farCe*Clown

第一幕 囚われ人 08

「しかし、ここから逃げると言っても、具体的にどうするんだ。今日中に行動を起こさない限り、お前は死ぬ」
「だから、わたしは、あんたが他の牢に移されないか、ずっと怖かった」
 シルヴィオを懐柔することは、希有の力不足で時間切れになった。その上に彼が別の牢に移されてしまえば、一片の勝機さえも消え失せる。
 尤も、その心配は取り越し苦労であり、こうして希有が死刑になる前日まで、彼が他の牢に移されることはなかった。
「何か策でもあるのか?」
「……少しは考えている」
 どうにか考えだした策は、策と呼ぶのもおこがましい粗末なものではある。
 まさか自分が牢獄に捕えられ、死刑囚となる状況に陥るなど、考えたこともなかったのだ。当然と言えば当然だろう。
 シルヴィオは一度首を傾げて、思いついたように頷いた。
「泣き落としか? それなら、子どものお前が考えそうなことだ」
「あんた、それ、本気で言ってるのか?」
「俺はいつも本気だが?」
「罪人の泣き落としがまかり通るなら、この国は終わりだな」
「…………、それもそうだな」
「それに、何度も言うけど、わたしは子どもじゃない」
「何処から見ても子どもにしか見えない、背も低いしな」
「言っておくけど、わたしの身長はそれほど低くないよ。あんたたちが高いだけなんだ。幼く見えるのは、そういう人種だからだよ」
 希有の身長は、平均よりは低いかもしれないが、言うほどの低さではない。
 明らかに日本人とは体型が違うリアノ人に比べたら、希有が酷く小柄な部類に入るだけだ。
 その上、日本人には童顔が多く、希有もその例に漏れない。
 この国で子どものように見えるのも致し方ないのかもしれないが、少しくらいは信じてほしいものだ。
「でも……幼いけど、まあ、人並みに見れる顔ではあると、思うわけだ」
「まあ、確かに。人並みではあるだろうな」
 少しも躊躇することなく同意したシルヴィオに、希有はわずかに眉を顰める。
 十七年も付き合ってきた顔が、今さら変わるはずもないことは重々承知だ。ただ、こうも簡単に頷かれると希有も女なので腹立たしく感じる。目の前の男が、とてつもない美貌の持ち主だからこその苛立ちもある。
 だが、それは我慢だ。
「意外と愛嬌のある顔をしているらしいし、程よく痩せている方だと思うし」
「胸まで痩せたようだがな」
「……言っていいことと悪いことがあるって知ってるか?」
「それくらいは知っている。お前に対する気遣いはするだけ無駄だと分かった」
「わたし、女だぞ」
「仮にも、がつくな。女ならば堂々とそのようなことを言うな」
 シルヴィオは無言で希有の全身を見た。
「中の下」
「……は?」
「痩せているにしても、肉付きが悪すぎる。目が大きいことと、肌が荒れていないのがせめてもの救いか?」
「――意外と良い性格しているよな、あんた」
「それは礼を言おう。――それで、お前は何が言いたいんだ?」
 逸れかけた話をシルヴィオが戻すと、希有は呆れを振り払い応える。
「わたしは、限りなく客観に近い場所で、自分自身の容姿を理解しているつもりだよ」
 自身の容姿に対しては思うところは多々あるが、希有は己の姿形を正しく理解している。数年前までは、自分と同じ顔を持つ存在が隣にいたのだから、嫌でも分かるのだ。
「たとえ、美しいとは言えない容姿でも、多少貧相でも――、この状況では関係ないだろ?」
 状況次第では、どのような容姿でも綺麗に見えることがある。
 それは、本来ならこのような状況で発揮したくないことではあるが、手段など選んではいられないのだ。
 囁き声のように小さくなった希有の言葉に、シルヴィオは物凄い勢いで顔を上げた。
「お前。そんな貧相な体のくせに、まさか、色で……」
 失礼な言葉を必死で聞き流す。
