farCe*Clown

第三幕 捕らわれ人 22

 ――、だが、予想していた衝撃が訪れることはなかった。
 代わりに、周囲が一斉にどよめく。
 心臓は更なる早鐘を打ち、息を止めていた身体が、浅く呼吸を繰り返し始める。
 首筋に滲んだ汗や、渇く喉に胸が苦しくなる。
 現状を確認するべきだと脳は訴えるが、心はひたすら瞳を開けることを恐れていた。
 希有は目を開けることすらできずに、体を震わすことしかできなかった。
「何事だ!」
 カルロスの焦慮しょうりょの声が耳に入る。
 続けて、何かがぶつかり合うような高い音、そして広場には似合わぬ重い銃声が響き渡る。
 追従するように聞こえるのは、人々の悲鳴だった。
「ローディアス公爵家の私兵ですっ……!」
「ローディアス、……! おのれ、あの女狐。王位を継げぬ分際で、今さら私に楯突く気か!」
「……、カルロス様!」
「処刑を続けろ! 構うものか、何人たりとも邪魔立ては許さん!」
「しかし……、ここは危険です!」
 混乱する音の中、――その声は、はっきりと希有に届いた。

「キユ!」

 聞こえてはならない幻の声だった。
 優しい声に、名を呼ばれることが好きだったのは希有だけの秘密だった。
 ――、彼が、ここにいるはずがない。
 それでも、聞こえた声を消し去ることができない。この声が、幻でも真実でも、ただ溢れ出る歓喜を止めることができない。
 どれほど、自分が彼に心を傾けていたかを思い知らされる。
 最期を迎えるために誂えたような、彼と過ごした優しいひとときを胸に抱いて、死に逝くはずだった。
 期待と不安を入り混ぜて、希有は固く閉じた瞼をゆっくりと開いた。
 目に鮮やかなほどに、咲き誇るのは桜。
 あの色を、忘れることなどできるはずもない。
「どう、して……」
 彼は細身の剣を奮って、いつか夢見た王子様のように、希有の元へと降り立った。
 曇天の隙間から零れおちる陽光に照らされた美しい横顔は、確かに彼のものだった。
「どうして来たの、シルヴィオ……?」
 涙は流さないと決めていた。
 シルヴィオは、真っ直ぐに希有の元へと歩んでくる。周囲の何一つを歯牙にかけることなく、その瞳は揺れることなく希有を射抜いた。
 執行人は、身動き一つ取れずに呆然とその光景を見ていた。
 人々の視線をものともせずに、彼は足を止めない。
「キユ、一人で生きていけるとお前は言ったな」
 彼は切なそうに目を伏せて、震えて掠れた声で躊躇いがちに言った。
「だが、……それでお前は、幸せなのか?」
 彼は、何を言っているのだろうか。
 希有は幸せだ、こんなにも満ち足りている。
「……だって」
 満ち足りてなければ、ならないのだ。
「だって、仕方、ないっ……」
 この死が幸福なものでなければ、希有の存在はどうなる。
 希有の存在価値など、この世に生を受けた瞬間から、一つもなかった。
 才能に恵まれた家系に生まれ、それでも平凡だった両親の間に生まれたのは、優秀過ぎる姉と愚鈍過ぎる妹の双子の姉妹だった。
 あの子は世界に不可欠なものとして、希有は世界に不必要なものとして生まれてしまった。
 双子の姉妹は、姉さえ在れば、妹はいらなかった。
 二つに別たれる必要などなく、希有は姉の残滓ざんしで生まれたに過ぎなかった。
 ――、残りかすを愛する者が、何処にいると言うのだ。
 同じ姿形をした少女を並べれば、誰もが秀でている方を選ぶに決まっていた。
「幸せじゃなきゃ……、価値なんて、ない」
 漸く、理解してしまった。
 名前も知らなかった。だが、欲しくて欲しくて堪らなかった何かの名前。
 それはきっと、自分に対する価値・・だ。
 期待され羨望される辛さに耐えるあの子のために、傍にいると誓った。誰があの子を厭い羨んだとしても、希有だけはあの子を肯定し続ける味方になることを幼い頃に決めた。
 それは同時に、希有が己に価値を求めるがためでもあったのだ。
