赤の太陽 白の月

序章 或る春の夜のこと 01

 その夜、言夭よう紅焔こうえんは五つを数えたばかりの女児だった。
 燭台の炎が揺らいで、真夜中の室を照らし出す。香炉から漂う薄らとした煙が、靄のように立ち込めていた。
 紅焔は深衣しんいの胸元を握り締め、正面に立つ男を赤く燃える瞳で見つめた。
 男は紅焔の父だった。
 戦乱の世を暗躍する呪術師の一族――言夭一族の直系にして、頂点に君臨する当主だ。
 父の凍てついた眼差しに、紅焔の背を冷や汗が流れる。この場から逃げ出したいが、生後間もなく腱を切られた枯れ枝の足では、動くことさえ儘ならない。
「紅焔。言夭の娘として、初めての務めだ」
 父の言葉が頭の中に残酷に響く。紅焔の身体は震え出し、痛みを覚えるほど口腔が乾いた。
 ついに、この血に宿る力を使わなければならぬ日が来たのだ。母の命を蝕んで生まれざるを得なかった、強大な災いの力を。
「裏切り者の夫婦を呪い殺せ」
 父が差し出したのは、それぞれに名前の刻まれた二体の土人形だった。
 紅焔はその名を持つ夫婦の顔すら知らない。いくつなのか、子どもはいるのか、どのような人生を歩んできたのか、すべて分からない。
 だが、他の呪術師と違って、紅焔は相手の名前さえ分かれば十分だった。
 土人形を受け取って、ゆっくりと指を絡めた。父から放たれる威圧感に唇を開くが、零れ落ちたのは音にならない空気の塊だった。
「紅焔」
 急かすように名を呼ばれ、紅焔は小刻みに揺れる声を張り上げた。人形に刻まれた夫婦の名を歌声に乗せ、高らかに呪いの旋律を紡いでいく。
 次の瞬間、土人形に火がついた。
「ひっ……!」
 点火した呪いの炎は、紅焔の掌を焼くことなく、急速に大きくなった。土塊によって象られた人形が火達磨になる光景に、恐怖のあまり歯の根が合わない。
 土人形は苦しみ悶えるかのごとく、紅焔の手の中で暴れまわった。必死になって力の入らない指先ごと床に押し付けると、しばらくして人形は灰となる。
 ――あまりにも呆気なく、紅焔は人の命を奪った。
「あ、……あ、あ」
 残された灰の感触に、紅焔は喉を引き攣らせた。指の隙間から零れ落ちていく細かな灰が誰かの命だったなど、認めることはできなかった。
 眦から一筋の涙が流れて、塩辛い味が舌に沁み込む。紅焔は酷い息苦しさを覚え、背を丸め浅い呼吸を繰り返した。いつの間にか身体中から噴き出した汗が、深衣を重くしていた。
「その命尽きる日まで務めを果たせ。それが母を殺して生まれた、お前に課せられた宿命だ」
 呆然とする紅焔に降り注いだのは、父の冷たい命令だった。
「……は、い」
 頷くことしか赦されはしない。この牢獄で一生を終える未来を、紅焔は幼くして理解してしまった。
「何も考えるな。呪術師は意志を持たぬ道具だ。道具に責はない。故に、すべては我らを使う者にある」
「……っ、はい、父上」
 紅焔が初めて人を呪い殺したのは、齢五つ、春の冷えた夜のことだった。



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