赤の太陽 白の月

第二章 秋望に光は満ちる 04

 猛烈な残暑に、紅焔は寝具の上に突っ伏した。暦の上では秋を迎えたにもかかわらず、真夏並みの暑さだった。
「大丈夫?」
 頬に冷たいものが触れて、紅焔は顔をあげた。冷水に浸した布を紅焔の頬に宛てがい、白月が眉根を寄せていた。
「大丈夫ではありません」
 額に滲んだ汗を手の甲で拭って、紅焔は溜息をついた。全身が鉛のように重たく、何をするにも億劫だった。
「うん、見るからに辛そうね。……ごめんね、ずっと休ませてあげたいけれど、当主様から人形を預かっているから、夜までには起きてもらわないと」
 白月の真横に視線を移すと、籠に入れられた土人形が四体ほどあることに気づく。先ほど外が騒がしかったのは、父が訪れていたからのようだ。
「久しぶりなのに、少ないのですね」
 ここ二十日ほど、父から命令が下されることはなかった。紅焔は呪いの歌を紡ぐことなく、室で本を読むか惰眠を貪りながら過ごしていたのだ。
「そうだね。これから、もっと姫様の務めは減ると思うよ」
「どうしてでしょうか?」
 十年間、父に命じられるまま、言夭家の呪術師として人を呪い続けてきた。務めが少なくなる未来は想像しがたい。
 紅焔の問いに、白月は目を丸くしていた。
「そっか、姫様は知らないんだね。長い戦が終わったんだよ。新しい皇帝が天下を治め、これからは争いのない新しい時代が始まるんだ」
 突如、戦乱の世の終わりを告げられ、紅焔は面食らった。
 外界はいつまでも戦に明け暮れ、幕引きがされることはないと思い込んでいた。教えられた争いの終焉は、紅焔にとって予想だにしないものだった。
「まあ、そうなのですか」
 だが、喉から零れ落ちたのは、呆れるほど白々しい響きを含んだ言葉だった。
「武術に秀でた、まだ年若い方なんだよ。数年前に小国の王になったかと思えば、瞬く間に天下をものにしてしまった」
 白月は生き生きとした様子で若き皇帝について語る。彼は武芸に通じた人であるため、武人として天下を治めた皇帝に憧憬を抱いているのかもしれない。
「ええと、……姫様は、あまり興味がなさそうだね」
 白月は苦笑して、紅焔の頬から布を離して水の張った桶に浸す。彼は丁寧な動作で布の水気を絞って、今度は反対側の頬に宛がってくれた。
「だって、戦が終わったところで、わたくしの日々は変わりませんもの。務めが減ったとしても、死ぬまで人を呪い殺すのでしょう。ねえ、桃華」
 紅焔は壁に寄りかかっていた桃華に声をかける。しかし、彼女は黙りこんだまま返事をしなかった。
「桃華?」
 もう一度、紅焔は彼女の名を口にした。
「え? あ、ごめん、姫様。……少しぼうっとしていて」
 ようやく呼ばれていたことに気づいたのか、桃華はばつが悪そうに目を伏せた。
「いつも元気な貴方にしては珍しいことですね。お身体の調子でも悪いのですか? もうすぐ姪子か甥子が生まれるのですから、気をつけてくださいね」
「……うん、そうだね」
 顔を歪めた桃華に、紅焔は違和を覚える。快活な彼女には似合わない憂いを帯びた表情だった。悩み事でもあるのか、あるいは嫌な目にでも遭ったのか。
「どうか、無理はせずに」
 だが、問い質したところで桃華が打ち明けてくれることはないだろう。紅焔は彼女が落ち込んでいる原因について意識の外に追いやった。
 紅焔は道具だ。道具に人の心を察することはできないのだから、踏み込まないでいることこそ正解だ。
 じっと桃華を見ていると、彼女は気まずげに顔を背けた。
「あたし、食事の用意、してくるよ」
 言い捨てると同時、彼女は逃げるように室を出て行ってしまった。
「……朝餉を戴いたばかりなのですけど。慌ただしいことですね」
