白薔薇の魔法使い

  白薔薇の魔法使い  

 太陽のまぶしい、夏の日のことだったと思う。
 全寮制の高校に通っていたわたしは、その日、校舎の片隅にある温室にいた。
 わたしの所属する園芸部は、ほとんどが幽霊部員で、実際に活動している人間は少ない。こんな風に、学校に頼み込んで、温室の一角を借りているのも、わたしくらいだった。
「誰かいるの?」
 いつも静かな温室に、子どもの泣き声がした。大声をあげて泣いているのではない。必死で涙を堪えているような、そんな健気な声だった。
 あたりを見渡して、ゆっくり、ゆっくりと探す。
 すると、白薔薇の木。その陰に、小さな男の子が座り込んでいた。
「いないよ! 誰も」
 ばか正直に答える声に、わたしは思わず笑ってしまった。
 屈みこむように、薔薇の陰を覗き込めば、そこには人形みたいに綺麗な男の子がいた。おそらく、まだ五、六歳といったところだ。異国の血を引いているのか、白薔薇に融けてしまうような白金の髪に、熟れた葡萄の色をした瞳だ。
 彫りの深さからも、おそらく日本人ではない。
 ただ、この学園には、留学生も多いので、学園の生徒の関係者なのかもしれない、と思った。
「見つけちゃった」
「いないって、言ったのに。……お姉さん、どうして、こんなところに来たの」
「ええ? だって、これ、わたしの薔薇だから」
 温室の一画にある白薔薇の木は、我儘を言って、わたしが実家から移植させてもらった木だ。新居に引っ越すという家族は、庭のすべてを捨てる、と言った。庭ごと引っ越すような思い入れは、あの人たちにはないのだ。
 けれども、わたしにとって、庭にある白薔薇の木は特別だったから。
「お姉さんの薔薇? 宮廷にある木は、ぜんぶ父上の木だよ」
「いやいや、お姉さんの木だよ。お姉さんの特別な木。むかしね、この薔薇の木の下で、とっても素敵な王子様に会ったの」
「王子様? お姉さんみたいな平民が会える人じゃないと思うけど。その変な服、どうせ、大した爵位もない御貴族さまの使用人でしょ。……お姉さんが王子様に出逢うなら、宮廷の魔法使いにでもならないとダメなんだよ。そんなことも知らないの?」
 平民。御貴族。宮廷の魔法使い。どうやら、そういう設定らしい。むかし流行ったファンタジーか、あるいはゲームにでも出てくる設定だ。
「お姉さん、実は魔法使いなんだよね」
「これっぽっちも魔力は感じられないけれど。……ああ、でも、なにか、髪につけているの? お姉さんじゃない魔力を感じるよ」
 男の子は、わたしの頭を指差した。黒髪を結んでいるヘアゴムには、綺麗な石がついている。大事な石なので、何度もゴムを付け替えながら、昔からずっと身に着けているものだった。
 わたしは髪を解いて、ヘアゴムを掌に載せる。
「王子様がね、くれたんだよ。これがあれば、君も魔法使いになれるよって。――ほら、見て」
 男の子は、恐る恐ると言った様子で、身を寄せてくる。そうして、わたしの掌にある、藍色の石を覗き込んだ。
「星が浮かんでいる!」
「そう。よく見てね、こうやって揺らしてあげると」
 深い藍色の石が揺れる度に、きら、きら、と金色の光が瞬く。まるで夜空をそのまま写したような藍色の石を、男の子は夢中になって覗き込んだ。
「魔法石だ。お姉さん、本当に魔法使いなんだね。魔力なんて、ほんの少しもないのに」
「魔法石はよく分かんないけど、お姉さん、実はひとつだけ凄い魔法が使えるの。ええと、嫌だったら、叩いてね」
 えいっと、わたしは思い切って、男の子を抱きしめた。薄っぺらい身体をなるべく触らぬように、ただ毛布のように包み込んであげる。
 初対面の女に抱きしめられて、気持ち悪い、と思われたら、本当に申し訳ないが。
 でも、わたしに使える魔法は、これだけだ。
「あのね。むかし、白薔薇の木の下で泣いていたとき。王子様が抱きしめてくれたの。何にも怖くないよって、言ってくれたの。それだけで、わたし涙が止まったんだよ」
 いま思えば、あのとき出逢った王子様――というか、やたら綺麗な青年は、わたしの夢だったのかもしれない、とも思う。
 そもそも、実家の庭に、あんな綺麗な外国人がいるわけない。いたとしたら、それは不法侵入してきた何者かである。
 けれども、わたしは、あのとき出逢った人を、王子様と思うことにしている。
 王子様から貰った石が、いまも手もとにあって。あのとき、実の母を亡くして、泣いていたわたしを慰めてくれた。そんな人がいたことは、夢ではないと信じたいから。
「あったかい」
「だって、あなた、すっごく冷たいもの。ずっと、ここで泣いていたの?」
「うん。でも、誰にも見られたくなかった。だって、僕、魔法使いになりたかったのに。なれないって、言われたんだよ」
「そりゃあ、ひどい人がいたものだね」
 子どもの夢を頭ごなしに否定するなんて、ひどい大人だ。たとえ、それが善意だったとしても、子どもが傷つくことを想像できていない。
「魔法使いはね、魔法石と一緒に生まれてくるんだ。なのに、僕、魔法石を持っていなかったんだ。こんなに魔力があるのに」
