farCe*Clown

終幕 陽だまりの人 23

 ――、夢の中で、懐かしい色を見た。
 中学校の入学式の朝。住む家を別ち、異なる制服に身を包むことになろうとも、少しも寂しくはなかった。
 お互いの首にかけたネックレスと同じ桜の木を見上げて、顔を見合せて笑う日々の中で、寂しさを感じることなどなかったのだ。
 自分たちの距離は、決して変わらないものだと信じていた。二人を引き裂く変化など訪れないと思い込んでいた。
 薄れていくものは、いつだって美しく優しかった日々。
「美優、ちゃん」
 それは、希有が醜い嫉妬であの子を裏切る前の話。

「キユ……!」

 希有が静かに瞼を開けると、夢と同じ桜色が目に入る。
「……、シル、ヴィオ?」
 希有の顔を覗き込むようにして、瞳を潤ませたシルヴィオがいた。
「……っ、よかった」
 耳朶を打つ声は、柔らかに希有の中に溶けていく。
 シルヴィオの震える手が、そっと希有の頬に伸ばされる。希有の存在を確かめるように彼の指は頬を撫ぜ、次の瞬間、希有の視界一面に桜色が広がった。
 抱きしめられたのだと気づいた頃には、力強い腕が背中へとまわされていた。
 シルヴィオの大きな身体が、希有に熱を与えていく。染み入るように伝わる熱が、これが夢ではないことを教えてくれた。
「あった、かい……。わたし、……生きてる?」
 涙で霞む視界の中、喉の奥から嗚咽のような呟きが零れ落ちた。
「生きているに、決まっているだろう……!」
 背中にまわされた腕に力が込められ、重なる鼓動に身体が打ち震えた。
「迎えに、来てくれたの?」
 一度ならず二度も、彼は希有を見捨てなかった。必要ならば切り捨てることも厭わない人が、希有を迎えに来てくれたのだ。
「約束したはずだ。必ず助けると」
 叶わないと諦めていた約束は、反故されることなく叶えられた。
「すまなかった。……、ただ、盗まれただけのお前を巻き込んでしまった」
「……、謝らないで」
 謝罪するシルヴィオに、希有は口元を緩めた。
「だから、代わりに聞かせて。どうしてこんなことになったのか……、どうして、シルヴィオが王なのか。それで、全部終わりにしよう?」
 シルヴィオからの謝罪など、希有は望んでいない。
 わずかばかりの沈黙の後、背中にまわされていた手が解かれて、彼の身体が離れていく。
 それは、了承の意だった。
「お前は、王とそれ以外の人間の差を、知っているか?」
 希有は首を振る。その差を知っていたら、シルヴィオこそが王ではないか、と希有は疑っていたはずだ。
「前にも少し話したが……、俺たちの言語が通じるのは、世界の一部を操る権利――、すなわち、蟲を飼っているからだ」
「……、うん」
「王とそれ以外の人間との違いは、世界から賜っている蟲の数だ」
「権利の数が人より多いってこと?」
「ああ。当代の王族一人に、その国特有の、世界の一部を操る権利が与えられる。――その者こそが、資格を持ち王になる者だ」
「……、特別な蟲を宿すことが、リアノの王の証……」
「リアノだけではない。どの国でも、王の資格は国特有の蟲を宿すことだ。権利なきものに、王の資格はない」
 希有は、漸く得心する。
 カルロスは、特別な蟲を持っていなかったが故に、王位を継げなかったのだ。資格を持っていたのは兄であるカルロスではなく、弟である先王だったのだ。
「王子の頃の失態は事実のようだが、カルロスが王になれなかった一番の理由はそれだ」
 そして、――先王が有していた権利は、新たな持ち主へと受け継がれているのだ。
「カルロスと違って、シルヴィオは資格を持っている。――、だから、正統な後継者として望まれたんだね」
 シルヴィオがカルロスに剣を向けた時、全ての歯車が噛み合った。
 シルヴィオは、――生まれや血に囚われた人は、王になる人であるが故にそう在った。
 彼は誰かに仕えるためにではなく、いつか民の上に立つために、多くを学んできたのだ。
 考えてみれば、ただの貴族が城の内部まで知っているはずがない。城の構造のすべては、王族しか知らないと彼は明言していた。
 城の道を熟知していたのは、彼が王の血を引くからだ。
