赤の太陽 白の月

第三章 冬天に赤き太陽は沈む 06

 吐き出した呼気は白く染まり、わずかに入り込む隙間風は凍てついていた。室にある火鉢は十分な役目を果たさず、身体の芯から凍える寒さに紅焔は縮こまる。
 新たな皇帝が天下を治めてから、初めての冬が過ぎ去ろうとしていた。
 この頃、外界の者を呪い殺すことは急速に減り、反するように一族の裏切り者を始末する機会が増えた。
 紅焔に外の様子を正確に知る術はないが、十年間の日々を変えてしまう不吉な予感をひしひしと感じていた。
「何故、言夭家を裏切る者が増えたのですか?」
 壁に背を預けている白月に、紅焔は質問を投げかけた。桃華の件が原因で父が侍女たちの任を解いてしまったため、今では紅焔に侍るのは彼だけだ。
「平和とは、悪いことなのでしょうか」
 泰平の世とは、誰もが待ち望んだ時代のはずだった。だが、こんなにも一族から離反者が出るならば、争いのない世とは悪いものだったのかもしれない。
「戦がなくなるのは素晴らしいことだよ。多くの人が望んでいた、安寧だから。……だけど、言夭家は戦乱の世であまりにも力を発揮し過ぎた。人を呪い過ぎたんだ」
「命じたのは天下を獲ろうとした方々でしょう? わたくしたちは、その方たちの依頼を受けただけです」
 紅焔が頬を膨らますと、白月は困ったように顔をしかめた。その表情が気に入らず、紅焔は彼から目を背けた。
「彼らは恐れているんだよ。泰平の世になった今、自分たちが呪い殺されたら、と」
「だって! そんなの勝手です。殺せと依頼したのは、その方たち、なのに……」
 紅焔は声を荒げるが、語気は次第に小さくなった。呪術師は道具でしかない。道具に責はないと教えられてきたというのに、紅焔は強く言い切ることができなかった。
 白月は格子の中に入って、座り込む紅焔の赤い髪を宥めるように撫でた。
「言夭家に対する風当たりは日に日に強くなっている。皇帝は呪術を厭っているから、なおさら、ね。彼が本邸を訪れた時も、当主様とは険悪だったから」
 皇帝が本邸を訪れたのは、秋の終わり、桃華が凶行に及んだ日のことだ。白月の口ぶりからすると、皇帝と言夭家の溝はさらに深まったのだろう。
 武力を以って戦を治めた皇帝と、戦乱の世を暗躍した言夭家。双方が良好な関係を築けるはずがない。
「言夭家に対する風当たりが強いから、皆、一族を裏切るのですか?」
「そうだね。我が身を危ぶんで一族を裏切る者たちや、皇帝に反旗を翻そうとする逆族に下るために離反する者が後を絶たない」
「どうせ殺されるのに、どうして、そのような真似をするのでしょう」
 父が裏切り者を赦さないことを、一族の者たちは理解しているはずだ。
 紅焔がいる限り、彼らは死から逃れられない。当主として一族に属する全員の名前を把握している父は、間違いなく紅焔に裏切り者を始末させる。
「当主様には、子がいないことになっているんだよ。姫様の存在はわずかな人間しか知らない。だから、誰もが自分は大丈夫だと勘違いをする」
「子が、いない?」
 紅焔は父の血を継いだ娘だ。双子の兄妹から与えられた災いの血は、呪術師として結実している。
 白月は愉しそうに笑う。穏やかな彼に似合わない、嘲笑めいた薄暗い笑顔だった。
「言夭家は呪術師の家だけど、代を重ねたことで災いの血は薄れた。誰もが緩やかな衰退を悟り、今になって力の強い呪術師が生まれるなど思いもしなかった」
 白月の言うとおり、言夭家の血は薄れてしまった。だからこそ、滅びの影が現れてから、どれほど薄かろうとも外部に血を出すことを避けてきたのだ。
「名だけで人を呪い殺すことができるのは、今や貴方だけなんだよ。残酷な人」
 彼の囁きは、暗に紅焔を責めていた。
「貴方も、わたくしを非難するのですか」
 白月は紅焔の問いに応えず、そのまま続ける。
「僕はね、貴方が呪い殺した人を見たことがあるよ。前触れもなく身体に火がついて、炎に包まれるんだ。肌が焼け爛れ、喉が焼き切れて、それでもなお苦しみもがいて、生きながらにして灰にされてしまう」
 白月の艶やかな声が、紅焔の胸に強く響いた。四肢に見えない枷が嵌められ、息さえできぬ冷たい水底に沈められていくような錯覚がした。
「あの、土人形のように?」
 父から渡される土人形は、紅焔が呪いの歌を紡ぐ度、炎に包まれ、やがては灰となってしまう。
「そう、あの人形みたいに」
 白月は答えて、紅焔に土人形の入った籠を渡してきた。いつもと変わらない彼の行為に、何故だか、紅焔の心臓は早鐘を打った。
「今日の務めだよ」
 幾度も繰り返した日々の務めだ。それにもかかわらず、目の前にある人形が初めて見る得体の知れないものに思えた。
 紅焔は震える手で土人形を受け取った。刻み込まれた名前を指先でなぞる。
 紅焔は、この名の持ち主について何一つ知らない。
「刻限は夜になるまでだよ。ぼんやりしていると日が暮れてしまうから、早くした方が良い。務めを果たせなかったら、当主様は君を折檻するだろうね。……腕まで、だめにされたくないよね」
 急かす白月の声は、一切の熱を失くして冷え切っていた。紅焔の喉は痛みを覚えるほど乾き、舌が口腔に張り付く。
「……喉が、痛くて」
