farCe*Clown

第二幕 逃げ人 11

 窓から入る光の眩しさに、思わず目を細める。
 夜だと言うのに明るい空は、まるで、写真でしか見たことのない白夜のようだった。
 シルヴィオは、迷うことなく城内を歩いて行く。彼と共に牢を出たことは、やはり正解だった。
 今まで彼に続いて歩いてきた道は、とても一人では歩けないような道順だった。まさか、王城がここまで入り組んだ作りをしているとは思いもしなかった。
 これでは、たとえ牢を出られたとしても、道を知らない希有だけでは悲惨な結果になっていただろう。再び捕獲されるよりも先に、力尽きて死んでしまっていた可能性の方が高い。
「監獄塔のこといい、……城のこと、良く知ってたんだな」
 希有の呟きを拾ったのか、憮然とした表情で先を歩いていたシルヴィオが振り返った。
「それなりに、抜け道は知っていると言ったはずだ。あのような状況で、嘘などつくものか。お前ではあるまいし」
「最後の一言は余計だ。だいたい、シルヴィオは、あの状況じゃなくても嘘はつかないだろ。嘘がつけるような人間には見えない」
 牢屋にいる間にも、彼は素直に感情が顔に出ているように思えた。希有にとって、シルヴィオは嘘や隠し事には向かない人間に感じられた。
「お前は……、何だ。俺を莫迦にしてるのか?」
「莫迦になんかしてない。褒めてもいないけど」
「随分と、いい性格をしている。最初と変わり過ぎだ」
「だって、あれは猫被ってたから。騙される方も騙される方だとは思うけど」
「…………、俺は今、とても後悔している」
 呆れて肩を落としたシルヴィオを、希有は軽く睨みつける。
「後悔は良いけど、ここに置いて行くような真似はしないで。今、どの辺りにいるかも分からないのに」
「今は、城門まで、もう半分と言ったところだ。監獄塔の付近は人が少ない場所だから、ここまでは楽に来れたが、……これからはそうはいかない。今から通るのは居住区だ」
「居住区? 使用人とかが暮らしてる場所のことか」
「まあ、王族はこんなにも外に近い塔には暮らしていないからな。第一に、監獄塔の傍など、万が一何かが起きたら困る」
「それもそうだな。居住区に入るってことは……、身分の高い人間の部屋の近くを通るのは危険?」
 身分が高い人間の居住区は警備が厳しいはずだ。
 たとえ、警備の人間が希有たちを追っていなかったとしても、当然ながら目に止まるか捕まりでもすれば、生きる道は閉ざされたも同然だ。
 一度脱走したのだから、慈悲の一つも与えられないだろう。
 向こうにとって存在価値のあるシルヴィオはともかく、希有は切り捨てられるに決まっている。
「その心配はない。城仕えの貴族たちの私室は別の塔にある。活動区域が異なることもあって、別になっているんだ」
「……まあ、考えてみればそうなるのか」
「今から通るのは、下働きたちの部屋が並ぶ塔だな」
「どういう道なんだ?」
「あの渡り廊下を渡って、分かれ道で右に行く」
 シルヴィオが右手に見える渡り廊下を指差す。
「そのまま進むと、下働き達の部屋が固まってる塔に出る。それから、一階まで下る」
 希有は、シルヴィオの言葉に相槌を打つ。
 ここまで来るのには、あまり上り下りはしなかったが、これからはどうやら違うらしい。思っていたよりも随分と長そうな道のりに、希有は内心で溜息をつく。
「一階にある備え付けの裏口から庭園に出た後、進んでは塔に入り、別の場所から庭に出ることを繰り返すんだ。そうすれば、門まで辿りつくことができる」
「面倒だな。そう言えば、……庭園がそんなに門の近くにあっていいのか?」
「庭園と言っても、何も一つだけではないからな。王族たちの庭園は城の内部に、後宮と共に在る。城を囲う庭園は、ただの見栄えとでも思っていればいい」
