赤の太陽 白の月

第一章 春暁に白月は昇る 02

 高窓から差し込む陽光に、紅焔はまどろみから目を覚ました。どうやら、とても懐かしい夢を見ていたようだ。
 視界には燃え盛る炎に似た赤い髪がある。夢の中では肩につくほどだった髪も、いつしか背丈を越すほどの長さになった。
「起きたか」
 紅焔は伏していた顔をゆっくりとあげる。襦裙じゅくんが板張りの床と擦れ、わずかに音を立てた。
 黒塗りの格子越しに、数年顔を合わせていなかった父がいる。
「お久しぶりです、父上。何か御用でしょうか」
 抑揚のない声で問いかけると、父は唇を吊り上げた。気味が悪いほど、彼の顔立ちは紅焔と似通っていた。紅焔を産み落としたのは彼にとって双子の妹にあたるので当然だが、まるで鏡映しだ。
「新しい護衛の者を連れてきた」
「護衛? わたくしの護衛は、侍女たちが兼ねているのでしょう」
 生まれて此の方、紅焔の世話と護衛は、一族の中から選ばれた女たちが務めている。今さら新しい者を招き入れる必要があるとは思えない。
「お前も十五だ。侍女たちも抱えて歩けぬ」
 すらりと伸びてしまった手足に視線を落として、紅焔は溜息をついた。父の言うとおり、最早、幼い子どもではない。
 歩くことのできない紅焔を運んで世話するのは、侍女たちだけでは荷が重くなってきたのだろう。
白月はくげつだ」
 父の背後から現れたのは、紅焔よりいくつか年上と思わしき青年だった。
 わずかに丸みを帯びたおとがいには幼さが残っているものの、身体は既に完成された大人のものだ。鍛え抜かれた無駄のない肉体から、腰に佩いた剣を軽々と振り回す姿が容易く想像できた。髪と目は珍しい白銀で、まるで闇夜を照らす月光のようであった。
 何よりも目を引いたのは、左目から頬にかけて残る火傷の痕だった。色を濃くして引き攣った皮膚は痛々しく、端正な目鼻立ちを台無しにしていた。
「白月と申します。姫様」
 彼の声は低く艶やかで、年の割に随分と落ち着いていた。凄惨な傷痕に反した柔和な表情と合わさり、彼の気質が穏やかなものであることを感じさせる。
「この者は腕が立つ。お前は言夭家で最も力の強い呪術師だ。用心に越したことはない」
「はい、父上」
 時は、未だに戦乱の世である。
 数多の人を呪い、時に苛め、時に殺めてきた言夭家は、天下を求める権力者たちから重宝されると同時、畏怖されてきた。
 父は呪術師を道具と称すが、道具であっても恨みを買っているのだと零していた。
 紅焔は呪術師として優れているが、肉体的には非力な小娘に過ぎない。自分を守ってくれる他者は必要不可欠な存在だった。
「では、私は本邸に戻る。今日の務めの刻限は朝日が昇るまでだ。土人形は侍女たちに渡してある」
「かしこまりました。あとで桃華とうかから受け取ります」
 侍女の一人の名をあげると、父は満足げに頷いた。
「くれぐれも身体には気をつけよ。お前を失うわけにはいかぬ」
 白々しい気遣いだった。失って困るのは娘としての紅焔ではなく、言夭家で最も力の強い呪術師だろう。
「父上こそ、足を掬われぬよう気をつけてくださいませ。当主様には敵がたくさんいらっしゃるようですから」
「抜かせ。お前に案じられるほど、私は愚かになったつもりはない」
「口が過ぎました。小娘の戯言ですので、どうかお気になさらず」
 父は鼻で笑い、背を向けて出て行ってしまう。室には紅焔と白月だけが残され、自然と互いの視線が交わる。
 紅焔は手で這いずって、格子の傍に近寄った。白月を仰ぐと、彼は何か言いたげな様子で座り込む紅焔を見下ろした。
「白月、わたくしのことは室にある調度品の一つとでも思ってください。護衛の務め以外は好きにしてくださって構いません。ああ、移動の際には運んでいただくことになりますが、それはご容赦くださいね」
 侍女たちと初めて会った時と同じように、紅焔は彼に向かって挨拶をした。
 彼は淡い銀色の瞳を揺らした。やはり月明かりの色をしている、と紅焔はぼんやりと思った。
「姫様、僕は……」
「わたくしの身体を守ってくだされば、それだけで父上は満足します。どうか楽にしてください」
 父が恐れているのは、紅焔が務めを果たせなくなることだけだ。五体満足でなくとも、生きて呪術を扱うことができるならば彼は気にも留めない。
 その証拠に、あの男は赤子だった紅焔の足の腱を切り、格子に囲われた室に閉じ込めてしまった。
「……分かった。でも、僕は姫様を調度品だなんて思えない。貴方を守るのが僕の役目だ。人である貴方を守るために、ここにいるんだよ」
「そういう、ものなのですか?」