「でも、――、どうして、シルヴィオは歴代の王たちと似ていないの?」
 並んだ肖像画の王たちと、シルヴィオの容姿はあまりにもかけ離れている。
 シルヴィオが持っていたロケットペンダントの写真。あの写真に映る茶髪の男の方が、シルヴィオよりも、よほど王族らしい容姿をしていた。
「俺は先王の血を引いているが、……妃の子ではない。先王と似ていないのは、単に、俺が母親の生き写しだからだよ。この髪も瞳も、顔さえも、母から全部受け継いだ」
 シルヴィオの言葉が意味することは、希有にでも察することはできた。
 ――彼は、落胤なのだ。
 今まで一度も表舞台に上がることのなかった子が、妃の子どもであることの方が不自然だ。
 他の王とは似ても似つかない容姿をしている彼が、どのような事情があって公爵家に身を寄せていたのかは知らない。希有には彼を取り巻く背景など一つも分からない。
 だが、彼の置かれている立場が、決して良いものではなかったことは分かった。
「……、どうして、助けに来てくれたの」
 不安定な立場に在りながら、彼は身を呈して希有を助けに来た。それは、きっと彼にとっての不利益に繋がる。
「生きていてほしかった」
 沈んでいく希有の思考を遮るように、力強い声でシルヴィオは言う。
「理由など、それだけだ。気がづけば周囲の反対を押し切っていた」
「……、なにそれ」
「後先考えずに、その望みだけで行動していた。王になる者としては、あるまじき行動だったのだろうな。――それでも、後悔はしていない」
 シルヴィオの顔が何時になく晴れやかで、希有は胸の奥が痛むのを感じた。
「ばか、だね」
「そうだな。だが、俺を庇ったお前も莫迦者だ。……、生きていてよかった、キユ」
「……、うん」
「物言わぬ骸に触れるなど、俺は御免だ」
 希有は、黙って頷いた。物言わぬ骸となった彼を見たくないのは、希有も同じだ。
「暫くは、おとなしくしていろ。早く元気になって、俺を安心させてくれ」
「……子どもじゃないんだから、おとなしくくらいできる」
「大人はそうやって言い返さない」
 彼は揶揄するように笑って、――それから、希有の頭に巻かれた包帯に触れる。それは、処刑の日に投げられた石で切った、未だに痛み残る傷だった。
「……、痛いだろう?」
 痛くないと言っても、シルヴィオは信じてくれないのだろう。今にも泣きそうな顔をして、彼は包帯越しに希有の額に口づけた。
「こんな目に合わせて、……本当に、すまない」
 何度も謝罪を繰り返すシルヴィオに、希有は静かに首を振る。
「助けに来てくれたから、大丈夫。……ありがとう、シルヴィオ」
 オルタンシアの死が良かったとは思わない。
 冤罪で投獄されたことが、幸せだったとも思わない。
 だが、――シルヴィオに出逢えたことは、幸運だった。
「……お前が礼を言うとは思わなかった、前みたいに弱っているからか?」
 シルヴィオは、傷に触れないように希有の頭を撫でた。幼子を褒めるような仕草に、希有は複雑な気分になる。
 最早、子どもと呼ばれる年齢は脱するよわいなのだ。
「もう、……子ども扱いしないで」
 視線を逸らせば、彼は堪えるようにして笑った。
「ほん、とに、お前は期待通りの反応をするな。これくらいでねるな」
「……、拗ねてない」
「嘘をつくな」
 わずかに膨らんだ頬を指で突いて、シルヴィオは優しげに目を細める。まるで慈しむような表情に、希有は少しだけ居た堪れなくなった。
「それで、……ここからが、本題だ」
「本題? 話しは終わったんじゃないの……?」
「まだ、大事なことが残っている。――、一つだけ確認させてくれ。俺が牢で熱を出しているときに、お前は俺の血に触れたか?」
「触れたけど。……、それが、どうかしたの?」
 碌な道具の揃っていない牢の中、シルヴィオの傷の手当てをしようとして、希有は彼の血に触れてしまった。
 しかし、今さら、何の問題があるのだろうか。
「リアノの蟲は、王となる者の血に宿る」
「……、もしかして、シルヴィオの食い破られたような傷口は……」
 シルヴィオは、何も言わずに苦笑した。