 何か含ませたような言い方に、希有は眉をひそめた。
「――思っていればいいってことは、何か他にも意味があるのか」
「庭園は、侵入者向けの一種の迷路となっている。ここから見れば、それは良く分かるだろう」
「同じような木々とか、垣が多いな」
 外の風が吹き抜ける窓から見下ろせば、木々の生い茂る庭園が見えた。わずかに咲く花で色付いている庭園は美しく見えたが、同じような光景の続くつくりは薄ら寒さを覚えた。
 上から見れば庭園からの脱出はできそうに思えるが、実際にあそこで迷えばそうはいかないだろう。
「正確に全ての庭園を把握してるのは、城全体を把握している王族だけだろうな」
「ふうん、用心深いんだな」
「リアノは臆病者たちの暮らす国で、王族は特にそれが顕著だ。塔の数も、部屋数も、抜け道も、すべて理解しているのは王族だけだ。その臆病さゆえに、他者にすべてを明かすことはない」
「そう……、興味ないから、どうでも良いけど」
 その徹底ぶりに多少の感心は覚えたが、希有にとっては、リアノの王族がどのようであっても興味は湧かない。
「……、お前」
「そんなことより、これから通るのが下働きの部屋なら、ちょうど良かった」
「何がだ?」
「この格好は目立ち過ぎるから……、通るついでに、少し借り物をしよう」


              ★☆★☆★☆              


 渡り廊下を渡って、下働きたちの居住区の塔につく。
 下働きの部屋は、想像した通り数人で一室を使っているようだ。部屋の扉には木の板が下げられていて、数人の名前らしきものが連なっている。アルファベット――筆記体だろうか。希有には蚯蚓みみずにしか見えず、読むことはできない。
 どうして、この世界にアルファベットなど存在しているのだろうか。
 ――そもそも、言葉が通じている時点で、不可思議ではあるのだ。
 もちろん、言語が通じるのは助かっているが、この世界は腑に落ちないことが多すぎる。
「今の時間なら就寝してるだろう……。どうやって物を盗るつもりだ」
 眉間に皺寄せるシルヴィオに、希有は視線を向ける。
 人は殺せても、盗みはできないのだろうか。
 シルヴィオが渋るのと同じように、希有とて進んで盗みを働きたいわけではない。
 両親に幼いころから徹底的に教え込まれたことは、ただ一つ。
 悪いことはしてはいけない、それだけだった。
 異常に体裁を気にしていた両親にとって、悪事は絶対に犯してはいけない禁忌だった。
 だが、その禁忌は、既に犯してしまった後だ。だからと言って、これから行っていく悪事が赦されるわけではないが、希有にとって優先されるべきは自分が生きることだった。
 良心の呵責も、潰されそうな自分に対する嫌悪も、全て無視するしかない。生きるためなら仕方ないなどという理由で、悪事も罪も正当化されていいものではない。
 そもそも、悪事も罪も、正当化することが間違っている。正しく道理に叶った悪事など、存在するはずもない。
「シルヴィオ」
 あまり乗り気ではないシルヴィオの名を、希有は懇願するように呼んだ。渋々でも構わないから、彼には動いてもらわなければ困る。
「下働きなら、交代で夜半にも動いてるだろ。料理人なら朝の仕込み当番とか……」
 城での下働きの仕事など知る由もないが、夜半にでも働かなければならない人間はいるだろう。
「――さあな。俺は知らない、そんなこと」
 投げやりな言葉が癇に障ったが、ここで怒ったところで事態は好転どころか暗転しかしない。
 シルヴィオは希有を子ども扱いするが、これではどちらが子どもか分かったものではない。
 大人なのだから、全て受け入れた上で割り切ってもらわなくては困る。
 せめて少年のように無邪気であったならば、これほど彼が渋ることもなかったのだろうが――、生憎と、シルヴィオは無邪気というわけではなかった。