 何一つできない希有を愛してくれたのは、皮肉にも、希有の望むものすべてを持っている美優あの子だけだった。
「わたしは、要らないものだったって……、認めるしかなくなるじゃない!」
 それもきっと、憐れみのような愛情だったのだろう。
 優しい子だった、それ故に血を分けた妹として特別な位置に据えてくれただけなのだ。ありのままの希有を好いてくれていたわけではない。
 不要なもの。他者の恩恵に縋る寄生虫。
 誰に言われるよりも早く、希有自身が分かっていた。
 誰よりも知っていたからこそ、己に価値が、この生に意味が欲しかった。
 幸福に死ぬことができれば、誰かのために死ぬことができれば、きっと希有の命にも意味が与えられる。
 要らないものではない、価値ある人間になれる気がした。
 臆病な卑怯者となじられても、そんな風にしか希有は自分を愛せなかったのだ。
 満足に己を愛することもできず、外面を取り繕って、これ以上傷を増やさないように生きている自分。誰を傷つけても、いつだって、自分のことしか考えない。
 誰よりも、何よりも、希有は己が厭わしかった・・・・・・・・のだ。
「わたしは、あなたが思うよりもずっと、醜くて卑怯なの。あなたの望むような、……強くて、優しい子どもなんて、何処にもいない!」
 変わりたかった。
 できることならば、シルヴィオの望むような人間になりたかった。
 だが、希有は今も醜い卑怯者のままで、何一つ変わることはできていない。変わってみせると口にしたのに、踏み出す一歩を恐れて、立ち竦んで震えている。
 彼が夢見るような、強くて優しい少女になれない。
「……俺がお前に何を望んでいるかなど、お前は何一つ知らないだろう?」
 希有は目に溜まった涙を堪えて、首を振る。
 優しい彼は、口にすることはないだろうが、彼が望む姿など分かっていた。
「言わなくても、分かるよ」
 傷を抱えたシルヴィオが求める少女は、――あの子のように、強くて優しい女の子だ。
「分かってなどいない。何故、伝わらない、どうして目を背ける」
 耳を塞ぎ、なおも首を振る希有に、シルヴィオは叫んだ。
「お前の価値は、お前が決めるものではない……!」
 怒気を滲ませて、彼の頬はわずかに紅潮していた。
「卑怯だろうと、臆病だろうと! ……構うものか。俺を救ってくれたのは、そんなお前だ」
 彼は庭園で優しく諭したように、今度は怒りを以って同じことを口にした。あの時と同じように、シルヴィオは希有を否定しない。
「願うだけでは何一つ変わりはしない。……手を、伸ばしてくれ」
 シルヴィオは、希有を見透かすように見つめる。
「キユが手を伸ばしてくれるならば、俺は何度でもその手を握ってやろう」
 意固地な自分の、小さな自尊心で張った虚勢が溶けていく。
 どうして、彼の前では、こんなにも無防備になってしまうのだろうか。
 何もかも曝け出して、弱くて、愚かな希有を露わにしたいと思ってしまうのだ。
 ――、シルヴィオは、どんな希有でも拒まないのだと信じたくなる。
 この姿は、彼の求めるものではないだろう。それでも、彼ならば、ありのままの希有を認めてくれる気がするのだ。
 夢のように甘い言葉を信じたところで、虚しいだけのはずだった。
 手を伸ばせば届くものなど、触れて温もりを与えてくれる腕など、いつの間に希有は覚えてしまったのだろうか。
 傍に置いてくれる人など、四年前に亡くしたはずだった。
「……怖い、こわいよっ……」
 ――死は恐ろしい、怖くて堪らない。
 どれだけ建前や理由を並べたところで、未来がが途絶えることは恐怖でしかない。
 他人の命を奪った上で繋がった道だ。
 償いなど存在しない、傷つけて喪わせてしまった人は、二度と戻りはしない。
 それでも、どれほど罪深くなろうとも、希有は死にたくないのだ。
 消えることなく罪は希有の中に在り続けるだろう。
 未だに、罪を背負うという意味さえも、分からないが――。
 それでも、叶うならば、未来を夢見たい。

