花と蝶々
4.花と蝶々
ファラーシャと夜を明かし、朝方に眠りに落ちたザフルが起床したのは日暮れ時だった。外庭の噴水の縁に腰かけて、ザフルは砂漠の向こうに沈みゆく夕陽を眺めていた。あの地平の果てに他国があるのだと思っても、少しも心が引きつけられることはなかった。
「呆れた。まだ、残っていたのか」
大樹の陰から現れたリズクに、ザフルは肩を竦める。
「なに、ここまで来たら最後まで見届けるさ。娘の旅路だからな」
憂いを帯びた流し目に、ザフルは全身が粟立つのを覚えた。
「気持ち悪いこと言うなよ。寒気がする。だいたい、母上の情人は山ほどいたんだ。その理屈だと、僕の父親は数えきれないほどたくさんだ」
「だが、あの女が真に愛したのは俺だけだろう。あれは何でも話してくれたし、俺の願いならば何でも叶えてくれたぞ」
しゃあしゃあと語る男に、ザフルはすっかり呆れてしまう。そうやって母を誑かしたこの男は、自分の欲しい人脈や情報を得て、七年前の革命に臨んだのだ。恋は盲目だ。生来の美貌と狡猾さで絶対の女王として君臨していた母は、己の足場が崩れていることにさえ気づかず、愛した男の裏切りに遭った。
「七年前、革命軍によって王宮は落とされ、旧王朝の血は途絶えるはずだった。……だが、女王に疎まれていた王子だけは、どれほど探しても見つからなかった」
忘れもしない。星々が地上を照らす夜に血の惨劇は幕を開けた。ザフルの母――旧王朝の女王はもちろんのこと、彼女に仕えて私腹を肥やした重臣や神官、甘い汁を啜るだけだった見目麗しい男たちも殺し尽くされた。
――例外は、母が愛し、裏切られた男。革命軍を率いたリズクだけだ。
「見つからなくて当然だよ。対外的には王子でも、僕は女だったんだから」
新王朝の者たちが血眼になって探していたのは王子である。何度か顔を合わせたことのあるリズクとて、ザフルの本来の性別には気づいていなかったのだろう。故に、少女の姿になったザフルは七年間も追っ手の目を掻い潜った。
「母は男の趣味が悪いな。お前みたいな男に入れ込んで、自分だけではなく国まで滅ぼした」
そもそも、母はリズクと同じ手口でザフルの父に取り入り、愛人から正妃の座に就いたのだ。色恋に現を抜かせば足を掬われると分かっていたはずだ。やがて訪れる破滅を忘れるほど、母にとってのリズクは魅力的だったのだろうか。
「いや、お前もたいがい趣味が悪いぞ。どうしたら、あんなの愛せるんだ」
「ばか言うな、ファラーシャほど良い男はいない」
躊躇いなく言い切った後、ザフルは理解した。きっと、母も同じ気持ちだったのだ。誰に何を言われようとも、愛してしまった瞬間、後戻りできなくなっていたのだろう。
「やはり良く似ているな。――お前も母親と同じく、俺を恨まないのか? お前たちを死に追い遣った男だぞ」
ザフルは唇を釣り上げて、彼の問いには答えなかった。
残虐非道な女王であっても、ザフルにとって彼女は大切な母だった。ザフルの愛してほしかった人に愛されながら裏切ったリズクを、昔であれば恨んだかもしれない。
だが、この名を与えられた時から、ザフルは亡国の王子ではなく、止まり木でファラーシャに寄り添う花なのだ。真綿で包まれた優しい日々を送っていた少女には、リズクを恨む道理はない。
「指を咥えて見ていろよ、新王様。お前が要らないと言った、美しい蝶の旅立ちを」
塔を見上げると、赤い髪を風に靡かせて最上階の縁に立つ少年と目が合う。彼は顔を歪めて、傷ついたようにリズクと一緒にいるザフルを見つめていた。
――ファラーシャ。枯れて朽ち果てるだけの花に、寄り添ってくれた蝶々。
この鳥籠にいる限り、彼は他者を拒絶し、傷つかないために寂しいままでいようとする。彼を愛する者は必ずいる。忌まわしい呪いを解くために必要なのは外の世界だ。
塔の最上階では、いつもと変わらず巨大な炎が揺れていた。火影に照らされたファラーシャは神々しいまでに美しかった。
「あの男と一緒に、塔を出るのですか。傍にいたかった、と言ったくせに。やはり、貴方も私を拒むのですね」
