花と蝶々
1.花と蝶々
星々が地上を照らす明るい夜、少女は砂上に倒れ込んだ。
肉付きの悪い身体は砂漠の風に嬲られ、切れた唇には乾いた砂が沁みる。破けた下衣の裾から覗く足は腫れ上がり、緋色の長衣に隠れた肌は擦り傷と痣だらけになっていた。身も心もとうに限界を超えていたが、少女は前に進もうと這いずった。
正面には石造りの塔が聳え立っている。少女は儘ならぬ手足を必死に動かして、なんとか塔に辿り着いた。何処でも良いから、身を隠す場所が欲しかった。
瞼の裏には惨劇が浮かんでいる。折り重なる骸と焼け焦げた肉の香りがして、未だに血のぬかるみに足をとられているような気がした。
少女は荒く呼吸を繰り返し、衣の隙間からわずかに膨らむ左胸に手を伸ばす。そこには剥き出しの赤い宝石が埋め込まれている。柘榴や血とは異なる、緋色を帯びた灼熱の赤を宿した石だ。
生き物のように脈打つ宝石を掌で覆って、少女は泣き出しそうな心を諌めた。泣いたところで現状は悪化するだけだ。生き延びるための気力さえ涙に流されてしまうだろう。
――逃げて、逃げて、生きなければならない。
だが、逃げた先に何があるというのか。愛しい母はおろか、すべてを失くしてしまったというのに、独り生き延びることは虚しいだけではないのか。
「お嬢さん。このような夜更けに出歩くと、魔物に攫われますよ」
少女は弾かれたように顔をあげた。追っ手が来たのか、と息を呑むが、現れたのは予想に反した者だった。
星明かりに照らされていたのは背の高い少年だ。年の頃は十代の半ば過ぎ、おそらく十を数えた少女より五歳は年上だろう。やがて美しく羽化することを定められた少年だった。類い稀なる端正な顔には誰もが虜になる魅力がある。滑らかな褐色の肌は輝き、艶やかな髪と円らな瞳は爛々と燃える炎を思わせた。唇に刷かれた笑みの無邪気さに、少女の胸は締め付けられる。
「魔物が攫うほど、可愛い娘だったら良かったんだけどね。僕みたいな醜い子どもは、彼らの気に召さないだろ」
首筋に辛うじて届く銀髪は男のように短く、厚い瞼に覆われた鋼色の眼は鋭い。日に焼けて皮の剥けた肌は口が裂けても綺麗とは言い難く、魔物どころか人間でさえ相手にしないだろう。
「醜い? 小さくて、弱くて、可愛い生き物なのに」
不思議そうに首を傾げた少年に、少女は目を丸くした。真っ直ぐで純真な声が表すのは嘘偽りのない彼の本心だった。
「はははっ、……そうか。そう、なのか。僕は、小さくて、弱いのか」
零れ落ちたのは自嘲だった。己は無力な小娘に過ぎないというのに、意地を張って背伸びをしていたのだと思い知らされた。積み上げてきたものを奪われて途方に暮れていたはずが、その積み上げていたものさえ無価値だったと気づかされてしまった。
「疲れたのなら休みますか? ここは止まり木、羽を休めているのは貴方だけではありませんから」
少年は柔らかに微笑んで、蹲っていた少女を横抱きにした。少女は夢現で恐ろしいほど整った彼の容貌を見つめた。惨憺たる景色を歩いてきたせいで、気が狂い、幻に魅せられているのかもしれない。
「お嬢さん、名は?」
「……ないよ、そんなもの」
少女は首を横に振った。対外的な名は持っていたが、それは少女自身に授けられたものではなかった。
「奇遇ですね。僕も名前がありません」
可笑しなことだ、と二人して顔を見交わして笑う。不思議と息苦しさや痛みは遠ざかり、凍える心に温かなものが滲んでいく。
「蝶々。お前はファラーシャだ。とても美しいから」
二度と戻れぬ幼き日、ただ一度きり母と眺めた美しい蝶を思い出させた。今は固く閉じた蛹であろうとも、いずれ彼は美しい蝶となって飛び立つだろう。
「では、貴方は花。花と蝶なら、一緒にいても可笑しくないでしょう」
――花は蝶に、蝶は花に、互いに寄り添い合うものだから。
まるで、独りではない、と囁いてくれているかのようだった。小さな身体に抱えきれぬ悲哀も、待ち受けるはずだった孤独も、彼の言葉で溶かされていく。
ファラーシャに身を預けて、ザフルと名付けられた少女は涙を流した。嗚咽を漏らして泣きじゃくる少女の眦に、彼は優しい口付けを贈る。
少女の左胸では、赤い宝石が熱を発して鳴いていた。
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