のことについては分からない。
「おいで」
帝は文机の前まで移動して、美春を手招きした。
墨をすった彼は、適当な和紙に筆を滑らせていく。描かれていくのは、まるで碁盤のように縦横に線が伸び、いくつもの正方形が組み合わさった図だった。
「京の、地図?」
美春は、似たような地図を目にしたことがあった。鏡に映したかのように、歴史の教科書に載っていた平安京とそっくりだ。
「私たちのいる内裏は、神域を守るために、最も奥まった場所にある。昔は神祇庁も内裏のなかにあったのだが、今となっては真逆の地にある」
帝の指は、地図の上部にある内裏から、真っ直ぐに大路をくだっていく。
「京の入り口なんだね」
地図上にある《神祇庁》は、京の入り口と重なっていた。
「今の神祇庁は、門番の役目も果たしている。この場所は、ほとんど唯一と言っても良い京への入口だからな」
「唯一なの?」
「ほとんど、な。もともと京は山々に囲まれている。今となっては、冬枯れの呪いのせいで雪山だ。人の身で越えるのは厳しい。辛うじて、京の門のあたりは険しい山ではないから、余所からも辿りつけるだろうが……」
最後、帝は言葉を濁したが、京の状態をぼんやりと想像するのには十分だった。
今の京は、外から入ることの難しい土地となった。
冬に呑まれ、異形の蔓延る雪山を超えることは厳しい。そこまで険しくはないという、京の門の付近にある山とて、越えるのは簡単ではないのだろう。
百五十年前、美春はこの国について知らないことばかりだった。故に、今と昔の差異をすべて理解することは難しい。
ただ、美春が戻らなかった間、様々な出来事が起きたのだろう。
冬枯れの景色をはじめとして、神祇庁が内裏から移動したことなど、あちこちに美春がいた頃との違いが溢れている。
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