 明らかに矛盾した男であるから、それも当然なのだろうか。利用しやすいかと思えば、そうでもないのが困りものだった。
「まあ、あんたに期待はしてなかった。とにかく、何であれ夜半にも動いている奴らはいるはずだ。それが一室ごとに動いていれば幸いだが、――そこまではわたしにも分からないな」
 一室ごとに当番をしてくれれば助かるが、実際、そうもいかないのだろう。同じ仕事に就く人間が同室になっているとは限らない。
「それに、掃除も、廊下の物品の整頓もきちんと行われているから、ここは女性の住居みたいだ。あんたなら、――女の数人ならどうにでもできるだろ」
 最低の言葉を吐いているのは分かっている。こちらに来てから、悪役になった気分だ。打算ばかり繰り返しているおかげかもしれない。
「……女に何をするつもりだ」
「ちょっと黙ってもらうだけだよ、できるでしょ?」
「最低だな、お前は」
 軽蔑の眼差しだった。心が痛んだような気もしたが、おそらく錯覚だろう。
「今さら分かったの? だいたい、そんなの牢屋を抜け出す時から知っていたはずだろ」
 普通のか弱い女であったならば、監守を誘いこんで傷つけさせるような作戦は思いついても実行しない。
「忘れてないよな? あんたはその最低な女に力を貸した男だってこと」
 シルヴィオが遣る瀬無いように、額に手を当て宙を仰いだ。
「失礼な反応だな」
「悪かったな、俺は根が正直なんだ……。本当に、お前は……っ……!」
「……おい、どうした?」
 突然しゃがみ込んだシルヴィオに、希有は慌てて声をかける。
 先ほどまでと様子が全く違う。額に脂汗を滲ませて、彼は荒い息を吐き出していた。
 シルヴィオの右手は、自らの左腕を押さえ込んでいる。
「……、傷が痛むのか?」
 彼があまりにも自然に動いていたので忘れていたが、彼の怪我は軽いものではない。
 それは、応急処置をした希有も良く知っている。
「――、平気、だ」
「無理するなよ。とりあえず、壁際に……」
 廊下の真中で足を止めるのは、今の状況を考えると危険だ。
「立てるか?」
 希有は眉を顰めてシルヴィオに手を伸ばしたが、彼は構うなと言わんばかりに首を振った。
「――ここから、三つ、……四つか?」
「え?」
「……その先の部屋には、おそらく誰もいない」
「……? そんなこと、分かるのか」
「人の気配を読む訓練はしている。……外れたことは、一度もない」
「なに、化物染みた技。――傷は平気なのか?」
「……、もう平気だ。少しぶり返しただけだ」
 唇を噛みしめ、半ば呻き声のように彼は言った。その顔色は、随分と青白かった。
「あんたがそれでいいなら、いいけど……。四つ先で、あってるんだな?」
「お前が俺を信用するのなら、な」
 シルヴィオは、希有の手を取ることなく自力で立ち上がった。
「いくらなんでも、あんたがこんな場面で嘘をつくような人間だとは思ってない」
 足音を立てないように移動しながら、二人は四つ先の部屋の前で立ち止まった。
 希有が扉に手を掛けて見ると、それは簡単に押すことができた。鍵の一つもかけないなど、不用心なことだ。
 恐る恐る中を覗くと、人影は見当たらない。
 入ってすぐに部屋が広がっていて、他の部屋に繋がるような扉はなかった。どうやら、部屋は一つしかないらしい。風呂などは、共同で使っているのかもしれない。
 質素な内装の部屋には、ベッドと小さなテーブル、あとは衣装棚が鎮座しているだけだった。
 部屋に入ってから一息ついて、希有はシルヴィオを振り返った。
「あんたの言うとおり、全員出払っているみたいだ」
 希有は、手始めに衣装棚を開ける。静かに中を漁って、使用人の服と思わしきものを見つける。
