farCe*Clown

第一幕 囚われ人 07

 目覚めると、綺麗な顔が希有の目に映った。
「目が覚めたか? おはよう、キユ」
 微笑んだシルヴィオに希有は驚きで一瞬息を呑むが、すぐさま脳内を覚醒させ、できる限り柔らかな声で挨拶を返した。
「……、シルヴィオ。おはようございます」
 寝起きを覗きこまれるのは、ここ数日のうちに慣れた。
 しかし、仮にも女の寝顔を覗き込むのはいかがなものだろうか。シルヴィオは性差を超越したような美こそ持っているが、そういった気遣いは欠片も持っていないようだ。
「今日も早いのですね」
「昔からこの時間帯は起きていた。それに、あまり深く眠れない性質たちなんだ」
「体は辛くないのですか?」
 このような当たり障りのない遣り取りに、希有は内心でうんざりしていた。
 いかにも優男と言った風貌で優しげな彼だが、容易く懐柔はされてくれなかった。
 確信に迫る寸前で、彼は意図的にかと思うほどに、話題を転換させる。
 これまで話したことと言えば、何のためにもならない日常的な会話ばかりだ。
「慣れているからな。幼いころから、このようなものだった。そうだ、先ほど朝食を監守が置いて行ったぞ」
 立ち上がって二人分の食事を持ってきたシルヴィオに気付かれぬように、希有は小さく溜息を吐いた。
 とにもかくにも、時間がなかった。悠長に構えている余裕はない。
 牢に入れられて既に十三日目だ。体力も気力も、希有にはもうほとんど残っていない。莫迦みたいに時間を浪費してしまったという結果が残っているだけだ。
「……わたし、随分と遅くまで寝ていたのですね」
「疲れていたのだろう。ここは環境が悪い」
「ええ……」
 シルヴィオの言うとおり、この牢屋はとても安眠できるような場所ではない。薄手の毛布はあるものの、寝台の一つもなく、寝る際に背を預ける床や壁は固い。加えて、精神的に参っている状況で深く眠ることは難しい。
 唯一の幸いと言えば、季節が春であったために毛布一枚でなんとか夜を越せることだろうか。
「牢も随分と空いたな……」
「…………、ええ」
 希有は、もう限界だった。シルヴィオの話に、丁寧に受け答えすることができない。
「大丈夫か?」
 上の空で返事をする希有に、シルヴィオが慌てたように問いかける。
「……、具合が悪いのなら横になっていた方がいい。起きてるより寝ている方がマシだろう」
「…………、いいえ、そんな」
 希有に残された時間は、あと僅かだ。このまま嫌疑が晴れて解放される可能性はないに等しい。
「そんな、……暇はないんです」
 限りなく絶望に近い未来が変わるように祈ったところで、何も変わらない。それならば、逃げる術を考え続けるほうが有意義であり、精神的にも幾分か楽だった。
 体力や気力が残っていなくとも、希有は諦めたくない。
「わたし……、明日には処刑なんです」
 シルヴィオは、希有を凝視して絶句した。かける言葉が、何一つ浮かばないのだろう。
 予想通りな仕草に呆れながらも、希有は唇を噛みしめる。
 ――、逃げるのならば、今夜が最後の機会になる。
 手段も方法も選んでなどいられない。わずかでも自分を取り繕う元気があるならば、それは全て別の場所に持って行こう。
 鈍くなっている頭では、このような芝居を続ける余裕はない。

「いいよな、あんたは。――まだ、処刑まで余裕があるんだから」

 震える喉が吐き捨てた言葉は、皮肉と自嘲の詰まったものだった。
「……え、……?」
「わたしは明日死ぬって言うのにさあ」
 自制がきかずに、零れ落ち始めた言葉を止めることができない。自棄になっているのかもしれない。
「呑気に人の寝顔覗いて、食事して……」
 シルヴィオは、その瞳を困惑で揺らす。
「何呆けてやがる……」
「な、何だ? その喋り方は……」
 呆気にとられて、シルヴィオは混乱したように固まっていた。その佇まいが希有の苛立ちを高めていく。
「あんたの前で、これ以上猫を被ってる余裕がなくなったんだよ。阿呆が」
「分かった。そうか、…………、熱でも、あるのか」
 先ほどの上の空の希有を思い出したのだろう。無理やり己を納得させるように呟いて、シルヴィオは希有の額に手を伸ばした。
 希有はその手を乱暴に降り落として、シルヴィオを睨みつける。
