想紅
04
室の外へ飛び出した少女の背を見送ってからしばらくして、男は緩慢な動きで立ち上がる。開け放たれたままの障子戸に近寄ると、何処までも続く椿の森が眼前に広がっていた。
紅く色づいた椿の花が、雪白の上に血だまりを作っている。花弁一枚一枚を散らすのではなく、一瞬にして花を落とす椿たちが嫌いではない。
――椿の花が落ちるように、潔く死にたかった。
死してから始まった男の時間は、人としての生をとうの昔に超えてしまった。生きていた頃の自分は、思い出すことも儘ならない彼方にいる。神に愛されることを至上の幸福としていた愚かな青年は消え失せ、今ここに在るのは彼の皮を被った化物に過ぎない。
それなのに、男の心はいつまでも女神を忘れない。
美しい、美しい神だった。金の稲穂のごとき豊かな金髪を背に流し、この山に降り積もる雪よりもなお白い肌をしていた。太陽の光に照らされた輝かしい顔は人々に畏敬を抱かせ、神秘に満ちた紅い瞳の前に膝を折らない者はいなかった。
男が物心ついたばかりの幼い日、女神は加護を与えてくれた。そのときから、生前の男は女神のものとなったのだ。
幸せだった。彼女に愛され、彼女のために生きることのできる誉れに酔っていた。この命は女神に愛されたまま尽きて、彼女の腕に優しく抱かれて眠るのだと信じて止まなかった。
しかし、男の魂が彼女に迎えられることはなかった。
酷い雨の日だった。礼拝堂で祈りを捧げていた男は、教会に押し入ってきた夜盗に嬲られながら殺された。愛する女神の前で犯され力尽きた絶望は、今でも時折男の胸を締め付ける。
悲劇は男の死をもっても終わらず、穢された魂を女神は厭った。信じていた愛は容易く裏切られ、行き場を失くした魂は屍に閉じ込められたままだ。
母国を追われた男は、己を終わらせる狼の血を求めて数多の地を旅した。どの地でも歓迎されることはなく、敬虔な信徒だった青年の心は、時の流れと共に損なわれていった。
どれだけの地を巡っても狼は見つからず、諦めが心を満たし始めた頃だった。春の魔女が守護する国に立ち寄った男は、一つの噂を耳にすることとなる。
――東の果てに山の神を祀る国があり、五穀豊穣を司る彼の神は巨大な狼の姿をしている。
男は嘘か真かも分からない希望に縋り、ひたすらに東を目指して冬枯れの景色を進んだ。
辿りついた東の果ての国は滅んでいたが、男は雪に埋もれる大地の上で焦がれた狼と邂逅を果たす。
そうして、狼と一つの約束を交わしたのだ。
「雪代」
山の神が与えてくれた、男を終わらせることのできる唯一。
華奢な身体に宿った温もりを思い出して、男は目を伏せた。彼女の名を呼び、触れる度に、擦り減ってしまったはずの心が疼く。
愛しみではない。これは、憎しみなのだと知っている。
自分たちはひとしく神のものであったのだ。それにも関わらず男は神に見放され、彼女は穢されてもなお神に愛され続ける。少女を愛するのは男が信じた女神ではないとを知りながら、苛立ちは募るばかりだった。
その時、男は森の奥に一つの気配を感じ取る。
「招いてもいない客が来たか」
男は森に降りて、ゆっくりとした足取りで歩き出した。その瞳には、森の奥へと続く少女の足跡が映し出されていた。
* * *
胎の奥に鈍い痛みを感じた雪代は、歩きながら眉をひそめた。感覚が研ぎ澄まされ、かすかな風で揺れる葉の音や、落ちた椿の花の香りが煩わしい。
不意に、雪代は何かの足音を耳にする。雪を踏みしめるその音が男のものに思えて、雪代は身を強張らせた。今だけは彼と顔を合わせたくなかった。
だが、椿の翳から出てきたのは男ではなかった。