「王に与えられる権利は、当代の王族の内、一人にしか赦されないものだ。他人にその権利が譲渡されることはない。だが、……庭園でのお前の不調を考えると、あれは代償の一つかもしれない」
「……え?」
「断言はできないのだが、蟲が譲渡したのではなく、お前に伝染・・した可能性がある」
 畳みかけるように続けられた言葉に、希有は呆けたように口を開けたままにしてしまう。
「病気みたいに、うつったってこと……?」
「世界がお前を気に入ったのかもしれない」
「ちょっと待って、特別な権利なのに……、容易く他人に伝染するのはおかしい。過去にそんなことがあったの?」
「前例はない。だが、すべてを思いのままに変えてしまうこの世界は、俺たちが思うよりもずっと気紛れなんだ。前例がないことは、理由にはならない」
 何が楽しいのか、歌うように言うシルヴィオに、希有は米神をひくつかせる。
「そんな満面の笑みで謝られても、反応に困るんだけど」
「嬉しいからな。――、これで、お前の身の振り方が決まった」
 希有は、ゆっくりと目を瞬かせる。
 彼の言う大事なこととは、希有の今後についてだったらしい。確かに、希有にとってもシルヴィオにとっても、重要なことだった。
「これでお前を何処かに預けることはできない。お前に権利が与えられたかどうか見極めるまでは、俺の目の届く場所にいてもらわなければ困るからな」
 シルヴィオの言うことも、一理ある。
 リアノの蟲とは、国を従える王のみに与えられた権利だ。それを、希有のような小娘が持っている可能性があるのは、リアノにとってもシルヴィオにとっても計算外なのだろう。
 希有としては、自分の安全が守られるならば、文句は言わないつもりだった。面倒を見てもらえるだけでもありがたいので、シルヴィオに保護されることに異存はない。
「……、なんか、言い包められたような気が……」
 しかし、彼に言い包められたような気がしてならない。
「気のせいだ。それで、俺はお前を手元で保護するために――、とりあえず、お前を城に囲うことにした」
「……、は?」
「以前、お前と同じ闇色を宿した一族の話をしたな。彼らが滅んだのは二十年ほど前だが、……民衆の好きそうな話だろう」
「……まさか、安っぽい物語みたいなことは、言わないよね?」
 希有の懇願するような視線を、シルヴィオは気にも留めなかった。
「滅びたと思っていた一族の生き残りが、不幸にも冤罪で処刑されそうになる。死を待つ少女を救いに現れたのは、新しい王だった」
「……、何処の、三文芝居」
「出来すぎた物語の方が人は好むのだろう? 都合良く雨が降ってくれたおかげで、お前の髪色を皆が目にした。二十年ぶりに黒を宿した者が現れたんだ。祝福の色を持つ一族の生き残り・・・・に、民衆が湧かないはずがない」
 シルヴィオの言わんとすることを察して、希有は口元を引きつらせた。
「さ、詐欺だって。人を騙しちゃいけないよ……、シルヴィオ」
「お前にだけは、言われたくない台詞だな。なに、悪い話ではないはずだ。お前、まさか忘れてはいないだろう?」
 シルヴィオは、それは凶悪な笑みを浮かべて希有に詰め寄った。
 痛む傷を我慢しながら寝台の上で後ずさった希有の手を、彼は逃がさず掴んだ。
「自分が、大罪人の死刑囚だということを」
「……っ、冤罪だ!」
「さあ、何の事だか」
「わたしの罪は晴れた! 冤罪だって、シルヴィオも信じて……」
「信じているが、それとこれとは話が別だ。お前の罪を晴らすのも晴らさないのも、俺の自由だろう?」
 希有の未来を掌で転がしながら、飄々ひょうひょうと彼は語る。
「なにそれ、見損なった……!」
「褒め言葉か? 流石の俺も照れるな」
 握っていた手を放して、彼はわざとらしく肩を竦める。
「――っ、さ、最悪」
「最悪? 最高の間違いだろう?」
 批難の声をあげる希有と視線を合わせるように、シルヴィオは顔を近づける。
「ち、近い! この、性悪……! こんな奴だなんて、知らなかった」
「性悪で結構だ、これが俺だ。お前のように猫を被っていたつもりもないしな。勝手に勘違いしたのはお前だろう」
 喉を震わせて、シルヴィオは笑う。
「何度も言うが、悪い話ではないはずだ。俺が傍にいれば、この世界で独りのお前を守ってやれる」