 毛色の変わった人間だ。侍女たちは紅焔の挨拶を喜んで受け入れ、調度品の手入れをするように紅焔を扱う。職務こそ全うするが、極力関わろうとはしないのだ。
 唯一の例外は桃華だが、彼女とて紅焔を人などとは思っていないだろう。
 この身に宿る災いの力は、忌避されるべきものだ。名だけで人を殺す紅焔を、一族に籍を置く侍女たちとて恐れている。紅焔を映す彼女たちの目には常に怯えがあった。
「そういうものだよ。姫様、よろしくね」
 白月の微笑みを正面にして、紅焔は唇を小さく開いたまま固まった。紅焔の周りに、彼のように柔らかに微笑む人はいない。
 紅焔は襦裙の胸元を軽く握り締める。
「可笑しな、方ですね」
 彼の笑顔が、何故だか、深々と頭に刻み込まれた。紅焔の内側に、二度と忘れ得ぬ澱として沈んでいく。
「嫌かな?」
「いいえ」
 少なくとも、不安げに尋ねる彼の柔らかな物腰に、紅焔が嫌悪感を抱くことはなかった。
「……足音がする。誰か来るね」
 白月は唐突に呟いて、さりげなく剣の柄に手をかけた。初日から良くできた護衛だが、今回ばかりは杞憂に終わるだろう。
 近づいてくる慌ただしい足音は、紅焔にとって耳慣れたものだ。
「姫様、入っても良い?」
 室の外から聞こえたのは、予想した通りの侍女の声だ。紅焔が首を横に振ると、白月は警戒を解いて剣の柄から手を離した。
「どうぞ」
 直後、扉が開かれ、艶やな黒髪を結えた女が現れる。彼女は土人形の入った籠を腕に抱えていた。
「おはようございます、桃華」
 二十を半ば過ぎた桃華は、紅焔にとって最も接しやすい侍女である。
「おはよう、寝坊助さん。もうすぐ日が暮れるわよ。さっき当主様から人形を預かったのだけど、聞いている?」
「ええ、存じております。刻限は先ですので、務めの前に夕餉をいただけますか?」
「ああ、寝ていたから、食べ損ねたものね。もう本邸から運ばれているから、すぐ用意してくるわ。……そっちは誰?」
 桃華の鋭い眼差しが白月に向けられる。この離れ屋に男はいないため、彼女が訝しく思うのも無理はない。
「白月と申します。この度、姫様の護衛を任されました」
 白月が丁寧に名乗ると、桃華は胸元で手を叩いた。
「ああ! 姫様、かなり重くなったものね。抱えるの大変になってきたから助かるわ。最近、ちょっと無理しただけでも身体が痛くなるのよね」
「もう、良い年ですものね」
「そりゃあ、姫様に比べたら年増だけど、それは言わない約束よ! それじゃ、あたし、夕餉持ってくるから。ちょっと待っていて」
 桃華は籠を室に置いて、軽く手を振りながら退室した。明け透けとした彼女に戸惑ったのか、白月は困ったような顔をしていた。
「その、気安い人なんだね」
「……? わたくしが赦していますから。この離れでは楽にしてくださって構いません、と」
 身動きのとれない紅焔と異なり、侍女たちは立派な足を持ちながら離れ屋に閉じ込められているのだ。要らぬ気を遣わせるのも酷なことだろう。
「白月。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 紅焔が室の端にある卓を指差すと、彼は意図を察したのか、格子の中へと入ってきた。
 近づいてきた白月に向かって両手を広げる。彼は一瞬だけ躊躇いを見せた後、紅焔を抱き抱えた。
 高くなった視線に、白月が思っていたよりも長身であることを知る。かたく筋肉のついた腕に柔らかさはないが、不思議と心から安心した。
 一度も抱き上げてくれたことはないが、もし父が抱えてくれたならば、紅焔はこのように安堵するのかもしれない。
「白月は力持ちですね」
「いいえ、僕はそれほどでは……。姫様が、お歳のわりに軽いんだよ」
「そうなのですか?」
 ここから出たことのない紅焔は、同年代の娘を知らない。侍女たちの中で一番歳の近い桃華とて、十以上離れているのだ。
「失礼だけど、骨と皮みたいだ。もっと食べて、大きくならないと」
 紅焔は自らの手首を見遣る。気にしたことはなかったが、白月の言うとおり骨ばっている。
「確かに骨と皮ですね。……たくさん食べるべきなのかもしれませんが、食事は胃に重たくて好きではないのです」
 紅焔の一日は、人を呪い殺す務め以外、眠りに落ちているか書物を読んでいる間に過ぎ去る。ほとんど動くことのない紅焔にとって、脂の乗った料理を食べるのは苦行だ。
「ああ、食事は本邸と同じものが用意されているんだよね。僕も子どもの頃は脂っこくて苦手だったな。そうだ、今度、もっと食べやすいものを作ってあげようか?」
 白月の提案は予想外のものだった。まさか紅焔のために料理を作ろうとする人間が現れるとは思わず、紅焔は瞬きを忘れた。