「熱なんかない。なんだ、失望したか?」
「…………、いったい、どうしたんだ」
「どうもしていない、これがわたしだよ。か弱い少女が、牢屋でふてぶてしく生きていられるとでも思ってたのか? あんたが来るよりも先に駄目になっていただろうよ」
 無音の闇は、容易く人の心を砕いてしまう。静けさが好きだと主張する人間もいるが、それは一過性の安堵でしかない。何をしても応えのない空間が、地獄としか呼べないことを知らないだけだ。
 だが、この地獄の中でも、――希有は自分を取り戻してみせた。
 泣いて、吐いて、嘆いて、叫んで、自傷までした。それでも、無音の闇に耐えてみせた。大の大人でさえ、この空間で心を壊してしまっている。その中を、希有は生きているのだ。
 だから、このまま死を待つだけではいられない。か弱い少女のふりなど、終わりにしなければならない。
「……夢、ではないのだな」
 シルヴィオは、今まで見たことのない、氷のような瞳をしていた。
 嘲りも怒りも、蔑みも哀れみも慣れている。負の想いだけ詰まった視線など、向こうでは別に珍しいものではなかった。
 慣れていたはずなのに、心細い空間に現れた桜色の青年からの冷たい視線に、少なからず衝撃を受けてしまった。
 無意味に時間を浪費してしまったというのも、本音だったが、シルヴィオと過ごした数日は心地よいものでもあった。牢屋の中で死を待つ身だというのに、それなりに心穏やかに過ごせていた。
 ――希有は、己の手で、その柔らかな時間を終わらせた。
 いつから、こんなにも涙腺が緩くなってしまったのだろうか。漠然とした悲しみが心に巣食って、泣いてしまいそうだった。
「夢なら、どれだけ良かったんだろうな」
 ただ、ここで泣いてしまえば、全てが終わる気がした。
 何をしてでも生きる、そのためならば何だってすると決めたのは希有だ。涙を流すいとまなど何処にもない。
「こんな悪夢……、わたしは見たくなかった」
 すべてが夢であったならばと、今でも思っている。
 目が覚めたら、いつものように幸せではない日々が始まる。そんな不変だった日常が恋しい。
 それでも、今は、それこそが夢物語だ。どれほど辛く苦しくとも、これが現実で、夢を見ることも叶わない。
「わたしは、死にたくない。何を利用してでも生きたい」
 小さく息を吸い込んで、希有は早鐘を打つ鼓動を落ち着かせる。そして、シルヴィオから視線を逸らすことなく、真向から彼を見つめる。
「どうして牢獄に閉じ込められてるのか知らないけど、あんたは身分の高い人間だろ?」
「……何を根拠にそのようなことを。ここにいるのは、死刑待ちの大罪人だけだ。身分の高い人間ならば、家名の恥になる前に生家に切り捨てられるだろうよ」
 シルヴィオの声音からは、当然ながら、先日まで感じていた柔らかさは消えていた。
 希有が庇護したいと思えるような弱者ではないことに、気づいたからかもしれない。希有は弱者ではあるが、庇護欲など到底そそられない存在だ。
「しらを切るのか? 気づいてないみたいだけど、食事の食べ方とか立ち振る舞いが、他の罪人たちと全然違う」
 初日から今日に至るまでの食事の仕方や、真っ直ぐな姿勢としなやかな動きからは育ちの良さが覗える。見に纏っていた衣も、見るからに上質なものなのだ。
「無言は肯定と受け取るからな」
「……、仮に、俺がお前の言う身分の高い人間だとして、それがこの牢獄で何の関係があるんだ? 俺も、お前に至っては明日には死刑だ」
「そんなこと分かってる。このままでいたら、確実に死ぬ。――、わたしは死にたくないんだ」
 ――、何を利用してでも、生きたいのだ。

「わたしと組まないか? シルヴィオ。ここから出してやる」

 シルヴィオは、少しだけ呆気にとられたような顔をした後、希有の誘いを鼻で笑った。
「――世迷い事を。ここからは何人たりとも出られはしない」
「人が管理する場所で、出られないところなんてない。必ず、何かしらの道が残されているはずだ」
「……、道が残されていたとしても、お前のような子ども――まして、女児に何ができる」
 柔らかな仕草や態度を向けられていたから気付かなかったが、彼の美貌はその態度によって随分と違った印象を受ける。優しげな青年は、いつのまにか、酷く冷たい青年へと様変わりしていた。