「生きて、いたいよっ……!」

 生きていたい。
 嗚咽と共に滲み出た悲鳴こそが、希有が心から望む本当の願いだった。
 死に追いやってしまたあの子の代わりに、生きることを義務だと言い聞かせていた。
 希有を守ってくれたがために、死ぬことは運命なのだと決めつけた。
 死を恐れていた、生きることの理由など分かりもしなかった。
 今もその理由など分からないが、いつかそれを知るために、希有は生きていたい。
 彼の隣でその理由を見つけられるのならば、どれほど素敵なことだろう。
「……くっ……!」
 呆然としていた執行人が、我を取り戻したかのように慌てて斧を振るう。
 焦った声と共に振り翳された斧の柄を、シルヴィオの剣が滑らかな動きで切り落とす。
 仮面の下で執行人の驚愕の声が聞こえた。
「もう、傷つかなくていい」
 差しのべられた手に、流れ始めた涙は止まることを知らない。

「今度は、俺がお前を守るから」

 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかった。
 独りはとても寂しいから、物語のお姫様になりたかった。彼女のように、優しく守ってくれる人が欲しかった。
「……っ……」
 想いが溢れて、言葉にならない。
 声にならない叫びと共に、希有は震える手をシルヴィオに伸ばす。
 この手は彼に届くだろうか、届けばいい。
 彼が言ったように、この手を伸ばせば届くものがあるのならば、冷えた体に温もりを与えてくれる人がいるのであれば、希有は生きたい。
 誰のためでもなく、どうしようもなく臆病で卑怯者な自分を愛するために、少しずつでも変わりながら生きていきたい。
 自分を愛することができたならば、いつの日か、希有は生きる意味を見つけ出せるだろう。
 温もりが繋がった瞬間に、目前で桜色がぜた。咲き誇る桜のような佇《たたず》まい、春の芽吹きのような力強い生命の色。
 ――希有にとっては、何よりも優しく愛おしい色だ。


「我が名は、シルヴィオ・リアノ」


 混乱していた場に、凛然りんぜんとした声が響き渡る。
 それは、国を背負う者にしか与えられない、至上の名だった。
 ――、気に留めることもなく流してしまった言葉のすべてが、希有の中で一瞬にして繋がり始める。
 彼は嘘はついていなかった。明確に真実を述べることがなかったために、希有が気付けなかっただけだったのだ。
 不敵な笑みを携えたシルヴィオの瞳が、怒りで顔を赤くするカルロスの姿を捉える。
「先王の遺言に従い、王位を継承する」
 絶対的な王者の声に、誰もが口を開くことができない。
 群衆の悲鳴は、いつの間にか止んでいた。
 逃げ惑うことも忘れて彼らが静かに見つめる先には、確かながいた。
 武装した男たちが、シルヴィオの傍に駆け寄ってくる。彼らはシルヴィオと希有を守るように円陣を組み、カルロスに剣を向けている。
「王命だ」
 男たちは、シルヴィオの言葉に一斉に頷く。
 暗雲の立ち込める空を裂くように、陽光と共に春雨が降り注いだ。
 光を浴びて煌めく雨が、シルヴィオを祝福するかのように、すべてを洗い流していく。
 この世のものとは思えぬほど美しい光景に誰もが目を奪われる中、シルヴィオは声を張り上げた。
「玉座を穢す国賊を捕えろ!」
 剣戟けんげきを振るう音を聞いたのを最後に、希有の記憶は途絶えた。

 深く夢に沈んでいく中で、誰かがそっと抱き締めてくれたような気がした。