春告姫

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  三の章 09  

 神祇庁は、朱雀大路の終わりに位置している。京の門も兼ねているその場所は、美春の想像していた平屋ではなかった。
 小高い丘、なだらかな山と言っても過言ではないかもしれない。
 京が山に囲われていることは教えられていたが、まさか門までそうだとは思わなかった。まるで何者かが京へと侵入するのを拒むかのようにそびえている。
 丘の頂上まで続く石段を前にして、美春はげんなりする。
 この先に神祇庁があるらしいが、石段の先はほとんど何も見えず、わずかに檜皮葺の屋根が覗いているだけだ。
「ふうん、それで走ってきたの? 帝。あなた、激しい動きは止めた方が良いと思うけれど。とてもふるいんだから」
 美春たちを出迎えてくれたのは、柊の傀儡である八重と、その後ろに立つ女性だった。旧いと称された帝は、わずかに頬をひきつらせる。
「つくられて十年のお前からしてみれば、どんな傀儡も旧いだろうよ。柊は、もう神祇庁に入ったのか」
「うん。はくと揉めたんだけどね。最後には向こうが折れて、なかに入れてくれたよ」
「伯って、何?」
 帝の袖を引いて尋ねると、彼は苦笑した。
「神祇庁でいちばん偉い役職とでも思っておけ。伯も丸くなったのか? 揉めたとはいえ、柊をなかに入れるとは」
「異姫が来るって、言ったから。異姫を求めているのは、神祇庁も同じでしょう? だから、神祇庁のなかにも入れてくれた」
「美春のことを話したのか」
「もう隠しても意味はないから。いくら帝が隠したくても、昨日、荷葉かようが内裏に来た時点で、異姫のことは筒抜けだったもの。……僕、柊のところに戻って、あなたたちの到着を教えてくる。案内は荷葉がしてくれるって」
 八重は軽やかに石段を駆けのぼっていく。
「久しいな、荷葉」
 八重の後ろに控えていた女性が微笑む。艶のある黒髪が印象的な美しい女だった。
 覚えのある顔だったので、美春は声をあげそうになる。
 内裏で帝から逃げていたとき、曲がり角で衝突した相手だ。
「ええ、最後にお会いしたのは、何年前のことでしょうか。ことの次第は、柊兄さまからお聞きしました。こちらにどうぞ、伯がお待ちしております」
「兄、さま?」
「兄妹だ。顔立ちが似ているだろう」
 帝がささやく。目元など柊と似ていたが、美春は首を捻った。
「どっちかと言えば、八重と似ているかも」
 もともと柊と八重は似ている。そのため、柊と荷葉が似ているのも間違いではないのだが、そっくりなのは八重と荷葉だ。
 八重の性別を変え、年頃の娘にすれば、おそらく荷葉になる。
 帝はわずかに目を見張った。
「鋭いな。たしかに八重との方が似ている」
 石段をのぼりきって、美春たちは神祇庁に通される。丘のうえに建てられた以外、つくりは内裏とそう変わったものではないらしい。
 板敷きの廊に丸柱、遠くには築山のある庭が見えた。
 廊には、食事の膳などを持った女房たちが行き交っていた。皆、同じ顔立ち、同じような能面の顔を張り付けている。
 こんなところにも傀儡がいるのか、と背筋が粟立つ。
 以前、美春がこちらにいたときは、傀儡の影などなかった。しかし、今では人々の生活のあちこちに傀儡が溶け込み、当たり前のように存在している。
 自分たちとそっくりの人形と暮らすことに、忌避感を抱かないのだろうか。
「人がいないな。皆、出払っているのか」
「いいえ。今宵は御霊会ですので、社殿で準備をしております」
 御霊会、と美春は心中で繰り返す。御霊とは祟る魂のことで、非業の死を遂げた者を慰めるために御霊会は開かれる。咲哉からそう教えられていた。
「まだ、そんなくだらないことをしていたのか」
「ここにいる者たちは、皆、祟りを恐れておりますから。百年以上も続けてきたことを、いまさら止めさせますか? あなたの我儘で」
「……好きにしろ」
「ええ。好きにさせていただきます。――はく、異姫をお連れしました」