 わたしにとって、男の子が言っていることは、なんだか夢のようだけれども。彼にとっては、きっと真剣で、本当のことなのだ。
 それが理由で、こんなにも泣いているのだから。
 抱きしめていた腕を緩めて、そっと、男の子の目元に触れる。指先で撫でてやると、乾いた涙の痕があるだけで、もう大粒の雫は伝っていなかった。
 握っていたヘアゴムを、男の子の手に、そっと落とす。小さな手だった。こんな小さなうちに、夢を諦めなくてはならないのは、胸が張り裂けるほどつらい。
「なら、この石をあげる」
 弾かれたように、男の子はわたしを見た。
「ダメだよ。だって、これは魔法使いの証だから。お姉さんが、魔法使いじゃなくなっちゃう」
「お姉さん、この石がなくても魔法が使えるから良いんだよ。ええと、もう一回、抱きしめても良い?」
「……そうしたら、僕が泣き止むから?」
「うん。それがお姉さんの魔法ってことにして。すごいでしょう? あなたの涙を止める。そんな魔法が使えるのなら、他には何もできなくても良いの」
 彼は短い腕を伸ばして、わたしにぎゅっと抱きついてきた。こうしてみると、本当に、本当に小さな男の子だった。
 五、六歳くらいと勝手に思ったが、もしかしたら、もっと幼いかもしれない。
 小さな身体を抱きしめながら、遠い日の記憶に思いを馳せる。
 あの美しい王子様にとって、あの頃のわたしは、こんな風に小さかっただろうか。あの人は、いまのわたしと同じような気持ちで、幼いわたしを抱きしめてくれたのだろうか。
「ねえ。お姉さんは、その王子様が好き?」
「好きだったかもね。だって、本当に格好良くて。抱きしめられたら、なんだか、もう、好きになっちゃったの。あんなに優しく、泣かないで、って言ってもらったの、はじめてだったから。……そういえば、あなたみたいに、綺麗な髪をしていたな」
「綺麗? この髪が綺麗なの? 色なしだって、みんな馬鹿にするのに」
「白薔薇みたいでしょ。すっごく綺麗」
 あの人も、白薔薇に融けるような、白金の髪だった。記憶は美化されるものだから、もしかしたら、そう思いたいだけかもしれないが、顔も驚くほど美しかった。
 わたしが面食いになってしまったのは、どう考えても、あの人の責任である。
「ねえ。僕、立派な魔法使いになれるかな」
「なれるよ。だって、石があれば、あなたの夢は叶うんだもんね」
「……うん。あのね、お姉さん。御名前、教えてくれる?」
 うんしょ、と声でも出しそうな、可愛い仕草で、男の子はゆっくりとわたしの身体を放した。それから、じっと紫の瞳で、こちらを見つめてくる。
 なんだか、その瞳に見覚えがあるような気がしたのは、わたしの勘違いだろうか。
 ――そう。たしか、あのとき。
「璃々だよ」
 白薔薇の木の下で、泣いているわたしに、あの人は囁いた。
 『泣かないで、リリ』
 そういえば、どうして、王子様は、わたしの名前を知っていたのだろうか。
「リリ。そっか、リリ。僕、分かっちゃったよ」
「分かっちゃった?」
「うん。僕ね、君のことを攫っても良い?」
「攫って?」
「そう。でも、きっと、一回目は失敗しなくちゃいけないんだ。そうしないと、僕にまで繋がらなくなってしまうから。だから、二回目だ。そのとき、君を攫いにくるよ」
「……うん?」
 なんだか、言葉の端々に物騒な単語が入っていた気がする。
 ふと、男の子の手が伸ばされる。小さな少年とは思えぬほどの、強い力にびっくりしていると、唇に柔らかなものが当たった。
 それが、目の前で震える、サクランボのような唇だと気づいたとき、わたしは息を呑む。
 待って。いま、すごいことをされた気がする。
 いや、でも、男の子は普通にしているので、わたしの気のせいかもしれない。そもそも、このくらいの男の子、しかも日本人ではないみたいだから、挨拶くらいの意味しかないのだろう。
「予約しちゃった。リリは、王子様の御嫁さんになりたいんだよね? だから、僕、それを叶えてあげるよ。――ねえ、リリ。いまいくつ?」
「じゅ、十七だけど」
「じゃあ、君にとっては一年後。一年後、僕はね、大人になった君を攫いにくる」
「……会いに来てくれるってこと? 一年後に。たしかに、まだ高校には通っていると思うし、白薔薇のお世話はしていると思うけれど」
 受験生とはいえ、大事な薔薇を放っておくような真似をするつもりはない。十八になっても変わらず、温室で薔薇の世話をしているだろう。
「僕は、偉大な魔法使いになって、ただ一人の王子様になる。そうしたら、僕の御嫁さんになってくれるんだよね? だって、リリは王子様のことが好きなんだから」
 前のめりの言葉に、わたしは気圧される。たしかに、そんなようなことを言った気もする。気がするけれども、そうだったろうか。
「約束だよ。リリ。夜空の石をくれた魔法使いさん」
 そう言って、彼はぎゅうっと、わたしを抱きしめた。
 次の瞬間、温室に吹くはずもない、突風が吹いた。思わず目を瞑ったわたしは、白薔薇の木の下で、呆然とする。

