春告姫
終章 春告げの娘
麗らかな陽気に包まれて、美春は小さく欠伸をした。
鶯の声を耳にしながら、簀子に座って庭を眺める。高欄から足を垂らして船を漕いでいると、ぱしゃり、と水の跳ねる音がした。
白砂の敷かれた南庭のさらに奥、池に架かった反橋に人影があった。朱塗りの橋に佇む青年は、美春とそう歳の変わらぬ容貌をしていた。
美春は南庭に飛び降りて、そのまま橋へと駆け寄った。
「咲哉」
鯉に餌を与えていた彼は、美春に気づいて目を細めた。美春、と形の良い唇が紡いで、それだけで温かいものが胸いっぱいに広がる。
「調子はどう?」
咲哉はあいかわらず透き通るような肌をしていたが、記憶にある病的な生白さはない。
今の彼は、病弱だった頃が嘘のように健康的な身体を得た。死に怯えていた皇子は、桜の神とともにあった百五十年間で、その身を冒していた病のもとを清めた。
「悪くはないが、不思議な気分だ。僕は人の身より、傀儡として過ごした時間のほうが遥かに長かったから。……あの頃より、ずっと世界が近くて、愛おしいと感じるんだ」
「あの頃の咲哉も、傀儡の咲哉も。今の咲哉も、ぜんぶ好き」
「浮気者、と言えば良いの? ぜんぶ僕だけど」
肩を竦めた咲哉は、おもむろに美春の頬に触れた。傀儡の冷たい指先と違って、柔らかで温かい指はざらついていた。
「本当、意地の悪い娘。突然現れて、いつだって僕の心をかき乱す。……お前を赦すまで、長い時間がかかるよ。何度だって僕は、古傷が痛むようにお前を憎み、恨むだろうね」
美春は首を横に振って、彼の手に自らのそれを重ねた。
「赦さなくて良いよ。いつでも、いつまでも一緒にいるから」
あの頃とは違う。彼が望むならば、いつだって箏を弾いてあげられる。
直後、美春の唇に柔らかなものが触れた。ついばむような口づけは、遠い日と違って、もう涙の味はしなかった。
「なら、ずっと傍にいろ。もう離れるな。いつか、この痛みが癒える日が来る。何度憎んでも、恨んでも。僕はきっと、お前を愛するから」
美春はまなじりに力を籠めた。泣いてはいけないのに、涙が零れそうになった。
「後悔、している? わたしを拾ったこと」
十二歳のとき、美春はこの国に攫われた。
咲哉には、池で溺れる美春を見捨てることもできた。
そうすれば、美春の身代わりとなって生贄となることも、百五十年間苦しみ続けることもなかった。はじめから出逢わなければ、ここに至るまでの苦痛もなかったことになる。
「美春こそ、後悔していない? どうしたって、ここはお前の生まれた国にはならないよ」
咲哉は、後悔していない、とは言わなかった。それで良かった。
美春は桜色に染まる眼に、かつて恋をして、今もなお恋い慕う男を映す。
彼の百五十年を理解してあげることはできなくとも、その痛みに寄り添って生きることはできる。ときに憎み、恨まれても、繋いだ手を離すことだけはしない。
「春は、好き?」
咲哉は笑った。それが他ならぬ彼の答えだった。
水面に舞い降りた桜の花が、春めく季節を告げている。甘い風に包まれた美春の心は、何処までも穏やかに、この先に続く幸福を信じていた。
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