華英

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  4.幸福な夢に愛を殺して  

 梢に囁く風の音が聞こえる。庭園に咲く花のうえで仰向けになると、星の瞬く美しい空が視界一面に広がっていた。
 隣にいる夜明も、わたしと同じように寝転んでいる。彼は龍の毒を散らす花に溺れることさえ躊躇わない。既に毒に命を蝕まれているからか、それとも華英が死んだ時から自らの命にも関心がなくなったのか。
 彼の肌から香るのは、生きている人間には相応しくない死臭だった。湯浴みをしても流されることのない、屍の移り香だった。
 彼のもとへ運ばれてくる乙女たちは、誰もが同じ年頃で、一様に凄惨な死を迎えている。激しく損傷した彼女たちの身体を綺麗に修復して、美しい人形に仕立てる夜明が何を考えているのか、以前のわたしは分からなかった。だが、凛麗様から華英の遺体の様子を教えられた今のわたしには、彼の心を推し量ることも容易い。
 ――夜明は、華英の死をなぞっているのだ。
 彼女を忘れぬためにわたしを傍に置いたように、彼女の死を繰り返し刻み付けるために人形遊びに興じている。考えてみれば、彼の行動の根源にはいつも華英という少女がいたのだ。わたしが彼女の影に気づくことなく過ごしていただけで、彼の本質は出逢った頃から少しも変わってなどいない。
「どうした」
 夜明がゆっくりとわたしに顔を向けた。瑞々しさを失くした魂の零れ落ちる身体は、人形のようであった。
 彼の目に映っているのは年端のいかない少女だ。辛うじて肩に届く淡い金髪を花の褥に散らし、宝玉のような青い双眸を不安に揺らがせ、彼女は夜明を見つめていた。
 ――わたしは『誰』なのだろうか。
 十年という時間は、夜明を少年から男にした。心は過去に置き去りにされたままなのに、身体ばかり老いていった。
 彼の傍にいながら、わたしは変わることができなかった。屍の乙女たちと同様に髪や爪が伸びることはなく、食事や睡眠も必要としない。時の流れから弾かれて、育ちきる前に潰えた少女の姿を借りたままだった。
 衣に隠れた肌に刻まれた呪いから目を逸らして、わたしは何もかも考えることを止めていた。屍の乙女たちと己は違うとうそぶいて、無知の皮を被って夜明に甘えていたのだ。
 わたしと夜明だけの桃源郷を守りたい、と身勝手に望んでいた。腐りかけの肉と澱んだ魂の香りに満ちた離宮を、夜明の墓を桃源郷などと信じていたのは、わたしの独り善がりだったというのに。
 わたしは夜明のために在ると言いながら、いつだってわたしのために在った。彼の隣にいたいという願いを優先してきたのだ。
 夜風に揺らいだ青い花弁が頬に触れた。何よりも美しいと思っていた色は、決して清らかな青などではなかった。
 例えるならば膿んだ傷口、あるいは死人の肌に透ける青痣だ。
 ――澱み穢れ、腐り落ちるばかりの青だった。
 土に沁みだした龍の悲しみは、草木の根から吸い上げられて毒の花を咲かす。龍に寄り添い、一時の慰めを与える犠牲が神子だった。
「華英を、愛していたの?」
 わたしの口にした愛は、どのような言葉よりも軽々しかった。恐ろしいほどに虚しく、形のないものだった。
「僕の命にも等しき人だった」
 夜明が柔らかに笑んだ。心から幸せそうに、宝物を愛でるように、彼は亡き妻に思いを馳せる。やはり、夜明の幸福は過去に置き去りにされたままなのだ。彼は素晴らしい未来や周りの望む栄華など願ってはいない。
 求めていたのは、たった一人の愛しい少女だった。
「彼女の笑顔を思い出す度に、変わり果てた姿を突き付けられる。僕が地方の視察から戻った時、彼女は小さくなっていた。凛麗は、自分が見つけた時にはこれしか残っていなかった、と僕に告げて、わずかにしか形を留めなかった彼女の遺体の一部を差し出してきた」