「桃華にも色々あるんだよ。赦してやって」
 白月が零したのは、桃華の事情を知り彼女を庇う言葉だった。紅焔は思わず白月を凝視してしまう。いつの間に彼女と親しくなっていたのだろう。
 室の外のことを紅焔は預かり知らない。自分のいない場所で白月と桃華が仲を深めていたとしても、それを知る術はないのだ。
 紅焔の世界はこの室だけだが、他の者たちにとっては違う。事実として知っていたことだというのに、紅焔の胸は鈍い痛みを訴えていた。
「ねえ、姫様。これから庭園まで散歩に行こうよ。今日は暑いけど、凄く綺麗に晴れた日なんだよ。務めの前に気分転換しよう」
 紅焔の気など知らず、白月は声を弾ませて提案する。
「いえ、わたくしは……」
 紅焔はこの室から出てはいけない。赤子の頃に足の腱を切られた時点で、父が紅焔を外に出す気がないのは明白だ。
 また、生まれてから一度も歩いたことのない紅焔は、自分一人では生きることさえ儘ならない。外に出ようなどという考えは、とうの昔に棄ててしまっていた。
「ちょっとだけだから、ね」
 彼は以前と打って変わって、引き下がらなかった。紅焔の戸惑いに気づいていながら、なおも外に連れ出そうとしている。
「桃華たちが、気づきます」
「大丈夫。あの様子なら桃華はしばらく戻ってこないだろうし、他の侍女たちは別件で本邸に駆り出されているから」
 白月は自らの唇に人差し指を宛てる。黙っていれば誰にも覚られることはない、と言いたいらしい。
「良いのですか?」
 白月は返事の代わりに、紅焔を抱きあげた。突然の浮遊感に、紅焔は彼の胸元に縋りつく。紅焔が声にならない悲鳴をあげているうちに、彼は黒塗りの格子を抜けて室の外に移動してしまう。
 紅焔の心臓は大きく脈打った。薄暗い廊下でさえ、己にとっては見知らぬ土地だ。不安になって、無意識のうちに白月の胸板に身体を寄せる。
 やがて、紅焔は眩い白光に包まれる。それは目が潰れるほど痛い日差しだった。
「どうかな、初めての外は」
「眩しくて、ほとんど何も見えません。でも、とても明るくて、広い場所」
 あまりにも光に満ちた世界を上手く認識できない。だが、室の中にあった圧迫感がなく、開けた場所にいることは感じとれる。
「ごめんね。目が慣れるまで時間がかかるかも。この匂いは分かる?」
 白月は数歩進んで足を止める。あたりに漂う甘い香りに、紅焔は小さく息を呑んだ。
「もしかして、桂花でしょうか」
 他愛のない会話だったが、白月が教えてくれた花の名を紅焔は憶えていた。茶につけられた香りより強く、花の匂いは紅焔の中に溶け込んでいく。
「約束したよね、桂花が咲いたら見せてあげるって」
 徐々に光に慣れてきた目が、橙色の小振りな花をつけた木をとらえる。まだ幼い木のようで、背はそれほど高くはない。だが、見事な花を咲かせていた。
「貴方の教えてくれた通りですね。とても可愛らしい花」
 紅焔は花に手を伸ばして、指先で花弁を撫でた。思っていたよりも柔らかくで、優しい肌触りをしている。
「お気に召したかな?」
「ええ。約束を守ってくださり、ありがとうございます」
 花弁を一つ千切って、紅焔は自分の胸元に引き寄せた。掌に閉じ込めた花片は、どんな宝玉よりも価値のあるものに感じられた。
 静かになった白月を不思議に思い、紅焔は上目遣いに彼を見た。
「……姫様、笑えるんだね」
 彼はゆっくりと瞬きを一つして、安堵するかのように優しく呟いた。
「わたくし、笑っているのですか?」
 桃華が叩く軽口に、鉄面皮というものがある。何をしても変わることのない、紅焔の表情を揶揄したものだった。