「そうしたら、姫様でもたくさん食べられるよね」
 白月は名案だ、とばかりに頷いていた。だが、彼の厚意を受け入れるわけにはいかなかった。
「わたくしの口にするものは、本邸で父が食べるものと同じように、何度も毒味されたものでなければいけません」
 父の命令により一族の者さえ殺めたことのある紅焔は、言夭家が一枚岩ではないことを知っている。本邸では分家も含めて集団で生活しており、裏切り者が何処にいるのか分かったものではないのだ。
 白月を疑っているわけではないが、食材一つでさえ用心するべきだった。まずはいるかもしれない裏切り者に食事を口にさせるのが鉄則だ。
「……そっか。それなら、頑張って食べようね」
 眉をひそめた白月に、紅焔は首を傾げた。何故、彼が痛ましい表情をするのか理解しがたい。
 やがて、桃華によって料理が運ばれてくる。湯気の立たない冷めきった夕餉を見て、白月はあからさまに悲しげな顔をした。
「ちょっと辛気臭い顔しないでくれる? 食事が不味くなるでしょうが。そんな顔するなら扉でも守ってなさいよ」
 桃華は口を尖らせ、白月に詰め寄った。
「ええと、……姫様、またあとでね」
 彼女に気圧されたのか、白月は苦笑いを浮かべながら出て行った。紅焔の室に扉は一つだけなので、そこを守れば最低限の護衛の任は果たせる。
「白月を追い出したりして、どうしたのですか。彼がお嫌いですか? 上手くやっていけませんか?」
「もう、嫌いも何もさっき会ったばっかりなんだけど。上手くやっていくに決まっているでしょ。男手があるだけで、どれだけ仕事が楽になるか」
「まあ、頼もしい言葉。それなら心配はいりませんね」
 はっきりとした桃華の物言いに、紅焔は小さく息をついた。侍女たちと白月の不和は、紅焔の望むところではない。
「こっちは大丈夫よ、適当にやっていくからさ。むしろ、心配なのは姫様の方よ」
「わたくし、ですか?」
 桃華に心配される理由が分からず、紅焔は首を捻った。
「あの火傷、どう考えても訳ありじゃない。それに、瞳の色を見た? あんな薄い色じゃ、本当に一族の者かどうかも怪しいわよ」
 白月のことを警戒するよう、桃華は忠告した。当主に連れて来られた年若い護衛の男を、彼女は怪しんでいるのだ。
「ええ、瞳は綺麗な白銀でしたね。あれでは呪術の才は皆無でしょう。ですが、父上が連れてきたのですから、一族の者に違いありません」
 言夭家の人間は、血が濃く呪術の才に恵まれた者ほど鮮麗な赤の瞳を持つ。桃華も血は薄いが、彼女の瞳とて淡い赤をしている。白月ほど赤みのない目を、紅焔は初めて見た。
「そりゃあ、あたしも当主様の判断を疑いたくはないけどさ。やっぱり嫌な感じがする。……ねえ、姫様、気をつけて。貴方は自分で思っているより、ずっとたくさんの人間から恨まれているんだから」
 楽観的な紅焔の返事が気に入らなかったらしく、彼女は自分の意見を曲げなかった。
「桃華はそのように言いますけど、わたくしは言夭家の道具です。恨むならば、依頼した方を恨むのが筋かと」
「姫様の理屈は相手には通じないのよ。ここでずっと守られて育ってきた貴方には、分からないんだろうけど」
 ことさら意地の悪そうな桃華の声に、紅焔は顔色一つ変えなかった。
「分からないのならば、仕方ありませんね」
 紅焔は特に固執することなく引き下がる。紅焔は自分が道具に過ぎないことを知っている。道具には人の心など理解できないのだから、思いめぐらすだけ無意味だ。
 すると、桃華は深々と溜息をついて、紅焔の頬を軽く抓った。
「姫様の、そういうとこ嫌いよ」
「存じておりますよ。――そう言えば、桃華。嫌いなわたくしとは違う、貴方の大好きなご家族は御元気ですか?」
 桃華は家族のことを心から愛する女性で、時折、気紛れに話を聞かせてくれるのだ。わざとらしく問いかけると、彼女は再び紅焔の頬を抓った。
「厭味ったらしい言い方! 元気よ、元気。姉様なんて、子どもができたんだから」
「御子が? 喜ばしいことですね」
「ようやくの子どもだから、姉様と旦那さんだけじゃなくて、あたしも楽しみなのよ。絶対、可愛い子よ!」
 自分の姪か甥にあたる赤子を想像して、桃華は嬉しそうに笑った。彼女の眩しい笑顔から逃げるように、紅焔はそっと目を伏せた。
 幸せな彼女を見ていると、胸が騒いで羨みが生まれそうになる。それは道具が抱くには過ぎた感情であるから、紅焔は芽を出さぬうちに摘み取った。



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