 やがて、美春たちは大きな庭に面した室に案内される。
 脳裏を過ったのは、神社にある祭壇だった。
 特別な者しか足を踏み入れることを赦されない、御神体を祀った場所とよく似ている。室礼は整っており、火鉢や几帳、二階棚なども置かれているが、厳かで近寄りがたい雰囲気が漂っていた。
 最奥には神棚のようなものが構えられて、傍には小柄な男がいた。
「よく、いらっしゃいました」
 彼はわずかに皺の寄ったまなじりを緩めた。
 若々しい男だ。外見だけならば二十代の半ばにも見えるが、まなじりの皺を考えるともう少し年上かもしれない。弓なりに垂れた目と波打つ茶髪は甘く、大人の男性にもかかわらず、小動物のような印象を受けた。
「久しいな、伯。いつぶりだ?」
「十年といったところですねえ。あなた様が、あのいけ好かない傀儡子を迎えた頃から、ずっとお会いしておりません。まあ、それ以前も、あなた様が内裏から出てくることなど、滅多にありませんでしたが」
 伯は肩を竦めて、厭味ったらしく言う。案外、口が悪いようだ。
「赦せ。お前と争うつもりで、ここに来たわけではない」
「相変わらずつれない方だ、少しのお喋りさえ付き合ってはくれないのですか。――御所望の品なら、こちらです。前に使われたときから、ずいぶんと時間が経過しているわけですから。確認のために、慌てて旧い記録を引っ繰り返す羽目になりました」
「ああ。お前たちが内裏から盗んでいった記録か」
「はあ、百年以上も昔のことを根に持つのは、お止めくださいって。俺なんて、生まれてすらいませんよ」
 そう言った伯が身体をずらすと、神棚に納められているものが露わになる。
「箏爪?」
 神棚のなかには、宙に浮かぶようにして、象牙の箏爪があった。
「桜に娶られた女の形見だ。この爪と、箏によって神域の門は開かれる。箏は、神祇庁ではなく別の場所にあるが」
「まあ。箏も遺っているのですか? てっきり、形見は爪ばかりかと」
 美春よりも先に、後ろに控えていた荷葉が声をあげた。
「なんだか、すぐに盗まれそう」
 あまりにも無防備に置かれた箏爪は、簡単に盗むことができそうだった。
「あはははっ、そう思うのは無理もないでしょうけど。盗むのは難しいかと思いますよ? この爪は、神祇庁がここに移る前から、この地に保管されていたものです。百年以上も昔、春宮がこの地に隠してから、ずっと無事だったわけですよ」
「伯の言うとおりだ。盗まれることはない。見ていろ、誰もが神域に至れなかった理由を」
 咽喉を震わせた帝が、おもむろに箏爪に手を伸ばした。
 瞬間、激しい火花が散って、帝の指先が不自然な方向に曲がる。
「何やっているの!」
 涼しい顔の帝と違って、美春は青ざめた。
 火傷したように色づき、関節とは真逆に曲がってしまった指を、帝は無理やり直そうとしていた。無理な力を込めているためか、ギチギチと嫌な音を立てながら、指の関節はもとの形に近くなる。
「どうした?」
「どうした、じゃなくて! なんで、こんな自分を痛めつけるようなこと」
「痛みなどない。人と違って、傀儡は直る。腕がとれても、指が曲がっても。お前とて知っているだろうに」
「それはっ……、それは、違うよ! 直るからって、壊れていいわけじゃないよ。大事にしないと、だめ」
「そんなことよりも……」
「そんなことじゃない!」
 詰め寄る美春に、帝は困ったようにまなじりをさげる。
「分かった、私が悪かった。それで良いから、箏爪に触れてみろ。この爪が触れるのを赦すのは、異世の血肉だけだ」
 やりきれない想いを抱えたまま、美春はためらいがちに爪に触れようとする。帝の言葉が本当ならば、異世で生まれた美春が拒まれることはない。
 さきほどの光景が頭のなかで何度も再生される。触れてしまえば、火花が散って、美春も帝と同じような傷を負うかもしれない。
 浅く呼吸を繰り返し、やっとのことで伸ばした指が箏爪に届いた。
 思わず、安堵の溜息が零れてしまう。
 先ほど帝を拒絶したことが嘘のように、箏爪は美春を受け入れていた。
「本当に、異姫なのですね」
 哀しげな荷葉の声が、室に響いた。