 淡々とした夜明の言葉に、わたしは引っかかりを感じた。
 夜明の言うとおりならば、彼は華英の死を凛麗様によって伝えられたのだ。そして、凛麗様が華英を発見した時には、彼女の遺体はほとんど形を留めていなかったことになる。
 ――以前、凛麗様が話してくれたことと合致しない。明らかに矛盾している。
「臣下が華英を殺し、彼女の血肉を龍の泉に撒いた。おかげで、ここ十年、新たに国土が毒に侵されることはなかった。いつまで保たれるか分からないが、彼女は確かに龍の悲しみを慰めたのだろう」
 夜明は決して嘘をつかない。離宮に閉じ籠もり死を待つだけの彼には、誰かを欺く必要などなかった。
 故に、わたしは恐ろしい真実に辿り着いてしまった。
「凛麗様の言葉を、全部、本当のことだと信じたの?」
 わたしは震える声で問うた。夜明は華英の死を詳らかにしようとは思わなかったのだろうか。
「真実でなくとも良かった。何をしても華英は僕のもとに戻らない、と兄上に刃を向けた時に気づかされた。……仇を討ったところで彼女は蘇らない。だから、真実など知らなくとも良い、そんなものに意味はない。ずっと、そう思っていた」
 死を間際にしたからか、あるいは凛麗様との再会のせいか、凍りついていた夜明の心に迷いが生じたのだろう。このまま死を迎え入れるか、それともすべてを明らかにするか。そして、おそらく彼の中で答えは出ているのだ。
「知りたいの? 貴方に優しくない真実だとしても」
「僕は彼女の死に寄り添うことができなかった。だからこそ、せめて彼女の死の真実を知るべきなのかもしれない。それが、彼女を弔うこともできず、人形遊びに興じた弱い僕にできる唯一の餞だ」
 闇に沈められていた夜明の瞳に光が差していた。華英――美しいひかりを意味する名を持つ人が、死にかけている彼に最期の力を与えているのかもしれない。
 夜明が心を決めたならば、わたしも選ばなければいけない。
 わたしは夜明と共にいる日々を手放したくなかった。けれども、わたしの望みは、彼の願いでなくてはいけない。わたしは彼のために在るのだから、彼の望みを叶えるために在らねばならない。
 ――たとえ、それがわたしの桃源郷を壊すことになろうとも。
「瞼を閉じると、わたしは知らない記憶を見るの。幾度も暁の森に招かれるの。……わたしの目は、彼女の目なのね」
 夜明は肯定の代わりに、わたしの瞼を指先でなぞった。
「宝石のように美しかった青の双眸、血の染みた土塊、砕けた骨の欠片。それだけが、僕に遺された彼女の身体だった」
 惨たらしく変わり果てた愛しい少女を前にして、幸福に浸っていた少年はどれほどの痛みを抱えたのだろう。彼女の死は夜明を暗闇の底に突き落とし、命の輝きを根こそぎ削いでしまった。
「僕は彼女の人形をつくった。彼女の血の沁みた土塊と骨の欠片、青い双眸をつくりものの身体に混ぜ込んで。鮮やかで真っ直ぐな金の髪だけは手に入らず、代わりに西域の商人から買い取ったのは短く淡い金髪だった」
 そうして、彼の絶望によってつくられた特別な人形は、十年間、離宮で彼に寄り添うことになった。呪われた身体は時間の流れに逆らい、死にゆく男の傍で永遠なる少女として在り続けたのだ。
「それが、わたし、ね」
 名前さえ授けられることのなかった、夜明の愛した妻を模した人形。偽物の肉体にわずかな真実を混ぜ込んで、屍の乙女たちと同じように呪術を刻まれたまがい物。
「わたしは貴方のために生まれたの。だから、貴方の望みを叶えてあげる」
 この両目には華英の最期が焼き付いている。夜明が彼女の死の真実を求めるならば、わたしが暴いてみせよう。


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