ファラーシャは泣きそうな顔をしていた。惜しまれているのだと気づいて、ザフルの心に込み上げたのは喜びだった。
「違うよ。塔を出るのは僕じゃない、お前だ。――この鳥籠の鍵の役目を果たしていたのは、古の王のよって奪われた神の心臓だ。ならば、お前を解き放つことができるのは、旧王朝の最後の生き残り、僕だけだ」
御伽噺は嘘ばかりで、強大な力を持つ火の鳥を国の守り神とするために、古の王は彼の心臓を奪った。そうして、その心臓を生まれる前の我が子に与えたのだ。以来、王家は神の心臓を受け継いできた。先王の命と引き換えに生まれる世継ぎが即位するまで、暫定的な王となって玉座を守るのがザフルの母のような正妃の役目だった。
「貴方は、私が何であるのか気づいていたのですね」
「お前は嘘が下手だよね、優しいからかな。止まり木を管理する神官なんていないよ。神殿は旧王朝の滅びと同時に壊されたんだから」
ザフルの母は革命の原因となった女王である。亡き夫のあと仮初の玉座に就き、民に理不尽な法と税を押し付け、己は見目麗しい男を囲って贅沢三昧の女だった。その女の影で利益を得ていた神殿も革命の余波で瓦解した。王都の神殿が公衆浴場に改装されていたのはそのためだ。
「お前が火の鳥。古の王によって囚われた神、僕の心臓の本当の持ち主」
それは一瞬のことだった。猛々しく燃えていた神の炎が大きくなり、瑞々しい少年の姿をしたファラーシャを包み込む。かつて西方の異民族を焼き払った炎に沈められても、彼は髪一本さえ損なうことはなかった。
灼熱に身を委ねた彼は、手を伸ばして舞い散る火の粉と戯れる。雲が雨を降らし、水が木々を育てることと同じで、彼と炎が溶け合うのは自然なことなのだ。
やがて彼を包む炎は巨大な鳥となって翼を広げる。肌を舐める熱気を受けて、ザフルはうっとりと目を細めた。なんて綺麗な生き物なのだろう。
「何故、逃げなかったのですか。化け物だと知りながら傍にいたのですか」
ザフルはとっくの昔にファラーシャが人ならざるものだと勘付いていた。違和感は数えきれないほどあり、共に過ごしながら気づかぬほど鈍くはなかった。
「愛しているから。――傍にいてくれるなら、人でも化け物でも良かったんだ」
どのような存在であったとしても、彼がザフルに手を差し伸べてくれたことに変わりはない。七年間も幸福な夢を見せてくれた彼は、人であろうが化け物であろうが、ザフルの大好きな男だ。
「愛している? 嘘つき。信じられない。……忌み嫌われたから、利用されたというのに。こんな化け物が愛されるはずないのに、愚かにも信じて、たくさんの命を灰にした。挙げ句のはて、心臓を奪われて塔に囚われた」
ファラーシャは――名もなき火の精霊は、古の王が望むままに異民族を焼き払い、彼をこの地の王とした。しかし、王はファラーシャを裏切った。心臓を騙し取られ弱り切った彼は、望まぬ神として祀られることになる。
彼は心の底から王を信じ、慕っていたのだろう。だからこそ、何百年の月日が流れようとも、王が遺した呪いが消えない。
「そうやって、すべてを拒んで、誰もお前を愛さないなんて妄言を信じるのか。そんなものに縛られて、足を止めるのか。孤独や寂しさを抱えて、ずっと囚われたままでいるのがお前の幸せか」
これ以上傷つかない代わりに、彼は何も得られない虚しさを選んだ。そのことを思うと、ザフルの胸は締め付けられる。
「お前は、寂しさも孤独も大嫌いだ。だから、僕を傍に置いた」
「そんなこと、ない。貴方を傍に置いたのは、貴方が私の心臓を持っていたから……」
「ならば、さっさと殺して心臓を奪い、街でも何でも炎に沈めれば良かったじゃないか。お前を化け物と罵った王に、都合の良い時だけ利用した人間に復讐しろよ」
ファラーシャは炎の翼を揺らして、幾千もの火の粉を宙に舞わす。きっと、復讐など考えたこともなかったのだろう。動揺する彼に向かって、ザフルは一歩踏み出した。
「お前は化け物だ。――だけど、優しい化け物だよ。醜くなんかない。誰かを傷つける苦しみを、誰かに傷つけられる痛みを知っているから、弱くて小さな僕を慈しむことができた。お前が優しいから、こんなにも違うのに、僕たちは一緒にいられたんだよ」
