赤の太陽 白の月

第二章 秋望に光は満ちる 05

 燭台の炎が揺らめいて、室を照らしていた。
 先ほどまで掌で燃えていた土人形は灰となり、細かな粉となって指の隙間から零れ落ちた。白月から渡された籠に入っていた土人形は、これですべて燃え尽きた。
 紅焔は手に付着した灰を払いながら、独りきりの室を見渡した。物心ついた時から、この室の内装は変わらない。それが意味するのは、母の住まっていた頃と同じまま残されているということだ。
 あまり意識したことはなかったが、飾られた調度品は母のものであり、紅焔のために用意されたものではない。
 紅焔は手で這いずって移動しながら、室にあるものに触れていく。十五年前に絶えた母の息遣いを感じ取るように、繰り返し掌で撫ぜた。
 何気なく使っていた文机に触れた時、紅焔はわずかに目を見張る。机の裏側の奥に引出があったのだ。
 紅焔は意を決し、一呼吸してから、引出の中身を取り出した。
 仕舞い込まれていたのは古ぼけたいくつもの文だった。書かれた文字を追いながら、紅焔は目を丸くした。
「……まあ。本当に愛していらっしゃったのですね」
 綴られた情熱的な言葉の数々に、紅焔は苦笑する。これは父が母に送った恋文だ。凍てた男には似合わない文面から、母に対する深い愛情がありあり伝わる。
 特に文末に書かれた文字が、彼の想いの重さを物語っていた。よほどのことがない限り、呪術師は文にこのようなものを記したりしない。
 その時、室の外で物音がした。紅焔は慌てて文を引出に仕舞い、扉に視線を遣った。
 燭台の明かりに照らされ、人影が浮かび上がる。今夜唯一離れに控えてくれている侍女が、幽鬼のように佇んでいた。
「桃華? 何用、でしょうか」
 問いかけてみたものの、桃華の様子は異常で、声が届いているかどうかも怪しかった。彼女は研ぎ澄ました刃物の眼差しで紅焔を睨みつけている。
「あんたの、あんたのせいで……っ! あんたさえいなければ! 姉様は、幸せだったのにっ……!」
 突然の非難に、紅焔は呆気にとられる。喉から絞り出すような掠れた声には、彼女怒りが籠められていた。彼女から責められる理由に思い当たるふしがなく、紅焔は首を傾げた。
「姉上? 貴方のお姉様がどうかしたのですか?」
 桃華は時折家族、とりわけ姉について語っていた。それなりに言葉を交わす侍女の話であるため、紅焔は彼女の聞かせてくれたことを憶えている。
 桃華には歳の離れた姉がいる。既に嫁いでおり、春には子どもができたことも教えられていた。
 思えば、近頃は家族について聞かなくなったが、何かあったのだろうか。
「しらばっくれないでよ……っ、あんたが、あんたが、姉様を殺したんじゃない!」
 桃華の絶叫に、紅焔は目を見張った。
「わたくしが、桃華のお姉様を……?」
 桃華の姉を呪い殺したことについて、身に覚えがなかった。今まで呪い殺した者たちの名など、紅焔は記憶に残していない。
「一月前に、亡くなって。事故だったと聞いていたのに。……この間、言われたのよ。姉様は夫と胎にいる子どもごと、火に包まれたって!」
 瞬間、紅焔は納得してしまった。それならば、真実、桃華の姉を殺したのは紅焔だったのだろう。
 だが、何故、そのような事態に陥ったのか分からない。紅焔が手にかける同族は、父が裏切り者と判断した人間だけだ。
「あたしたちみたいな血の薄い人間、放っておいてよ。そんなに……、そんなに、言夭家の娘が外の者と結ばれたのが、駄目だったと言うの!」
 桃華の激高を前にして、ようやく紅焔はすべての事情を察した。
「そういう、ことでしたのね。言夭家に流れる災いの血を、余所に出すわけにはいきませんもの」
 外部の者と結ばれた桃華の姉は、婚姻だけならば見逃されたのだろう。だが、子を身籠った時点で父の癪に障り、紅焔は務めの一環として桃華の姉を殺した。
「あんなに幸せそうだったのに。名前だけで人を殺せる、あんたみたいな化物がいたから! ……っ、あんたが、あんたが生きていることで、どれだけの者が火に焼かれたか!」
 顔を赤くして迫る桃華から、紅焔は反射的に離れようとした。だが、わずかに後ずさることしかできず、非力な紅焔の身体は容易く桃華に捉えられる。