 流石に女物しかないと思っていたのだが、何故だか男物の服まで在る。男を連れ込むような真似でもしていたのだろうか。
 黒を基調とした服を手に取り、男物の方はシルヴィオに渡した。布の肌触りや質から考えて、同程度の身分で同じような仕事に就いている人間のものだろう。
「これは?」
「着がえろ。血みどろで逃げ回るのは目立つ」
 希有もシルヴィオも、乾いた血に塗れた服を着ている。これでは、何かあったと言外に主張しているようなものだ。
「それに、使用人の格好をしてれば、いざという時にも誤魔化しが効くかもしれない。保険だよ、保険」
 その言葉とともに、豪快に服を脱ぎはじめた希有に、シルヴィオが慌てて叫んだ。
「……っ、いきなり何をして!」
 思いの外の大音声だいおんじょうに、希有は反射的にシルヴィオの口を塞いだ。
「叫ぶな、阿呆!」
 息苦しそうに顔を歪めたシルヴィオに、希有は仕方なく手を放す。
「男なら、女の着替えくらい黙って目を逸らすのが礼儀だろう」
「女なら、いきなり服を脱ぐな……!」
 流石に大声を出したことは失敗だと思ったのか、シルヴィオは囁き声で希有を非難した。
「はいはい」
「なんだそのやる気のない返事は……、もう少し慎みを持て」
「……何日も同じ牢で過ごしたんだ、今さらあんた相手に被る猫も、取り繕う慎みもない」
「俺は取り繕うのではなく、普段から女らしく慎みを持てと言っているんだが」
「はいはい、分かりましたよ。――それで、いつまで見てる気?」
 既に肌着一枚となっている希有に、シルヴィオは頬を赤くした。いい年をした男が、自らで子どもと評した女に対してする反応ではない。
「……っ、すまない」
「あんたもさっさと着替えるんだな。こっちも、いきなり脱ぎだして悪かった」
 互いに背中合わせの状態で着替える。部屋に響く衣擦れの音が原因なのか、僅かに息が詰まるような緊張感があった。
「何か落ちたぞ?」
 希有は、シルヴィオの方から転がってきたペンダントを拾い上げる。ロケットペンダントになっていたそれは、床に落ちた衝撃で開いていた。
「写真……?」
 茶髪に銀の瞳をした男と、長い赤毛の少女に囲まれて、今よりも随分と幼いシルヴィオが笑っている写真だった。
 この世の幸福を詰め込んだような温かな肖像に、澱んだ思いが心に溜まるのを感じた。
 希有と同じ牢に入れられていたとはいえ、帰る場所のない希有と彼は違う。
 ――、シルヴィオには、この温かな写真のように帰る場所があるのだ。
 それが、とても憎らしく感じられた。
「……カメラなんてものが、あるのか?」
「一応、な。似たようなものは、以前ファラジア家の者が持っていたらしいが、原理の解明ができたのは数年前になる。市場に出回るには、かなりの時間がかかるだろう」
 市場に出回っていないような代物を持っているということは、やはり、シルヴィオの育った家は、それなりに身分があり裕福なのだろう。
「この女の子、綺麗。恋人?」
 赤毛の少女を指差して白々しい言葉を呟けば、それに気づくことなくシルヴィオは薄く笑みを浮かべた。
「妹のようなものだ」
 希有が義務として生きることを望むのと違い、シルヴィオは確かな目的を持って生を望んでいる。
 彼には、帰るべき場所が在る。
 牢屋で手を結んだ薄っぺらな利害関係ではなく、温かで幸せな関係性をシルヴィオは持っている。
 その関係性こそが、シルヴィオにとっての生きる意味なのかもしれない。
「…………、そう」
 たったの数日同じ牢に入れられていたからと言って、希有がシルヴィオの大部分を占める人間の仲間に入れる道理はない。
 下手な仲間意識を持てば痛い目を見ると、知っていたはずだというのに。
「――、幸せそうな、笑顔だな」
 シルヴィオと希有は違う。
 希有は、この世界で独りでしかないのだと、嫌でも思い知らされた。