「疑っていたのか。内裏にまで、探りに来ていただろうに」
「異姫は、神祇庁にとっても重要な存在ですから、探りもします。……でも、本当に異姫が現れたなど、信じたくなかったのかもしれません。今さら現れても、失われた土地や命は還ってきません。もう、あの子は助からない。ようやく冬が明けるのに、喜ぶべきことなのに、少しだけ哀しいのです」
 美春は胸がつかえるのを感じた。
 神域への門を開いて、桜の病が治れば、すべて上手くいくものだと信じていた。しかし、実際は異なり、取り返しのつかないことはすでに山ほどあるのだ。
 荷葉は、きっと、大切な人を冬に呑まれている。
 今さら春が訪れたところで、死者はよみがえらない。神域に打ち捨てられた咲哉と同様、喪われた命は戻らない。
 美春はうつむいて、箏爪から手を引いた。
「死んだ命は助からないが、これから死にゆく者は助けられる。哀しいばかりではない。私たちのもとにも、春告げ鳥は現れた」
 春告げ鳥。咲哉は、美春のことをそう呼ぶことがあった。その呼び方が、美春は嫌いではなくて、むしろ誇らしかった。
「辛気くさい話は、終わりにしても? カビが生えてきそうだ」
 黙り込んでいた伯が、両手を叩く。彼は身を乗り出して、美春の顔を覗き込んだ。
「異姫。あなたを歓迎しますよ。これで俺たちは、愛しい桜のもとへ帰れるかもしれない。こんな穢れた門など捨てて」
 柔らかな笑みを浮かべながらも、言葉には棘があった。まるで今の神祇庁そのものが不本意で、気に食わないと言わんばかりだ。
 美春を庇うように、帝が一歩前に出る。
「美春。少しだけ、外してもらえるか。荷葉と一緒にいると良い」
「え? でも、帝は」
「俺は伯と話がある。荷葉、構わないか」
「これから伯の引っ繰り返した文書を仕舞うので、あまりお構いはできませんけれど。それでもよろしいなら、異姫をお預かりいたします」
「勝手に決められても困るんですけどねえ。俺だって、異姫と話したいのに」
 伯が唇を尖らせると、荷葉は苦笑した。
「校倉の文書を広げたままでよろしいなら、そうしますよ」
「それは困る。他の連中に見られると困ることばかり書かれているんだから。あれは、俺とお前くらいにしか触らせられない」
「お分かりなら結構です。異姫、こちらへどうぞ。爪の受け渡しは、また明日にでもいたしましょう。今宵は御霊会で、神祇庁も立て込んでおりますので……。お部屋をご用意しますから、柊兄さまたちと一緒に、お泊りになってください」
「ああ。それが良いね。どうせなら、異姫を御霊会に参加させようか」
「え?」
「箏を弾いてくださいよ。あなたには、それが赦される」
 意味が分からず帝を見遣ると、彼は首を横に振った。
「私の顔色など窺う必要はない。弾きたいのならば、そうしろ。箏は嫌いか?」
「ううん、大好き。あの、わたしにできることなら」
「ありがとうございます。異姫、こちらへどうぞ」
 荷葉に続いて歩きはじめた美春は、一度だけ振り返る。目線に気づいた帝は、美春の不安を和らげるように微笑んだ。


 校倉は、所せましと並べられた文書で足場がなかった。
 手際よく片付けはじめた荷葉の横で、美春は床に広がった文書を読む。
「さくら、ひめ?」
 わずかに見えた単語に、思わずつぶやいてしまう。かなり崩された字だったが、たしかにそう書かれている。
「まあ、読めるのですか? てっきり、異世の人間は読めないとばかり」
「昔、ちょっとだけ教えてもらったから。そっか、記録が残っているんだね」
 美春が戻らなかった百五十年間について、憶えている人間はいないだろう。咲哉に仕えていた女房や神祇官たちは、とうに寿命を迎えている。
 しかし、百五十年前のことは、記録として残されているのだ。
「はい。神祇庁は桜花神に仕えておりますから、神に纏わる記録を遺すことも役目のひとつです。国生みから今に至るまで、私たちは絶えず記録を残してきました」
「その記録を、内裏から盗んだの?」
 伯に向かって、帝はそう言っていた。神祇庁が内裏を捨て、京の門へと移ったとき、すべての文書を盗んでいったのだろうか。