 彼の言うの意味くらい、希有にも分かる。それこそが、今在る勝機なのだと、誰よりも希有が思っている。
「監守は、毎晩見張りで女に触れる機会もないような男だ。そして、今夜牢に現れるのは、おそらくお前を牢に引きずってきた男だよ」
 シルヴィオを放り投げた日の、希有を舐めまわすような男の視線を、希有は忘れていない。
「あの男、たぶん、子ども好きだ。わたしみたいな貧相な女の方が好みなんじゃないか?」
 子ども好きと言っても、字面通りの意味ではない。
 あの看守は、若い娘、それも子どもが好きなのだろう。
 リアノでは、かなり幼く見られる希有に下卑た視線を向ける理由など、それくらいしか思いつかない。
 シルヴィオが、頬を引きつらせた。意味は通じたようだ。
「明日には死刑になることになってるんだから、都合も良い。付け入る隙は、殊の外多いだろうよ。それくらいの駆け引きならお安い御用だ」
 実際、駆け引きなど一度もしたことはない。シルヴィオ一人説き伏せられない希有に、そのようなことができるはずもない。
 嘘八百だ。
 しかし、法螺の一つでも吹いて信用してもらわなければならない。
「――正気か?」
「別に本当に色仕掛けするつもりはない、できないし嫌だ。あくまで餌にするだけだ」
 希有とて、自分を安売りするつもりはない。何をしてでも生きたいが、生理的嫌悪を覚えるような男と交わるような趣味もない。あのような男に初めてを捧げるなど、できれば避けたいに決まっている。
「幸い、今夜になれば、ここの牢獄はわたしとお前だけになる。新入りが来ることはほとんどないだろう。……、そんな頻繁に死刑囚が増えて堪るものか」
 この牢屋に留め置きが赦されるのは、十四日間だ。希有の牢からは死角となっている隣の牢と、向かいの牢の住人は既に連れて行かれたため、今は空き部屋となっている。
 唯一囚人の入れられている斜め向かいの牢の住人は、白髪混じりの老婆だ。
 その老婆は、希有が投獄された頃から既に居たため、今日には連れて行かれるだろう。
 その際に、シルヴィオが他の牢に移されることが懸念されたが、おそらくは平気だろう。彼を他の牢に移すならば、既に連れて行かれた囚人の牢が空いたときに移しているはずだ。
 いざとなったら駄々を捏ねよう。
 罪人を二人同じ牢に入れるなど、正気とは思えない行動をしたのだ、一見子どもに見える希有の我儘くらい面白がって赦しそうな気もする。
 確信がないだけに不安は募るが、それも仕様のないことなのだ。
 ――、未来に確信があるのならば、誰も失敗などしない。
 万全の状態で臨める賭けなどないのだから、希有の予測しなかったことが起こった時は、別の手に出るしかない。
「……、そんな大したことではないんだ。牢におびき寄せる切欠が思い当らなかっただけだ。それとも、あんたがやる?」
 希有が訪ねた途端に、シルヴィオは顔をしかめる。
「俺に、そちらの趣味はない」
「そうだろうね。綺麗な顔してるから、苦労してそうだ」
 どうやら図星だったらしく、彼は苦虫をつぶしたような顔をしている。
 これだけ美しければ、そういった方面で苦労することも頷ける。出逢った状況が状況であったために希有は感じなかったが、常の時に長時間彼と相対すれば、妖しい気分になってくるに違いない。
 そこに在るだけで痛烈な色香がある。まるで、毒のような美貌を持つ男なのだ。シルヴィオを目の前にして、正気を保っていられない人間も中にはいるのではないだろうか。
「耳を貸して」
 希有はシルヴィオの耳元に手を当てる。そのままこれからのことを喋ると、彼は理解したのかゆっくりと頷いた。
「…………、分かった」
「わたしは頭が良くないんだ。それに、……こんな状況ではどうしようもないだろ?」
 希有は、震える手を自らの懐に入れた。一振りの懐剣を取り出して、シルヴィオに差し出す。
「――良く、武器など隠し通してきたな」
