春告姫
序章 春宵の桜
薄紅の花をつけた枝葉がしゃらりと揺れて、幾百、幾千の花弁が夜に舞う。
雅やかな箏の音に合わせるように、あるいは冬の名残を感じさせる春風に踊るようにして、花は降り積もっていく。
春宵にそびえる桜の大樹――この国を守る神を見上げて、十二歳の美春は瞬きを忘れる。
「美春」
振り返れば、まるで桜の化身のような少年が佇んでいた。
桜花のような赤みがかった白髪、その実のごとき紅紫の瞳。
美春より年上でありながら、同じくらい小柄な彼は、頼りない身体つきもあいまって、何処か危うい美しさを持っていた。
「咲哉」
桜吹雪に包まれて、美春は夢を揺蕩っている気分になった。
このまま、この美しい夢のなかで、咲哉と一緒にいるのも悪くない。
たとえ生まれ育った世界に帰れなくとも、咲哉がいるならば生きていける。どれほど帰りたいと焦がれ、どれほどの寂しさを覚えようとも、いつかその痛みさえも呑み込める日が来るだろう。
寄る辺のない美春を守り、傍に置いてくれた少しだけ意地悪な少年。病弱な身でありながらも気丈にふるまう彼が好きだった。
きっと、もとの世界に置き去りにしたものより、咲哉を大事に想う日が訪れる。
「あのね」
はじめて、ここで生きていこうと思った。
そう伝えようとしたとき、咲哉が片手をあげた。彼は美春の唇に、そっと人差し指を当てる。
「春とは、こんなにも美しいのだな。お前と出逢ってはじめて、僕は春を知った気がする。あたたかくて、泣きたくなるほど優しい。決して、失われてはいけない季節。お前が僕に、春を連れてきてくれた」
美春には、春を連れてくるという言葉の意味が分からなかった。だが、咲哉が笑ってくれるならば、何度だって春を連れてきてあげたかった。
「だから、終わりにしよう」
突如、桜の大樹が脈打って、地面が大きく揺らいだ。立っていることも儘ならない揺れのなか、驚く美春と違って、咲哉はあくまでも冷静だった。
踏みしめていた土がひびわれて、美春の足下に別世界が広がっていく。
コンクリートで固められた道路を、色とりどりの自動車が走っている。鉄の建物に囲われた街並みは、一年も前に美春が放り出され、帰ることのできずにいた世界だった。
「どう、して」
咄嗟に、美春は足下の亀裂から逃れようとする。
しかし、咲哉に両肩を押されて、そのまま尻餅をついてしまった。地面についた右手が囚われて、美春の生まれた世界へと吸い込まれる。見えない糸に絡めとられて、美春は徐々に沈んでいく。
「いやっ……! 咲哉、待って。嫌だよ!」
悲鳴をあげて、美春は無事だった左手を宙に伸ばした。
だが、咲哉が美春の手をとることはなかった。虚しく空を切った指先は、彼の髪一本にさえ届かなかった。
咲哉は両膝をつくと、涙ぐむ美春と視線を合わせる。
「さようなら、僕の春告げ鳥。お前のことなど好きではなかったよ」
それは、素直になれない少年が、美春を試すように何度も口にした言葉だった。美春が好きと伝える度に、彼は疑いのまなざしを向けてくる。
お前のことなど好きではない。そう拒んでも、傍にいてくれるのか、と試すように。
「それでも、わたしは咲哉が大好き。だから、……っ、だから、約束する!」
溢れた涙をそのままに、美春は嗚咽混じりに声を張った。
「必ず、また会いにくる。咲哉のところに帰るから」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、美春は精一杯の笑みを浮かべた。
咲哉は困ったように、美春の頬を両手で包んだ。羽のように軽い口づけが、美春の小さな唇に落とされる。
「待っている、いつまでも。たとえすべて朽ちてしまっても」
涙の味のするつたない口づけを抱いて、十二の美春は生まれ育った世界に帰った。
むせ返るほどの花弁を散らした桜だけが、ふたりの別れを見守っていた。
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