 先ほどまでいた男の子は、もう何処にもいなかった。

 ◆◇◆◇◆

「璃々ちゃん、十八歳おめでとう! これ、みんなからプレゼント」
 寮を出て、クラスに着いたら、机のうえに山盛りの菓子が載っていた。コンビニスイーツから、何処で買ってきたのか分からない外国産のえげつない色のグミまである。
「ありがと。受験勉強のとき食べるね」
「どういたしまして。璃々ちゃん、なんで外部受験なの? そのまま内部受験すれば良いのに。そっちの方が楽だよ、ここだと」
「いやいや。さすがに、実家の人たちに申し訳ないよ。ここ、高等部だけでも、めちゃくちゃ学費が高いし」
 父にとっては、痛くも痒くもない額だろう。しかし、夫が余所で作ってきた子どものために、あの家の奥様の心を、これ以上、煩わせたくないのだ。
 血の繋がった父親はともかく、義理の母も、半分だけ血の繋がった姉弟も、とても良くしてくれたので。愛人の子どもなど、家にいれるのも嫌だったろうに。
「ちょっと温室に行ってくる」
「こんな朝から?」
「一限目、自習みたいだから。ちょっと気になることもあるんだ。……約束したから、いちおう」
 首を傾げる友人を置いて、わたしは教室を出た。
 十八歳になったら攫いにくる、なんて言っていた男の子が、もしかしたら、今日、温室にいるかもしれない。

