名残梅

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  名残梅  

 直に訪れる春を拒むように、冷たい雨が降る朝のことだった。
 障子を開けると、目前に広がる庭には一本の梅の木がある。
 それは酷く老いた梅だった。
 深い皺を刻んだ幹は痩せ細り、かつて天に向かって伸びていた枝葉は驚くほど少なくなっていた。今はわずかに紅い花をつけるだけである。
 雨音に耳を澄ませながら、私は素足で庭に下りたつ。ぬかるんだ苔、柔らかに沈む土を踏みしめて、老梅に歩み寄った。
 濡れた黒留袖から指を出して、幽かに香る梅の花をひとつ摘み取る。
 雨を受けた花弁は色を濃くして、その香りと共に遠い昔の記憶を呼び起こす。
 この梅が多くの花をつけていたとき、私の隣には一人の男がいた。


 小鳥の囀りが遠くに聞こえる。
「なにはづに、さくやこのはな、ふゆごもり、いまははるべと、さくやこのはな……」
 麗らかな陽気に包まれた室で、私は持っていた筆を文机に投げた。
 仰向けに畳へと倒れ込むと、短い黒髪が首筋を擽った。頭の中では、先ほどまで諳んじていた手習い歌が流れていた。
「手習いは終わったのかい?」
 しばらく寝転んでいると、つまらなそうに唇を尖らせる私の顔を、一人の男が覗きこんだ。
 透けるように白い肌をした、線の細い男である。烏の濡れ羽をした髪は艶やかで、涼し気な目元には泣き黒子が二つ並んでいた。
「いけない子だね。まだ終わってないじゃないか」
 男の視線の先には、私が先ほどまで使っていた文机がある。手習いをするよう言いつけられてから半刻、そこには落書きのされた紙が広がるだけだった。
 私は何も応えず、男から目を逸らした。屋敷の中で繰り返される、手習いを始めとした習い事に辟易していた。
 男は溜息をついて、そっと私の身体を抱きあげた。
 横抱きにされた私は、素直に男の首に腕をまわした。抵抗したところで、笑って流されるだけだと知っていた。
「お前、匂うわ」
 男の首に鼻先を寄せて、眉をひそめる。
 春先の風にまぎれた、白檀の香り。それは着物に染みついた匂いではなく、男の冷たい肌から香るものだった。
「僕の御姫様は、ご機嫌斜めみたいだね」
 苦笑した男は、おそらく私の言葉を本当の意味では理解していない。自分から香る白檀の匂いになど気づいていないのだ。
「どうしたら機嫌を治してくれるの。庭に出ようか? 久しぶりに」
「梅が咲いたの?」
 日の光を厭う男は、滅多に屋敷の外に出ることはない。また私が外に出ることも赦さなかった。
 しかし、梅がほころぶ季節だけは特別だ。
「そうだよ。今年も綺麗に咲いたんだ」
 室から縁側に出た男は、私の身体を下ろした。
 彼は庭石に置かれた下駄を履いて、苔むす土を踏みしめる。私もそれに続くよう庭に下りた。
 小さな庭園には、梅の木が一本あるだけだった。たくさんの紅い花をつけた梅は、天に向かって勢い良く枝葉を伸ばしていた。
「この梅の根元に、君はいたんだよ。憶えているかな」
 私は小さく頷いて、目を伏せた。
 梅が咲く季節、この庭で男は小さな私を見つけた。泣きじゃくる私にそっと手を伸ばし、抱きあげて背をあやしてくれたことを憶えている。
 再び、男が私を抱きあげた。
 その意図に気づいた私は、渋い顔をしながら、梅の花を一つ摘み取った。
「もう、こんなことで笑うような子どもじゃないのに」
 初めて会った時も、男は梅の花を一つ手にとらせてくれた。綺麗だろうと、と囁いた男に、私はほんの少しだけ口元を綻ばせたのだ。
「僕にとっては、あの頃と同じ可愛い子どものままだよ」
 あの時と全く変わらぬ姿で、男は優しく微笑んだ。その笑みから顔を逸らして、掌にある梅の花を見つめる。
 その紅く色づいた花弁が、まるで男の唇のようだと思った。
「ずっと、僕と一緒にいてね」
 嘘ばかりを口にする、卑怯な唇。
 死人のように冷たい男の胸に頬をすり寄せて、私は梅の花を握り潰した。


 冷たい雨に身を委ねて、私は身を震わせる。
 あのとき、私は男の言葉に何と応えたのだろうか。もう、忘れてしまった。
 ただ、日に日に強くなる白檀の香りを消し去りたくて、梅の香りが移った指で男の唇に触れたことだけは憶えている。
 あの幼き日々のなか、私はおそらく知っていた。
いつの日か男は私を置いて、遠くへと旅立つ。その地に私を連れていってくれることはない。私の背が伸びて、独りで梅を摘み取ることができるようになったとき、隣に男はいないと分かっていたのだろう。
「お前なんて、嫌いよ」
 ずっと共に在ることはできないと知りながらも、約束を交わそうとした嘘つきで卑怯な男。
 指先で摘んだ梅の花に唇を落としてから、そっと掌で握り潰す。
 あの男を憶えていた梅は、もう直、枯れる。この胸に蕾んだままの想いも、花を咲かす前に朽ち果てるのかもしれない。
 されど、私は男の唇の紅を、今も忘れられずにいるのだ。


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