 勢い任せに床に押し倒され、背中を強く打ちつける。紅焔は痛みに呻きながら、桃華を見つめた。
「姫様。どうして、……どうして、殺したのよお」
 眼は怒りに満ちているというのに、桃華の声は縋るようであった。彼女の長い指が紅焔の首筋に絡みつく。冷たい指に身体の芯まで凍えてしまいそうだった。
「お忘れですか? わたくしは道具です。人を殺すのに理由などありません」
 躊躇うことなく答えた紅焔に、桃華の顔が絶望に染まる。だが、紅焔の心は不思議と凪いでおり、乱れることはなかった。
 白月と共に見た美しい世界が脳裏を過る。あの夢物語に触れたところで、所詮、紅焔は道具のままなのだ。
 ――死の淵に立った今でさえ、桃華の苦しみも、死への恐怖も、理解できない。
「……っ、あんたなんて、死んでしまえ!」
 桃華の腕に力が籠り、強く首が締められる。紅焔は苦しげに息を漏らし、遠のく意識に瞼を閉じた。
 だが、いつまで経っても終わりは与えられなかった。首筋に生温い液体を感じて、紅焔は目を開く。
「はく、げつ?」
 高窓から差し込む月明かりを背にして、白月が佇んでいた。彼は腰に刷いていた刀で、桃華の胸を後ろから一突きにしている。
 彼が剣を抜くと、夥しいほどの血を流した桃華の身体が覆い被さってくる。生温かな血は紅焔の頬や手、首筋にかかり、纏っている深衣を重くした。
 白月の手が、紅焔の身体を桃華の下から引き摺り出す。床に投げ出された彼女の遺体を中心に、鮮やかな血の海が広がっていた。
 紅焔は惨たらしい光景から目を離すことができなかった。
「姫様。怪我はない?」
 白月は切り捨てた桃華を顧みることなく、剣を投げ捨て紅焔に手を伸ばした。跪いて、彼は震える紅焔の身体を抱き締める。
 紅焔には、先刻の出来事がすべて幻のように感じられた。だが、桃華の血に残された温もりと漂う鉄の香りが、容赦なく現状を突き付けてくる。
「……何故、桃華は、わたくしを批難したのでしょう。殺そうとしたのでしょうか」
 桃華には愛する家族が、嫁いだ姉がいた。彼女は姉の幸せのために手を尽くしていたのだろう。
 だが、言夭家の当主である父は、彼女の姉が子を身籠ったことを許さなかった。一族の者が孕むのは、一族の子でなければならない。
 言夭家の者に宿るのは災いである。その災いを利用して力をつけてきた一族は、どれほど薄かろうとも、外部に血を出すわけにはいかなかった。
「彼女の姉を、わたくしが呪い殺したそうです。けれども、それの何が悪いのですか。わたくしは道具です。道具に心はないから、責もないのでしょう?」
 白月の腕に抱かれながら、紅焔は縋るように彼の顔を見上げた。
 彼の目に浮かんでいたのは、遣る瀬無い色だった。まるで紅焔を憐れんでいるかのようだった。
「いいえ。貴方にも責はある」
「どうしてですか? わたくしは、それが務めだから果たしただけです」
 殺せと言われたから殺しただけだ。何も考えず、この牢獄で呪いの歌を紡ぐだけで良かったはずだ。
 ――それだけが、父が紅焔に求めたことだったのだ。
 白月は唇を引き結んで、紅焔を抱き締める腕に力を籠めた。彼の肩に顔を埋めて、紅焔は目を伏せる。
「分からない、……分かりません、白月」
 紅焔が桃華の姉を呪い殺した。だが、裏切り者を殺せと命じたのは父だ。自分は道具として呪いを紡いだだけだ。
 紅焔は桃華の姉の顔さえ知らない。彼女が誰を愛し、誰に愛されていたのかさえ明確には知り得ない。
 初めて人を呪い殺した日、紅焔は掌から零れ落ちる灰を人の命とは認められなかった。そうして、今もなお、人を呪い殺すことの悪を実感できない。
「貴方は人だ。だから、犯した過ちの意味を遠くない日に理解する」
「分かる日が、来るのですか」
 この身が紛糾される理由を、いつか紅焔は思い知るというのか。
「そうだよ。そして、……その時、姫様はとても苦しむことになるんだ」
 白月が零した言の葉は、まるで呪いのように紅焔に刻み込まれた。



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