 他の人間が眉をひそめる『人殺し』を、紅焔は平気な顔をして行う。それが犯してはならない過ちだと認めていても、何故、過ちなのか分からなくなってしまったのだ。
 だからこそ、紅焔には自分が笑っていることが信じられなかった。人を呪い殺した時でさえ顔色を変えない己が、笑顔を浮かべているのだ。
「とても幸せそうな、可愛い笑顔だね」
 白月は穏やかな声で囁いて、白銀の目を細めた。
 ここに鏡がないことが悔やまれる。もしかしたら、紅焔は彼と同じ柔らかな笑みを浮かべているのかもしれない。
 そうであったらならば良い、と紅焔は願ってしまった。
 白月は片手で紅焔を抱え直すと、空いた手で桂花の枝を手折った。そうして、紅焔の小さな手に花をつけた枝を握らせる。
「室に持ち帰ろうか。あそこは殺風景で、とても冷たいから」
「そう、ですね。こんな素敵な景色を知っている方からしてみると、あの室はとても悪い場所なのでしょう」
 初めて紅焔の室を訪れた時、侍女たちが顔を歪めたのも頷ける。彼女たちにとって、あの室は劣悪な牢獄に見えたのだろう。
 ――格子に囲われた室が、紅焔の世界のすべてだった。
 齢五つだった春の夜、初めて人を呪い殺した瞬間から、あの牢獄で生きて死ぬ未来を確信していた。
 外の世界は夢物語だったというのに、その夢に紅焔は触れていた。あり得ないはずの邂逅を果たしている。
「なんて、綺麗なのでしょう」
 世界とは、あの牢獄だけではなかった。
 太陽の光が地上を照らしている。緑と土の香りを吸い込んで、紅焔は零れ落ちてしまいそうな涙を堪えた。
「こんなにも綺麗な世界があったなんて、知らなかった。……あの室から出ることなく、いつ尽きるかも分からない命を終えるのだとばかり、思っていました」
 災いの血を孕んで亡くなった母のように、あるいは数多の先祖たちのように、いつかこの身は血の重さに潰される。長く生きられない、寿命の短い道具なのだと知りながら、恐れ抱くことなく、すべてを受け入れたつもりだった。
「姫様?」
 紅焔は運命を受け入れたと嘯いて、心の何処かで外に焦がれていたのだろう。だからこそ、光に満ちた世界に打ち震えるのだ。
「……どうか、姫などと呼ばないでください」
 美しい世界のなか、胸の奥から一つの願いが込み上げる。道具には過ぎた望みが、摘み取る間もなく芽生え育ってしまった。
「紅焔。わたくしの名前です」
 誰かに名を告げたのは、初めてのことだった。
 呪術師にとって名とは隠すべきものだ。名前のみで人を殺せる者は少ないだろうが、並みの呪術師でも名さえ知っていれば、その者を苛めることはできる。
 秘した名を教えるということは、自らを守る砦を崩すことに等しい。
「どうか、呼んでください」
 白月は躊躇いがちに薄い唇を開いた。
「……紅焔」
 胸のうちが暖かになって、紅焔の瞳から一筋の涙が流れる。揺れ動くことのなかった心の水面に、大きな波紋が広がっている。波を静める術を知らず、紅焔は次々と涙の粒を零した。
「もう一度。……もう一度、呼んで」
「紅焔」
 名に愛着はなかった。だが、白月が紡ぐだけで、紅焔には自分の名前が素晴らしいものに思えた。
 筋肉のついた彼の腕に身体を預け、かたい胸板に頬を摺り寄せ、奥深くで刻まれる鼓動に耳を澄ませる。
「……涙が、止まらないのです。悲しくなどないのに、どうしてなのでしょうか」
 視界が霞み、白月の顔さえまともに見ることがでいない。嗚咽を堪えようとしても、か細い声が喉から溢れ出した。
「涙は、嬉しい時にも流れるんだよ」
 白月の乾いた唇が紅焔の眦に触れた。慰めるような口付けに、止め処なく冷たい滴が溢れ出す。
 ――ああ、紅焔は歓喜しているのだ。
 外の世界がこんなにも綺麗なことも、名を呼ばれる素晴らしさも、紅焔は知らずに過ごしていた。