 そんな風に、なんだか朝起きたときから、気になってしまったのだ。

 温室は今日も変わらない。こんな時間に来る人間はいないので、人の気配もなく、自分の息遣いくらいしか感じられない。
「いや、うん。そりゃあ、いないよね。分かっていたけど」
 白薔薇の木。その木陰を覗いても、小さな男の子はいなかった。何となく残念な気持ちになってしまうのは、あの子に肩入れしていたからかもしれない。
 初対面なのに、ぎゅうっと抱きしめてしまった。それは、あの子と同じくらいの年齢のとき、わたしが抱きしめてもらったからだ。
 白薔薇の木の下で、泣いているわたしに魔法をかけてくれた男の人。
 あれは夢だったのかもしれない、と思いながらも、今も変わらない初恋の人。寂しい気持ちになってしまって、わたしは白薔薇の下で膝を抱える。
「さすがに、もう、薔薇の木は持っていけないもんね」
 大学に進学したら、きっとアパート暮らしだ。全寮制の学校に、薔薇の木を持ち込んだことだって、相当、無理をしたのだ。さすがに、もう一緒には連れていけない。

 そのとき、温室に風が吹いた。かたく扉は閉じてきたから、風なんて吹くはずがない、と分かっているのに。

「泣いているの?」

 びっくりするくらい、優しい声だった。背後から、誰かが覆いかぶさるように、わたしを抱きしめている。
 不審者、と頭をよぎったとき、視界の端に白金の髪が映る。
 見覚えがある色に、わたしは息を呑む。
「いないよ! 泣いている人なんて、誰も」
 一年前、薔薇の木陰で泣いていた男の子と、同じ言葉を吐いてしまった。
「ああ、本当だ。泣いてないんだね、残念。君の泣き顔って、とても可愛くて、すごく好きだったのに。可哀そうなのに、可愛くもあって困っちゃった」
「……しょ、初対面だと思うのですが」
「なに、その変な言葉遣い。もっと、前みたいに、お姉さんぶってほしいな。ねえ、僕の魔法使いさん」
 ゆっくりと身体が離される。恐る恐る振り返れば、そこには美しい男がいた。
 白金の髪に、熟れた葡萄みたいな紫の眼。彫りの深い顔立ちには、小さな男の子だった頃の面影が感じられた。
 何よりも、長く編み込んだ髪には、見覚えのあるヘアゴムがある。何処かの御伽噺から飛び出してきたような服装にも、本人の美貌にも、場違いなほど似合っていない。
 だって、そのヘアゴムは、わたしが使い古したものだから。
「攫いにきたよ。一回目はわざと失敗したけれど、あれはあれで良かったな。小さいリリも、すっごく可愛かったもの」
 初恋の王子様であり、一年前に泣いていた男の子でもある彼は、わたしをぎゅっと抱きしめる。そうして、風とともに、わたしを攫ってしまった。

 ◆◇◆◇◆

 小さな頃。白薔薇の陰で、いつも泣いていた。
 そんな男の子を見つけてくれたのは、魔法をかけてくれたのは、君だけだった。だから、僕は必ず、君のための魔法使いで、ただ一人の王子様になろうと決めた。
「リリ。やっと、君と生きてゆける」
 此の国で最も凶悪な魔法使いは、歯牙にもかけられていなかった末の王子である。誰よりも優れた魔法使いになって、自分以外の王子様を、みんな蹴落とした。

 ――僕だけがリリの魔法使い。たった一人の王子様だ。

 男は微笑んで、腕のなかの少女を抱きしめた。二度と離さぬように。



 8月9日、ハグの日に寄せて。
 初恋をぎゅうっと抱きしめる話。あんまり書かない話なので、楽しかったです。

 2021.8.9 東堂 燦



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