 同じことを繰り返すだけと知りながら、最初の一声が出ない。
「そう。それなら、水をあげる」
 白月は水瓶から盃に並々と水を注いで、紅焔に差し出した。紅焔が盃を受け取らず黙り込むと、彼は痺れを切らして無理やり紅焔の頤を掴む。
 白月は紅焔の唇に盃の縁を押し宛てた。弱々しく首を横に振ると、彼の指が強引に口の中に捻じ込まれる。
 そのまま盃の水を流し込まれ、紅焔は噎せ返った。身体が水を飲みこむことを拒んでしまい、だらしなく零れ落ちた滴が喉から胸元へと伝う。
 白月は乱暴な仕草で、紅焔の唇を拭った。
「これで痛くないよね」
 紅焔は躊躇いがちに頷いて、土人形に目を遣った。
 刻まれた名前を歌に乗せると、瞬く間に土人形に火がつき、呪いの炎が紅焔の手の中で燃え盛る。しばらくもしないうちに人形は灰となり、指の隙間から零れ落ちていった。
 知らず、紅焔の頬を一筋の涙が流れた。
 紅焔の手に、白月は別の土人形を握らせた。節くれだった指先が、紅焔の小さな手を無理やり押え込み、かたく人形に指を絡ませる。
「はい、次の人だよ」
 土人形に書かれた名は女性のものだった。先ほど呪い殺した者と家名が同じだと気づいて、紅焔の喉は引き攣った。親類か、あるいは妻だったのかもしれない。
 上手く力を籠められず、歌は途切れ途切れになり旋律は狂い出す。
 それに呼応するように、土人形は一瞬にして燃えることなく、長い時間、苦しみ悶えるように掌で暴れまわった。紅焔は咄嗟に自らの手ごと人形を床に押さえつける。
「苦しそうだね。姫様が躊躇うからだよ」
 残酷な囁きに、紅焔は地面に投げ出された魚のようにはくはくと唇を開けては閉じた。眦から涙が溢れ出し、頬を濡らす。
 そのあとも、白月は紅焔に土人形を握らせ続けた。
 次々に紡いでいく呪い、常と変わらぬ光景に反して、紅焔の心はずたずたに引き裂かれていく。
 最後の土人形が、炎に包まれ灰と化した。板張りの床に散った灰をかき集めて、紅焔は握り締める。
 灰に塗れた手を胸元に引き寄せ、紅焔は涙で汚れた顔をあげた。
 白月は微笑んでいる。先ほどまでの嘲笑とは違う、出逢った時と変わらない穏やかな笑みだった。
「苦しい? 姫様」
 紅焔が首を縦に振ると、彼は優しく肩を抱いてくれた。紅焔は彼の胸の頬を摺り寄せてしゃくり上げる。
「でもね、皆、苦しんできたんだよ。姫様の何倍も苦しんで、もがいて、炎に焼かれていったんだよ」
 紅焔が肩を揺らすと、白月は紅焔の髪に口づけを落とす。彼の乾いた指先が目の縁をなぞり、涙の後を拭っていった。
「貴方が殺した誰かは、貴方にとって見知らぬ人だ。――だけど、誰かにとっては特別な人だったんだよ」
 桃華にとっての姉のように、と白月は呟いた。
「特、別……?」
 紅焔は縋るように白月の胸に触れた。掌の下で彼の命が脈打っている。この鼓動が止まり、もう二度と彼が名を呼んでくれないならば、紅焔は悔いて嘆くだろう。
 ――彼が喪われたら、きっと、紅焔は耐えられない。
 それが特別ということなのだと、紅焔はようやく理解した。
「わたくしにとっての、……白月の、ように?」
 自らが命を奪ってきた者たちは、誰かにとって愛おしい人だった。そのような当たり前のことから目を逸らして、紅焔は呪いを紡いでいたのだ。
 命じられるままに、見知らぬ誰かの命を奪った。彼らの命を背負う覚悟もなく、誰かの手から大切な者を取り上げ、のうのうと息をしていたのだ。
「わたくしは、ずっと、……わたくしにとっての白月を、殺してきたの?」
 秋の夜、紅焔を責め立てた桃華の叫びが鋭い棘となって突き刺さった。彼女の瞳に滲んだ涙と怒りの在り処を、すべてが手遅れになってから思い知る。
「貴方は人だ。道具なんかじゃない。――だから、痛みも苦しみも理解しなければならない。貴方の犯した罪は……、誰も肩代わりできない、貴方だけのものだ」
 紅焔は痛みや苦しみから目を逸らし、心ない道具に成り下がることを選んだ。他者に責任を求めて逃げたのは、誰に強制されたわけでもない紅焔の意志だった。
 白月の腕に抱かれて、紅焔はきつく唇を噛み締めた。
「喜びを知ったならば、苦しみも味わって。嬉しさを覚えたなら、痛みさえも受け入れるんだよ」
 誰かに使われる道具でいることを、白月は決して赦さなかった。人としての紅焔を尊重することで、紅焔に人として在ることを求めた。
 道具のままでいることは楽だった。他者に責任を押し付ければ、紅焔は傷つかずに済んだのだ。
 だが、それは苦痛を拒むと同時に、美しい世界さえ目隠しした。
 喜びのあとに訪れる痛みも、嬉しさの終わりを告げる苦しみも、等しく人であるからこそ得られるものだ。
 道具には与えられない心だった。
 光に満ちた世界に触れたならば、苦痛も抱いていかなければいけない。犯した罪に気づいたならば、償っていくべきだ。
「どんなに痛くても、どれほど苦しくても、自分の足で立って歩くんだよ」
 突き放す彼の言葉は、不思議と何よりも優しく聞こえた。紅焔の背を押して、勇気を取り戻させるものだった。
 ――立って歩くのだ。この枯れ枝の足で。



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