「子どもって……、わたしのこといくつだと思ってるんだ」
「十つくらいか? 口が達者のようだが、あまり大人をからかうな」
 希有は、思わず頬を引きつらせる。実年齢より若く見られるのは致し方ないことだが、流石の希有も十歳と言われると気分が悪い。
 それに、十歳だと思っているのであれば、猫を被っていたことに、ここまで怒る必要はないだろう。
 大人げない、大人だ。
「子どもは、どっちだ。人の年齢くらい外見以外で判断しろ。そんなんだから捕まってるんじゃないのか?」
 希有が莫迦にするように嗤えば、シルヴィオは不機嫌そうに眉を顰めた。その様子を見ながら、希有は吐き捨てるように続ける。
「わたしはもう十七だ。……、こんな訳の分からない場所で、死んでなんかいられないんだ」
「――お前、その顔で十七だと?」
「突っ込むのはそこ? ……そうだよ、春生まれだから、つい先日に十七を迎えたばかり」
「お前は、……、大人をからかって楽しいのか? ふざけるのも大概にしろ。まともな交渉がしたいならば、せめて誠意を見せろ」
「……ふざけてんのはどっちだよ。こんな切羽詰まった場面で、年齢詐称なんかする必要が何処にある!」
「その幼い姿で、十七? 有り得ない」
「有り得なくて悪かったな。……、とにかく、わたしの年齢なんてどうでもいいんだよ」
「……どうでもよくないだろう」
「細かいことは気にするなよ、話が進まない」
「気にするに決まっている。くそっ……、お前と話してると胃が痛い。先ほどまでの、あのか弱い子供は何処に」
「それは、繊細な胃をお持ちで。だから、わたしの外面なんかに騙されるんだよ」
 シルヴィオは希有の投げやりな応答に、大きく肩を落とした。
 先ほどまでの冷たい表情は呆れに変わっている。どうやら、上手い具合に彼の怒りを萎えさせることに成功したようだ。
「――、見返りは、何だ? ここから出してやるなどと豪語してまで、お前は俺に何を求めている」
「あんたは外にさえ出られれば、何かしらと力があるはずだ」
「さあな……」
 シルヴィオの態度を気にすることなく、希有は続けた。
「ここから逃げ出すことができたあかつきには、わたしに被せられた罪をなかったことにしてほしい」
 希有の罪さえなくなれば、希有は死なずに済む。
 冤罪であることを立証するのは難しいだろう。鑑識もいなければ、鑑定もできない世界だ。あの場にいた希有が一番、オルタンシアの殺害犯として疑わしい位置にいることは確かなのだ。
 それならば、罪そのものを消してしまえばいい。
 冤罪だと立証できずとも、謂われのない罪そのものが消えれば、希有の安全は保証される。オルタンシアの死を揉み消すことはできずとも、彼女が殺害された事実が消えれば、希有は犯人扱いされることはない。
「論外だ」
 彼は希有の嘆願を憮然とした表情で突き返してきた。
「なんでだよ」
 それが癪に触って、希有は彼に食ってかかる。
「考えずとも分かるだろう……、罪人を放り出すなどできるものか」
「わたしが冤罪なら、問題ないはずだ。わたしは、殺害された学者と一緒に住んでいただけで無実だ」
「……、学者?」
「オルタンシア・カレル。有名なんだろ、こっちでは」
 彼女は王立の学院で教鞭をとることあり、なおかつ、王城に招かれることもあるような高名な学者だった。
 三十路を迎えるか迎えないかの年齢であり、普段の姿はだらしないが、身なりをきちんとすれば美貌の女でもある。
 あの年齢で、それだけの教養と美貌があれば、有名でないはずがない。
「オルタンシア・カレル、か。良く知っている。――、あの魔女の殺害現場に子供がいたことは聞いていたが、まさかお前がその子供なのか?」
 シルヴィオの問いに、希有は頷いた。
「オルタンシア、魔女なんて呼ばれてたのか……。随分と似合いの名だな」
 希有は、決して短くない一月ひとつきをオルタンシアと過ごした。人となりの全てを知っているほど親しかったわけではないが、多少は彼女のことを見てきたつもりだ。
 オルタンシアは、常人には理解できない天才だ。オルタンシアと関われば、おそらく誰でも希有と同じことを感じるだろう。希有は、彼女との会話がまともに成り立った回数を数えようとして、ばからしくなって止めた。数えるほど多くないだろう。