「もともと神祇庁のものなので、盗んだ、というのは正しくはありません。内裏に遺したところで、記録が絶えてしまうだけだったでしょう。それこそ、大昔のように。この国には、桜花神が現れる前の記録はありませんから」
「ないの? 桜が現れる前の記録」
「ありません。この地は、すべて冬に呑まれていましたから。遠い昔、この地は冬枯れの呪いに負けて、滅んでいるのですよ。その呪いを退けたのが、異世から現れた神です」
 もともと、この地には何かしらの国があり、民族が暮らしていた。しかし、冬枯れの呪いに負けて、一度はすべて滅んでしまったのだろう。
 そうして、すべてが滅んだ冬景色に、異世の桜が現れた。桜は冬枯れの呪いを退け、この国に四季を与え、現在の国の礎となった。
「なら、今の状態は、もとに戻ろうとしているだけなんだね」
 異世の桜がつくりあげたこの国は、桜が病にかかったことで、もとの状態――冬に還ろうとしているだけだ。
「ええ。けれども、一度滅んだからと言って、もう一度滅びたいと思いますか? あたたかな季節を知ったら、もう冬には戻れません。……桜姫さえ逃げなければ、今もこの国は守られていたのですから」
 桜姫。
 また、その名前だ。彼女は、どのような女性だったのだろうか。
 こちらにいたとき、咲哉は美春にとても良くしてくれた。桜姫が彼の愛した女性であるならば、美春など比べようもないほど、彼に大切にされていたはずだ。
 咲哉は、桜姫にも笑いかけたのだろうか。
 ――もう一度、名前を呼んでほしいと願ったあの声で、桜姫に愛を囁いたのか。
 想像しただけで、肺に鉛でも詰められたかのように、息ができなくなった。
「咲哉は……、むかしの東宮は、桜姫を愛していたんだよね? 咲哉から大事にされていたのに、逃げるなんて、ひどいよ」
 愛されていながら、咲哉の想いを裏切り、彼の死を呼び込んだ女。
「その娘は、いつも春宮の傍にいた。幾度、離れるよう啓しても、頑なに拒まれた。いつか御心を痛めることになると知りながら、娘だけは離さなかった」
 荷葉は憂いを帯びた声で、床に広げられていた文書の一部を読み上げた。
「桜姫については、あちこちに記録が散見されます。それらを眺めれば、彼女がどれほど春宮から愛されていたのか分かるというのに、あろうことか彼女は逃げた。そして、春宮は死に、皇族の血も途絶えてしまったのです」
「その、血が絶えたっていうの、本当なの? 親戚くらい、いたはずだよね」
 よくよく考えてみると奇妙な話だ。咲哉が死んだところで、皇族の血を継いだ者は他にも残っていたのではないか。
「もちろん、桜花神の血を引く者はおりました。けれども、その血は、皇族としての役目を果たすことができないほど薄れていたのです。神域の門を開けない者たちなど、皇族ではありません。……間抜けなことに、神祇庁がその事実に気づいたのは、春宮が亡くなってからのことですが」
 だから、美春という異姫が現れるまで、神域の門を開くことができなかった。
 皇族の血が薄い者たちは皇族とは呼べず、神域にも至れない。門が開かれなければ、病に冒された桜を治すこともできない。
 そこまで考えて、美春は首を傾げた。
「神域の門を開けば、桜の病は治るんだよね?」
「ええ。皇子か、あるいは異姫が力を与えることで、病は治るでしょう」
 力を与える。あまりにも抽象的な表現だった。
 思えば、美春は具体的なことを何一つ教えられていない。神域に行ったあと、桜の病を治すために何をしなければいけないのか。
「何も教えてもらっていないのですか? お可哀そうに。帝も柊兄さまも、都合の悪いことはすぐ隠しますから。神祇庁ならば、きちんと教えて差しあげるのに」
「荷葉さんは、何を知っているの」
「あなたが神祇庁を選んでくださるのなら、すべて教えて差しあげますよ」
 荷葉は掌で口元を隠すと、ころころと笑った。



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