「ゆき、しろ?」
雪代の名を呼んだのは、何よりも焦がれた人の声だった。
「……っ、姉上!」
雪代はすっかり衰えてしまった足を必死に動かして、姉の元へ駆け寄ろうとする。会いたかった愛しい家族に、自然と涙が溢れ出す。
だが、雪代の足は彼女の傍に行く前に止まってしまう。
艶やかだった姉の黒髪が、見るも無残な白髪になっていた。纏う衣は襤褸のようになっていて、隙間から見える肌は赤黒く変色している。
変わり果てた姉の姿に、雪代は息を呑む。
「会いたかった。妾は、……妾は、間に合ったのだな」
姉は焦点の合わない黒い瞳を揺らし、喉を震わせて嗤う。皮の剥けた青白い唇から零れ落ちる哄笑に、雪代は思わず耳を塞ぎたくなった。
「……何が、あったのですか」
――この女は、誰だろうか。
優しく凛としていた姉は、何処に行ったのだろう。狂ったように身を震わす女を、雪代は知らない。
「そなたが、それを言うのか。里が辿る運命など、幼き頃から知っていただろうに」
雪代が後ずさろうとした瞬間、姉の身体が勢いよく体当たりをしてきた。予想だにしていなかった衝撃に傾いだ雪代は、そのまま柔らかな雪に埋もれる。
「死んでくれ、雪代」
雪代を押さえつけて、姉は喉の奥から絞り出すように口にした。信じがたい言の葉に目を見開いた雪代の首に、姉の両手が宛がわれる。細い指先を雪代の首に食い込ませ、全身の体重をかけてくる姉に迷いはなかった。彼女は本気で雪代を絞め殺そうとしている。
「そなたさえ生まれなければ、妾の命は続いた。……今からでも、きっと、遅くない」
姉の指先に籠められた力に、雪代の目が霞んでいく。容赦なく向けられた殺意に、男の言うとおり、自分は姉に愛されてなどいなかったのだと分かってしまった。
愛しているならば、躊躇いもなく妹に手をかけるはずがない。
「そこまでにしろ」
静寂に響いた声に、雪代の首を絞めていた姉の力が緩む。息苦しさから解放されて咳き込んだ雪代は、姉の視線の先に金髪の男を見た。
「来て、くださったか。かつて豊饒の女神に愛され、命の芽吹かぬ冬に、芽吹きを与えることのできる御人。妾を……、冬枯れの呪いから救ってくださる御方」
少女めいた可憐な笑みを一つ零し、姉は男に向かって手を伸ばした。雪に体温を奪われながら、雪代はその光景を茫然と眺めていた。
「残念だが、女神の加護は失われた。私がいたところで、この地に命が芽吹くことはない。――だからこそ、この地の滅びの徴として雪代は生まれた」
近づいてきた男は姉の肩を軽く押した。わずかなその力に抗うことなく、姉は崩れ落ちる。
「妾は、死ぬのか……? 他の者たちと同じように?」
「姉、上」
姉であった人を呼ぶが、彼女が雪代に応えることはなかった。彼女の心は、雪代には触れられない遠い場所へと行ってしまった。もしかしたら、最初から雪代の手が届く距離にはなかったのかもしれない。
止め処なく流れる涙が、頬を滑っていく。姉と過ごした日々が頭の中を駆け巡っては砕け散り、元に戻らない。
愛されていたことなど、一度だってなかったのだ。優しい記憶は何もかもが偽りで、この命の誕生を喜んだ者など、此の世の何処にもいないのだと思い知らされる。雪代が滅びの徴であったならば、それは当然のことだった。
男は雪代を抱きあげて、その場を離れる。凍える風が頬を撫ぜ、視界の端で風に煽られた椿の花が一つ二つと落ちていく。
己から香る血の匂いに、恐れていたはずの滅びが直ぐ傍にあることを知る。何もかも終わってしまう、終わらせなければならないのだ。