 希有は唇を噛んだ。
 この世界には、希有を庇護するものが何一つない。
 自らが育った場所と異なる世界を独りで生きていくことが、どれほど難しいかは考えるまでもない。
「……、何より、俺がお前に傍にいてほしい」
 春の光を帯びた若草。柔らかであるのに、時に強い輝きを放つその瞳に射抜かれて、希有は言葉に詰まる。
 この眼に、希有は弱い。
「……、もの好き」
 逸る鼓動を抑えて、希有は口を開く。
「仕方ないだろう。お前ときたら狡猾そうで詰めが甘い、最後の最後で失敗をする。危なっかしくて見てられない」
「……、言ってくれるね」
「図星だったからと言って、むずかるな。……、とにかく、お前が元の世界に戻る時まで、俺がお前を養わせてもらう。不自由をさせるかもしれないが、要望はできる限り叶えよう。――不満か?」
 希有は、ゆっくりと首を振った。不満などあるはずがない。希有には勿体ないほど、ありがたい待遇だ。
「そういうことじゃない。そうじゃなくて……わたしは」
「……、分かっている。お前は甘えるのが恐ろしく下手だからな。誰かの世話になることに、躊躇いがあるのだろう?」
 彼の言葉は当たっている。
 優しさに惹かれても、その恩恵を自分が受けていいのか躊躇ってしまう。
「お前が本当は図々しくなどなく、むしろ、その逆だということも知っている。だが、今はこれが最善だと思って、甘んじて受け入れてほしい」
「…………、シルヴィオは、わたしがいても邪魔じゃない?」
 シルヴィオは目を丸くして、次の瞬間には愉しそうに目を細めた。
「そのようなこと、言わずとも分かるだろう?」
 愉悦に充ち溢れた表情は、まるで知らない人を見ているかのようだった。
 牢屋にいる間や逃走中は意識したことはなかったが、彼は希有よりもずっと大人の男なのだと知る。
 年齢の問題だけではなく、その心の在り方も違うのだ。
「分からないから、聞いているんだけど」
「…………、本気か」
「嘘ついてどうするの」
 シルヴィオが頬を引きつらせた。
 呆れているというよりは、怒っているような印象を受ける反応だった。彼は、隠すそぶりも見せずに、柳眉を曇らせた。
「鈍い。言わなくても分かってくれ」
「無茶言わないで、頭が悪いのは元からだよ」
 複雑そうな表情で前髪をかき上げて、シルヴィオは溜息をついた。
「……お前が邪魔ならば、放り出していただろうよ。どうなっても構わない奴のために、このようなことはしない」
 今の時点での、彼の言葉に嘘はないように見える。
 だが、眼前の男は中身がちぐはぐだ。
 彼にとっての責任と義務は、王であることにしかない。優柔不断で一貫性がない彼の中で、確固たる唯一は、王であることだけなのだ。
 ――だが、シルヴィオ自身が、王になりたかったとは思えないのだ。
 周囲はシルヴィオが賢王となることを望むだろう。そのために、彼は今まで公爵家で育てられてきたのだ。しかし、彼自身は己が賢王だろうが愚王だろうが、王であれば良いと思っているに違いない。
 彼にとっての生きる意味は王であることだけだが、王になりたいと願ったわけではないのだ。
 それ故に、抱え込んでしまった唯一以外への矛盾。
 迷子のように目的地を変えては彷徨い続けるシルヴィオにとって、己が感じる一瞬一瞬は紛れもない真実だろう。それでも、傍から見れば移り気な彼の性格は、酷い欠陥だと思われるはずだ。
 それは、――きっと、王としても致命的な欠陥だ。
「シルヴィオにとって、……わたしは、必要?」
「傍に居てほしいと、言ったはずだ」
 答えにならない答えに、希有は思う。
 彼の希有に対する思いは、気に入りの玩具に対する愛着に近い。玩具を与えられたことのない子どもが、初めて手にした玩具を大切に思うような、刷り込みに近い思いなのだろう。
 彼は、刹那の感情で希有を見離さなかった。だが、シルヴィオが希有を助けたことと同じように、何でもない瞬間に、希有を見捨てることもあり得るのだ。
 子どもが玩具に飽くように、愛着はいつか薄れ、希有の想像は現実となるだろう。
「なあ、キユ……」
 不意に名を呼ばれて顔をあげると、シルヴィオは希有の黒い瞳を見つめていた。

