farCe*Clown

第一幕 鮮やかな嘘をつく道化師 30

 小鳥の囀りが聞こえる早朝、わずかに薄暗さを残す時刻だった。
 身体を包み込むような暑さに、希有は目を覚ます。
 薄く目を開ければ、眩い金色が揺れていた。
「キユ様、おはようございます」
「……ミリ、セント?」
 目を擦り身体を起こした希有に、柔らかな布が渡される。それが、入浴の際に渡されるものと同じだと気付いた頃には、既に希有の身体は浴室へと向かわされていた。
 ミリセントを見ると、彼女は微笑んだままに希有を浴室へと閉じ込める。
「お早めに、お願いしますわ」
 状況が飲み込めないままに、希有は深く考えることもなく浴室へと足を踏み入れた。
 温かな湯に浸かると、徐々に頭が冴えていく。
 何故、早朝から、風呂になど入れられているのだろうか。
 疑問ばかりで唸りながらも、ミリセントの言葉に従って早めに浴室を出る。柔らかな布で身体を拭き、下着を着用した時だった。
 突然、扉が開き、笑顔のミリセントが近づいてくる。悲鳴を上げることも赦されぬままに、強引に布に包まれて部屋まで歩かされる。
 全身を見渡せる鏡台の近くには、ミリセントが用意したであろう一着のドレスがあった。
 黒を基調としたドレスで、袖口と裾には細やかな刺繍が施されている。首筋は詰まっていて、胸元には金の釦が付けられ、ふんだんにフリルがあしらわれていた。
 いつも用意される服も相当なものだったが、今回はそれ以上に高価なものに見える。
 一人で着るには難しいであろうドレスを、ミリセントは手際よく希有に着つけ始める。
 希有は動くこともできずに、黙ってされるがままになっていた。流れるような手際の良さに、口を挟むことができない。入浴で頭が冴えてきたとはいえ、未だに起き抜けの頭では上手く現状を理解できなかった。
 うつらうつらとした希有を余所に、ミリセントはドレスの着付けを終える。彼女は希有を椅子に座らせて、今度は楽しそうに化粧を施し始めた。
 鏡に映る自分の姿を視界に捉え、希有は思わず頬を引きつらせた。
「はい、少しだけ目を瞑ってくださいね」
 化粧など、七五三以来だ。
 高等学校では校則で禁止されていた上に、希有には化粧や装飾品にかまける余裕が精神的になかった。
 ほとんど十年ぶりに化粧の施された自分の顔は、ひどく違和感がある。
 ミリセントが希有を子どもだと思っているために、全体的に薄い化粧であることが唯一の救いだろうか。
 桜色の紅を刷けた唇が、淡く光っていた。
「まあ。たいへん、可愛らしいです。キユ様」
 鏡に映る希有の姿に満足したのか、ミリセントは頬を染めた。彼女は手を休めることなく、滑らかな動作で希有の髪を弄りにかかる。
「……、ミリセント」
 シルヴィオが、希有の世話係兼教育係という名の見張りとして任命した、侍女の名前を呼ぶ。
「朝から、何なの?」
 思わず声が上擦ったのは、仕方がないことだろう。
 起きて直ぐに、このようなことをされて、希有は呆気にとられていた。
 流れるような作業は流石と言うべきなのだろうが、説明なしにこのような所業に出られると困る。
 ミリセントを問い詰めることも躊躇ためらわれて、なし崩しにこのような状態に置かれてしまっているが、疑問を口にせずにはいられなかった。
「陛下がいらっしゃる前に、準備をしておかなくてはなりませんから」
 当然のように言ったミリセントに、希有は首を傾げる。
「……、シルヴィオ、様が来るの?」
 シルヴィオが訪れることが、どうして今のように着飾ることに繋がるのだろうか。
 思い返せば、半年前。牢の中や逃走中に、シルヴィオの前で散々な醜態を曝していたのだ。
 今さら、彼相手に外見を取り繕ったところで、何になると言うのか。
 原価が気になるような煌びやかな髪飾りなど、憧れはするが自分が身につけるとなると複雑だった。
 半ば無理やり着せられたドレスも、また然りだ。
 アンダースカートで膨らませ、腰を搾った黒のドレスは、子どもらしい体型を隠しながらも、ミリセントが考える希有の年相応のものに仕上がっている。気の利く彼女は、いつでも希有に見合ったものを持ち出してくる。
 可愛い服など着る機会がなかったから嬉しくもあるが、今の境遇が嘘の上で成り立っていることが心にしこりとなっていた。
「ええ。申し訳ございません、急なことでしたので、ご説明できませんでした」
「……謝らないで。ミリセントが悪いわけじゃないし」
「そのようなお言葉を頂けて、嬉しゅうございます。さあ、陛下のために、キユ様をより可愛らしいお姿にしなけらばなりませんね」
 自らの義務であるかのように語るミリセントに、希有は苦笑いする。
 シルヴィオのために着飾る必要性など、希有にはない。
「飽きられたら終わりなのですよ、キユ様」
 色事の駆け引きは、新鮮味がなくなったら終わりです、とミリセントは胸を張った。
 希有とシルヴィオは恋をしているわけではないので、そんな駆け引きは不要だ。