「ねえ、……貴方が求めた血は、ここにあるのでしょう?」
自らを抱きしめて、雪代は男に問う。
豊饒の女神を信仰する西国出身の彼は、山の神の血を求めてこの地に辿りついた。生者には超えることのできない冬枯れの景色を超えて、終わりを迎えるために椿の森に根を下ろしたのだ。
待ち望んだ時が来たことに、彼は気付いているはずだ。
「約束を、果たそう。――お前という終わりのために、私は今日までこの地を守ったのだから」
男の言葉に、雪代の中ですべてが繋がった。
凍てつく冬に命は芽吹かない。それにも関わらず、山の神が滅んだ後も雪代たちは途切れることなく命を繋げた。
それこそが、かつて豊饒の女神に愛された男が持つ力だったのだろう。屍となってからも、彼の身には女神の加護が残っていたのだ。この地に男が留まるだけで、冬に負けることなく命は芽吹いた。山の神と運命を共にするはずだった里は、滅びの時を少しだけ伸ばしたのだ。
「貴方を終わらせる娘として生み出された私は……、里の滅びの兆しでもあったのですね」
家族の誰にも似ることのなかった容姿は山の神が遺した徴だ。父や兄が外界を目指したのも、姉が雪代の存在を男から隠し続けたのも、それが理由だったのだろう。
今の男に女神の加護はない。冬に呑まれる限りを少しだけ伸ばした里は、このまま雪に埋もれる。
雪代は拳を握りしめ、涙の凍りついた睫毛を震わした。
「……ねえ、どうすれば、良かったのですか。襲いかかる冬に、私たちはどうやって抗えば良かった、の」
姉の言葉が意味するとおり、里に人の命はないのだろう。生き残っていた数十人は、一人また一人と力尽きてしまったのだ。
きっと、最期まで雪代がついた嘘を信じて。
「諦めろ。命とは、限りあるからこそ命だ」
男は足を止め、椿の幹に背を預けて座りこんだ。そうして、雪代の小さな身体を背後から抱きしめる。
「お前の名に託された願いも、叶いはしない」
雪代。川に流れ込む、雪解けの水。
果てのない冬が明けて、暖かな春の訪れを知らせる名前。この名に託された願いが叶うことは終ぞなかった。
「貴方は、満足なのでしょうね」
男は雪代の頭に手を置いて、長い黒髪を撫でつける。その手つきが驚くほど穏やかで、雪代は顔を歪めた。
決して、愛しんでくれない男だった。
穢されたが故に愛する女神から見放された男は、穢されてもなお神から愛される雪代が憎くて堪らなかったのだろう。彼の言葉は刃で、口付けは毒だった。男は最初から最後まで雪代を支配する者でしかなかった。
「ああ。悪くない最期だ」
――今度は、独りではない。
暴力の末に人としての生を終えた男は、雪代の首筋に顔を埋めた。雪代は男の柔らかな金髪に手を伸ばし、冷たい唇に身体の力を抜いた。
肌を重ねたところで、生まれる熱はなかった。互いを傷つける凍てつく憎悪でしか、二人は交わることができなかった。
「独りは、……寂しいですものね」
幼い日、独りは寂しいと口にした男は、冷たい手で頭を撫でてくれた。あの時の男に抱いた想いも、彼が口にした約束への答えも、雪代が思い出すことはないだろう。
男の肌から発せられる香りに、雪代はほんの少しだけ口元を綻ばせる。朽ちかけた肉の甘い香りが、存外、嫌いではなかったのかもしれない。この香りに包まれている間、きっと、雪代はただの愚かな少女でいられた。
首筋に穿たれた牙に身を委ねて、雪代は息を止める。
「安らかに眠ると良い、雪代」
男の唇を濡らす紅い血は、彼の愛した椿に良く似ていた。
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