「本当に、似合いの名だ」
 常人には理解できない思考回路と、彼女自身の美貌も相まって、魔女という呼び名は違和感なく当て嵌まっていた。
「朝起きたら、オルタンシアが死んでいたんだ。わたしは何もしていないのに、弁解の余地もなくこの牢獄に入れられた」
「……、魔女とお前は、どのような関係だ」
「わたしのことなんてどうでもいいだろ。先に聞かせてくれ、わたしと組むか組まないか」
 焦って訊ねる希有に、シルヴィオは眉間に皺を寄せる。
「お前の事情は分かってきたが、お前の罪が冤罪だと納得できない限り、俺はお前の要求は呑めない」
 シルヴィオの頑固な態度に、希有は溜息をつく。
 彼が希有の罪を冤罪だと信じない限り、この話は終わってしまう。
 事情を話すしかないのだろう。このまま彼の協力を得られずに死ぬ場合を考えれば、敢えて隠す意味もない。
「……わたしは、日本人だ。この国リアノとは違う場所から、わたしは招かれた。帰る術はオルタンシアしか知らない。わたしには、あの魔女しか手がかりがなかったんだ……」
 オルタンシアが、希有を意図的に日本に帰さなかったのか、それともあの時点では返す術を持たなかったのかは、今となっては分からない。
 彼女は熱心に何かを調べていたが、それが希有の求めるものであったかまでは、希有には分からなかった。
 混乱を抱えたままオルタンシアの家に住んでいた希有は、その辺りの事情は徐々に聞こうと思っていたのだ。
 何せ、希有は専門的なことは何一つ分からない。
「帰りたいと願うわたしが、あの女を殺す理由がない」
 残念ながら、希有の身の潔癖を証明する客観的な事実はない。このような感情論では納得はいかないのかもしれないが、納得してもらうしかない。
「……お前の容姿を見たときに、まさかとは思ったが。やはり、お前は異界の者なんだな」
 肯定も否定もせずに希有が曖昧に笑うと、シルヴィオは何かを思い出したように眉を顰めた。
「しかし、――召喚は失敗したと聞いていた」
 希有がこちらに招かれたのは一月も前の話だ。当然、その頃にはシルヴィオは拘束されていなかっただろう。
 それなりに身分が高そうなシルヴィオにとって、オルタンシアの動向を探ることは容易かったのかもしれない。
「成功したんだろうよ。わたしがこっちに来てるんだから」
 誰かが間違った情報を流したのか、それともオルタンシア本人が意図的にに誤った結果を流したのか。
 ――それならば、何故。
 本題から逸れかかったことに気を取られ始めた希有の脳を、シルヴィオの淡々とした声が現実に戻した。
「オルタンシアは様々なことに通じる化物みたいな女だったが……、専門は蟲の研究だ。だが、今さら、あの女が異界に手を伸ばすとは思ってもみなかった。それに、まさか、もう一度成功するとは……」
「その研究がどんなものかはよく分からないけど、いい迷惑だよ。巻き込まれた方は堪ったものじゃない」
「その通りだな」
「証明する手立てはないけど、……これで信じてはくれないか? わたしにはオルタンシアを殺す理由がない。わたしは被害者だ」
「確かに、お前がオルタンシアを殺して得することなど、なさそうだな。第一、あの女がお前みたいな子供に殺される可能性など少なすぎる」
「え?」
「オルタンシアは学者でもあるが、剣や護身術も一通りできる。見るからに素人で非力そうなお前には負けない」
「だから、家に剣が多かったのか……」
 オルタンシアが懐剣を簡単に希有に与えた理由が、漸く納得できた。
 オルタンシアにとって、剣の一本や二本は手放しても惜しくないものだったのだろう。
「それに、お前が帰りたいと願うことは、本心だろう。慣れ親しんだ土地を恋しく思うのは、好悪以前の問題だからな」
「うん。――好きでも嫌いでも関係なく、ただ帰りたいに決まってる。帰らなくちゃならないんだ……」
 元の居場所は、好きでも幸せでもなかった。
 それでも、あちらは希有を受け入れてくれるたった一つの世界だ。
 帰らなくてはいけない。
「わたしは、まだ死ねない」
 シルヴィオは、遠くに思いを馳せるように目を細める。
 彼は薄く笑んで、頷いた。
「――俺も、まだ死ねないな」
 希有には、投獄された日に泣いていた青年が、死にたくないと、叫んでいるようにも聞こえた。