「魔法をかけて、くれないか?」

 突然、シルヴィオが希有の手をとった。
 その手を振り払うことができなかったのは、彼が、今にも泣き出しそうな顔をしているからだ。
「シルヴィオ?」
 シルヴィオは、半ば倒れ込むような形でキユの胸に頭を預けた。
「ちょっと、何やって……」
「優しい、優しい魔法の言葉を、俺にくれ」
 弱弱しい態度に、希有の脳裏にある記憶が浮かび上がる。
「これから先、どんなことがあっても、俺はお前が取り戻させてくれた俺を……、忘れたくない」
 牢獄で涙を見せた美しい青年の記憶は、つい先日のことだというのに、随分と昔に感じられた。
 だが、涙を流したシルヴィオの姿を、希有は鮮明に思い出すことができる。
 忘れることなど、できるはずもない。
 あの時、涙は流さずとも、きっと希有も彼と同じく泣いていた。
 ――、喉元に引っかかる言葉がある。それは彼にとって良くない言葉でもあった。
 しかし、躊躇いを振り払い、希有はそれを紡ごう。
 希有の存在は、様々な面でシルヴィオにとって良いものにはならない。
 希有がこの世界と袂を別つ異物であることに、変わりはないのだ。彼の隣りに並ぶには、あまりにも希有の心は地球に染まり、地球で生きていた年月は長かった。
 だが、いつか彼を愛し大切に想う人が現れるまでは、希有が彼の心を真綿で包もう。ちぐはぐな心が、その矛盾で軋み壊れてしまわぬように、泣き場所を用意してあげよう。
 高慢な考えでも、構わない。自分は彼を泣かせてあげられると、希有は信じることにした。
 少しずつでも、希有は彼のために変わってみせよう。
 ――、この道を選んだことで、きっと、いつか自分を愛せるようになるから。
「貴方は、シルヴィオ」
 胸に預けられた彼の頭を、そっと抱き締める。
 この胸に抱くのは、柔らかな桜色。
 命が芽吹く、春の優しい色を宿した男の人。
「たった一人の――、わたしの、命の恩人」
 希有の心の雪を、そっと溶かしてくれた陽だまりの人だ。
「……、ありがとう。キユ」
 柔らかな声と共に、すべてが生まれ変わるような錯覚がした。
 ああ、きっと。
 嗤ってしまうくらい陳腐な言葉になってしまうが、あの牢獄での出会いは、運命であり奇跡だったのだ。
 シルヴィオは、希有に与えられた救いだ。
 顔を見ることはできなくとも、手に取るように分かった。彼は、麗しい瞳を細めて、恥ずかしそうに笑みを浮かべているだろう。
 ありきたりな言葉が魔法に変わり、そうして彼が笑ってくれるならば、それでいい。
 張りつめた虚勢も、王という仮面も、希有が剥がしてあげよう。
 どうか、今だけは。

「泣いてもいいんだよ? シルヴィオ」

 あの子によく似た、この道化の王様の傍にいさせてほしい。



                            第一部 完