「貴方が、わたくしのもとに来てくれて良かった」
 夢物語だった外の世界に連れ出し、名を呼んでくれる人がいた。それだけで格子に囲われた世界に、美しい光が満ちていく。
「……僕も嬉しいよ。貴方の傍にいられて」
 優しい彼の囁きと共に、桂花の甘い匂いが香っている。室内にいる時は厭わしかった暑ささえ、太陽の下では愛おしい。
「ねえ、触れても、よろしいですか?」
 すぐ傍にある白月の頬に、紅焔は震える手を伸ばした。彼は小さく頷いて、紅焔の掌を受け入れてくれた。
 赤黒い火傷の痕に残る凹凸は、恐ろしいほど滑らかだった。刻まれた傷痕に指を這わせていると、とても尊いものが身のうちに流れ込んだような気がした。
「痛みはありますか?」
「古い傷だから、もう痛くないよ」
 だが、紅焔の目には彼が痛みを堪えているかのように映った。
「でも、今にも、泣きそうです」
 白月は唇を引き結んで、不格好な笑みを浮かべた。紅焔は悲しげな笑みに釘付けになり、瞬きさえも忘れた。
「なら、……心が、痛いのかもしれないね。記憶は風化して、想いも遠くなってしまうのに、いつまでも痛いままなんだ。痛いままでないと、いけないんだよ」
 彼の言葉は、紅焔には理解しがたいことだった。遠ざかる記憶も、想いも、痛いならば捨て去るべきだ。囚われてしまうくらいならば、背を向けるべきだ。
「いつまで、貴方は痛いままでいるのですか。どうしたら、苦しくなくなるのですか?」
 ――白月を苦しめるならば、記憶も想いも、跡形なく消えてしまえば良い。
「すべて終わる日まで、痛いままで良いんだよ。そうすることで、僕は忘れずにいられるから」
 何を、と問いかけることが、紅焔にはできなかった。
 火傷を負った日、彼はとても恐ろしい目に遭った。以降、恐怖を感じなくなるほどの出来事だった。その恐ろしい悲劇を、彼は忘れないでいると言う。
 まるで、忘れることなど赦されない、と言い聞かせるかのようだった。
「でも、わたくしは、……貴方が痛いのは嫌」
 痛みや苦しみを抱くことなく、笑っていてほしい。言夭家に蔓延る闇など縁遠い、光に満ちた世界を歩いてほしい。
 ――この美しい世界こそ、彼に相応しい。
 目を伏せた紅焔の頭上から、微かな笑い声が降り注ぐ。顔をあげる必要もなく、白月が笑んでいるのが分かった。 
 その微笑みは柔らかな拒絶だった。
「ありがとう。でも、良いんだよ。僕が自分で選んだことだから」
 痛みを忘れないことを選ぶ意味も、辛い記憶から目を逸らさない理由も、やはり紅焔は分からない。
 これ以上は踏み込めないと覚って、紅焔は歯を噛んだ。紅焔は道具であるが故に、彼の心に触れることが叶わない。
「ねえ、姫様。さっき新しい皇帝の話をしたよね」
 悔やむ紅焔を余所に、彼は話題を変えてしまった。彼は自分の心に紅焔を招き入れるつもりはないのだ。
「……ええ」
 紅焔は食い下がらず、彼の言葉に頷いた。
 戦乱の世に終わりを告げさせたのは、武芸に秀でた年若き小国の王だった。急速に力をつけたその国は、ついに天下を獲り、数多の国々の頂点に立ったのだ。
「今夜、彼が本邸に来るんだ。人出が足りなくて、僕も向こうに呼ばれている」
「皇帝陛下が言夭家に、ですか。では、今宵、貴方は傍にいないのですね」
 思えば、彼が紅焔の護衛となってから、傍を離れるのは初めてのことだ。
「侍女たちも本邸に駆り出されているけど、桃華だけは残ってくれるから。良い子にしていてね」
 顔を曇らせた紅焔に、彼は幼子を宥めるかのように甘い声で囁いた。



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