生まれも、流れる時間も、存在すら異なっていた。ザフルとファラーシャの間には複雑に絡まった因縁が纏わりつき、ともすれば敵対しても可笑しくなかったのだ。
それでも、七年間も寄り添うことができた。互いを理解してあげられた。
「寂しさに逃げるな、孤独に溺れるな。もう、囚われなくて良い。羽を広げて外の世界に飛び立てば、自分がどんなに優しくて美しいか分かるはずだから」
熱気が目に染みて、身体中から玉の汗が噴き出していたが、ザフルは足を止めなかった。肩を震わして俯くファラーシャに歩み寄った。
彼の顔を覗き込むと、可哀そうなくらい眉間に皺が寄っていた。円らな瞳では涙の代わりに小さな炎が揺れている。
「……っ、嫌だ。怖い、ザフル。私には終わりがないのに。永久に続く生を、傷つきながら過ごすのなんて耐えられない。そんなことになるくらいなら、外の世界なんて要らない。何もかも拒んで、何も感じずに、いたい」
ザフルは苦笑を浮かべて、ファラーシャを正面から抱き締めた。肌の焼け焦げる音に驚いた彼が身を引こうとしても、ザフルは眼差しで彼を射貫いて赦さなかった。
「そうだな、怖いよな。傷ついても、苦しくても、終わりがないのは恐ろしいことだ。お前にとって、外は、他者は傷つけるだけの存在だったんだろうな」
眦に力を籠めていたのに、気づけばザフルは泣いていた。
ザフルが感じていたよりも、ずっと、ファラーシャの傷は深かった。刻み込まれた古の王の呪いだけではない。彼はザフルの想像を絶する苦痛を抱えて今日に至るのだ。
「だけど、本当にそれだけなのか? 外の世界はお前に痛みしか齎さないのか。……違うだろ。外の世界から来た僕は、ファラーシャと過ごして幸せだったよ。同じように、お前も喜びを、嬉しさを覚えたって、僕は信じているもの」
ザフルの独り善がりではないはずだ。共に過ごした夢は二人の幸福に満ちていた。
「貴方は……っ、ずるい」
ザフルは爪先立って、子どものようにむずかる彼に口づけた。唇が焼け爛れるのも構わず、顔の至るところに愛を示した。
やがて美しく羽化することを定められた少年を蛹のまま留めていたのは、ザフルの我儘だった。だから、もう飛び立たせてあげなければならない。
「お前は愛されるべき蝶になる。だから、果てのない旅路であろうとも必ず寄り添う花が咲く。愛してくれる人がいる。……僕の言葉が信じられない?」
きつく唇を噛んだファラーシャは、はらはらと炎の涙を流していた。
「そこに、ザフルはいるの?」
恐る恐るザフルの背に腕をまわして、彼は声を震わせた。
彼の心を覆っていた固い殻が剥がれ落ちた。ザフルが抱いているのは傷だらけの幼子だ。決して触れることのできなかった、彼の一番柔らかい場所に、今、この手が届いたのだ。
「いないよ。だけど、怖がったり、悲しんだりする必要はない。お前の飛び立つ世界には光が満ちているのだから。愛が、あるのだから」
愛してほしい、と泣いて母の背を追いかけているうちに、ザフルはすべてを失くした。たった一人の身内が罪を犯している現実を眺めているだけだった己は、リズクの言うとおり、綺麗事や理想を並べるだけの愚か者だ。
それでも、愚かだったからこそ、逃げ出した卑怯者だったからこそ、ザフルは止まり木に辿り着くことができた。この身に流れる血潮が受け継いできたもの、ファラーシャの大切な心臓を返してあげられる。
「名もなき花から、愛しの蝶々へ。永久に続く呪いを遺そう」
悲しいことなどなかった。泣いている可愛い人を送り出してやれる。幸福な未来へ続く道をつくってあげられるのだ。
「幸せになれ。誰もが、お前を愛するよ」
左胸に埋められた心臓が大きく脈打って、すべてが炎に溶けていく。ザフルは柔らかに微笑んで、躊躇うことなく彼に身を委ねた。
――瞼の裏には、羽を広げて飛び立つ蝶がいる。
可憐な火の粉を纏って、蝶は夜空を駆けていった。
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