「捕まった時に、衣類や持ち物は触られなかったんだ。軍人は、婦女子に乱暴はしない主義らしいよ? わたしを平気で嘲笑ったくせに、ほんの少しのお情けは持っていたらしい。胸糞悪い」
「…………、リアノの軍人は、基本的に紳士的な生き物のはずだが」
「職種で性格を纏めるなよ、良い人間がいれば悪い人間もいるに決まってるだろ。善悪の判断の基準は知らないけど」
 シルヴィオは、差し出された懐剣を受け取る。
 希有は確認するように、彼に訊ねた。
「剣、使えるんだろ?」
 シルヴィオは、目を丸くしながら頷いた。
「良く、分かったな」
「手の平が、肉刺まめが潰れてゴツゴツしているから。普通に暮らしてたら、そうはならないだろ」
 高校でも、剣道部の人間は肉刺の潰れた固い手の平をしていた。
「俺にとって、剣は一番馴染み深いものだ。護身のために肌身離さず持っていた」
 肉刺が潰れるほど剣を扱う機会があったのだ。少なくとも、希有よりはシルヴィオは剣を使える。
「わたしは素人だから、剣は玩具みたいにしか使えない。それに、あんたが足止めをするんだ。これくらいあったほうがいいだろ?」
 希有の言葉に苦笑いしながら、シルヴィオは懐剣を自分の懐にしまいこんだ。
「――、ここから逃げた後は、あんたが案内して。ここが王城の監獄塔だと知っているなら、それなりに王城には詳しいんだろ」
 彼は、リアノの中で、これだけ高い建物は王城だけだと言った。その言葉に嘘はないのだろうが、そう言った知識だけでは王城だという確信は持てないだろう。
 遠目から見るだけでは、塔の正確な高さなど分かりはしないのだ。彼は監獄塔には入ったことがないのかもしれないが、それに近い高さの――王城にある別の建物には、足を踏み入れたことがあるのだ。
「…………、それほど、莫迦ではないみたいだな」
「それは、どうもありがとう。――肯定と受け取っても?」
「ある程度の抜け道は知っている。それなりに、な」
 そのまま、シルヴィオは向こう側の牢に視線を遣って、思いついたように口にする。
「なあ、他の者を、助けることはできないのか……?」
「……どういう、意味だ?」
 シルヴィオの言っている意味が分からずに、希有は聞き返す。
「あのご老人も、お前のように冤罪かもしれない」
 希有はシルヴィオの言葉に凍りつく。
 どのような罪か知らないが牢に入れられ、希有より過酷な道を歩んできたであろう大人は、まるでそれが当然のように述べた。
 そのことが、希有の癪に障った。

「――何、生温いこと言ってる?」

 もしかしたら、このような窮地に立たされていながらも、綺麗事を言う唇が赦せなかったのかもしれない。
 希有たちの前にある道は、死ぬか生きるかのどちらかだ。このままでは、確実に死への道を歩かされるからこそ、必死になって足掻くための準備をしている最中だ。
 他人を気にしてる余裕など何処にもない。
「生きるためには犠牲がいる」
「だがっ……! 罪なき民が処断されることなどあってはならない。そう……、教えられてきた」
 心からそう思っているのかもしれない。彼の顔に浮かぶ苦渋は、希有には少なくとも嘘に見えなかった。
 だが、彼の言葉に耳を貸すことは、希有にはできない。
「わたしには関係ない。何もかも利用して巻き込んで、何が何でも生きてやる。罪のない人間を見殺すことになっても、――わたしは、止めない」
 心に棘は在る。
 罪悪感は、いつだって希有を苛める。
 自らで何かを切り捨てて、選んできた道だった。選び取ったのは希有自身であり、背負うのもまた希有一人だ。
 それでも、二度と戻らない人や、棄ててきた存在を思い返す度に息ができなくなる。
 開き直ることができたならば、どれほど良かっただろうか。
 心を傷つける棘に気付かぬ振りをして、何も知らない子供のように笑えたならばと思ったのは、一度や二度のことではない。
「…………、俺はっ……」
 だが、希有はまだ、死ねないのだ。
 自分は地獄に落ちる人間だ。それでいい、それこそが運命なのだと思う。天才を騙った凡人には、相応しい末路だ。
 碌な死に方はできないと知っている。
 それでも、最後まで足掻いて生きることを諦めないと、決めていたのだ。
「落ち着きなよ。――たぶん、あの中に冤罪はいない」
「何故、そのようなことが言える……!」
 この牢屋に繋がれるにふさわしい住人、それだけの罪を犯した者がここには投獄されている。
「分かるだろ……?」
 シルヴィオにも分かっているはずだ。
 冤罪など、そう易々といるものではない。
 感覚的な問題であるがために重視することはできいないが、彼らは身に纏う雰囲気が決定的に希有たちと異なる。
 死にたくなくとも、死を当然の報いとして・・・・・・・・受け入れようとしている。
「……あの人は、もう……」
 虚空を見つめて何かを唱え続ける者、ひたすら床を引っ掻き血の滲んだ爪を噛んでいる者を見てきた。
 たった二週間にも満たない時の中で、人の悲しい果てを知った。
 今いる老婆も、似たようなものだ。
 それは、希有にもあり得た未来だった。
「……あんたやわたしには、他の人間を心配する余裕なんてない」
「……、だが……!」
 分かっていながらなおも食い下がるシルヴィオに苛立ちが募る。
 この状況で紡がれる他者への思いやりは、希有にとっては毒だ。
 自分の命がかかっているというのに、何故他人の心配をするのか、理解できない。
 理解したくない。
 それは、希有が泣く泣く手放した、綺麗なものの一つだ。
「それとも、ここで仲良く死ぬ?」
 薄汚れたシルヴィオの頬に手を伸ばしを、そっと撫で上げる。柔らかな肉を伸びた爪で力強く引っ掻くと、赤い血が流れた。
 生きているからこそ、すべてに価値がある。この血潮も、死ねばただの鉄となり錆びていく。
 それだけは、絶対に回避しなければならない。
「わたしはそんなの嫌だ。……どれだけの人間を踏み躙っても構わない。わたしは生きるよ」
 ――生きることが、希有があの子に贈る、唯一の餞《はなむけ》だ。
「罵りたいのならば、何とでも罵ればいい。死ぬ予定の奴に言われたところで痛くもかゆくもないから」
 頬に伸ばされていた希有の手を、シルヴィオが力任せに払った。
 彼は背筋が粟立つような鋭く強い瞳で、希有を睨みつける。
 希有の額に、脂汗が滲んだ。
 彼の不思議な瞳の色は、春の光を浴びた若草のような瑞々しい生命の象徴。命の芽吹きを感じさせるそれは、時に嵐にも負けない強かで鋭い光を放つ。
 その眼を見て、希有は心を決めた。
 自分の生き残る確率を上げるために、この男は必要だと感じた。感情なんてものに重きを置いていないはずの希有が、彼の眼に惹かれたのだ。
 既に後には引けない場所まで来ているのだ、迷うことなどなかった。
「……罵らないのか?」
 莫迦にしたように希有が吐き捨てる。

「俺も、お前と同じだ」

 希有は思わず、息を呑む。
 苦渋の決断を下した、切なさに揺れる顔。瞳だけは炯々としている分、その苦悩がより際立っていた。
 彼にこのような表情をさせたのは自分なのだと思った刹那に、奇妙な優越感が心に波紋を呼ぶ。
「何をしてでも、生きなければならない。死ねない」
「それでいい、……っ、わたしたちは、死ねば諸共だ」
「――ああ」
「あんたを信用したから、力を貸してほしい」
 希有は彼の手を、恐る恐る握った。
 シルヴィオは、今度こそ、その手を振り払わなかった。
 肉刺の潰れた、わずかな痛みさえ感じさせるような手の平で、彼は希有の手を強く握り返す。
「ありがとう、シルヴィオ」
 希有が小さく笑えば、シルヴィオは拍子抜けした後に、微苦笑した。
「…………、お前に礼を言われると、気味が悪いな」
 希有は何も言わずに、シルヴィオの脛を蹴った。