 第一に、希有のことを子どもだと思っているのならば、そのような話は振らないでほしい。
「……、ほどほどに、お願い」
 言っても無駄なので、口を閉じておく。
 希有の世話を焼く侍女の方がよほど美しいというのに、着飾られていく己が可笑しかった。
 お姫様扱いは嬉しいが、それ以上に罪悪感が募る。
 希有は、本当の黒の一族、――ファラジア家の者ではない。
 ミリセントが希有を受け入れているのは、シルヴィオの命と、希有がファラジア家の子孫だと思い込んでいるからだ。
 生まれたときから、この場所で育てられ仕えるように定められていた、ミリセントを含めた侍女たち。彼女たちは、基本的に異物を受け入れることを良しとはしない。
 それにも関わらず、受け入れて世話を焼いてくれるのは、この二つの理由があるからなのだ。
「……、本当に、臆病な国」
 臆病なリアノ人は、高位になるほどその傾向が顕著になる。
 王城の深部で暮らすミリセントは、驚いたことに、実親に会ったことは両手で足りるほどらしい。
 赤子の頃から、この場所の侍女の手によって育てられるミリセントたちは、親の傍で過ごした日々が一切ない。
 臆病なリアノ人は、自我が確立する前から使用人を育て上げる。もちろん、そのようなことをしているのは王家と高位の貴族といったところだろうが、希有からしてみれば異常なことには変わりない。
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもないよ。いつもありがとう、ミリセント」
「まあ。勿体なきお言葉ですわ。将来有望なキユ様に仕えられた私は、果報者でございます。陛下のお人柄は未だに分かりませんが、ご趣味は宜しいようで何よりです」
 将来有望の意味は分からなかったが、シルヴィオの趣味に関しては同意できない。
 希有を傍に置いてる時点で、シルヴィオの趣味は最悪だ。本人もおそらく自覚しているだろう。
「シルヴィオ様は、特に忙しいんだよね?」
 ここ一月の間、彼が希有の元を訪れるのは一週間に一度といったところである。
 シルヴィオが遺言の子息として名乗りをあげてから、半年が過ぎた。
 既に半年もの月日が流れているというのに、未だにシルヴィオの忙しさは続いていた。
 先王の崩御、カルロスの横行。先の騒ぎに乗じて、或いはそれ以前から不正を働き私腹を肥やしてきた者の洗い出しなど、様々なことを考慮すれば、彼が忙しいことは当然なのだろう。
 それを知りながらも、彼の顔を見れないことに寂しさを感じていることが、少しだけ怖かった。
 シルヴィオが隣にいることに慣れてしまってはいけない。
「そのようでございますね。ここ数日は、自室の方にも戻られていないようです」
 だが、心に浮かんできたのは、シルヴィオの顔が見たいという淡い願いだった。
 そのようなことを考えた自分に驚いたが、希有にとって一番近い場所にいるのはシルヴィオなのだから、無理もないのだと言い聞かせる。
 ――彼が近くに居てくれた方が、心は安らかだった。
 既にこの場所で生活を始めてから半年ほど経っているが、シルヴィオとゆっくりと過ごせた回数はそう多くない。ミリセント以外の他人と接する機会がほとんどないことが救いだが、彼女相手にも疑り深い希有は気が抜けない。
 また、希有はシルヴィオに養ってもらっているだけの穀潰しのようなものだ。働きたいわけではなかったが、何もせずに日々を過ごすことに申し訳なさを感じていた。身分を偽り、ミリセントのような出来た侍女に傅かれ、お姫様のように過ごすことにひたすら罪悪感があった。
 シルヴィオの言葉で大人しくしていることを受け入れたが、今も自分でも良く分からない不安が心に暗い影を落としている。
 希有の零した小さな溜息に気付くことなく、ミリセントは続けた。
「こればかりは、仕様のないことですわ。陛下は特別でございます。本来ならば、王は幼少時からこちらで過ごされるものですから」
「受け入れられていないって、こと?」
 遠回しなミリセントの言い様に、希有は正直に聞き返した。
 かなり直接的に聞いたところで、穏やかな彼女は、困りはしても怒りはしないだろう。
 ミリセントは少しの間をおいて、希有の髪を梳いていた櫛を仕舞いこんだ。
「……臆病な私たちにとって、新たなものとは、それだけで恐ろしいものなのです」
 言外に、希有のことも恐れているのだとミリセントは語っていた。
「互いを知り合わなければ、私たちはいつまでも陛下を恐れたままでしょう。陛下は私たちに、ご自身のことを示さなければならないのです。それ故に、忙しくいらっしゃる」
 シルヴィオは、試されている。
 遺言の子息として即位したものの、臆病なリアノの民が手放しに彼を受け入れるとは希有も思っていない。
 先王の遺言があろうとも、先王と似ても似つかない彼を民が容易く認めるとは考えにくい。
 先王が愛されていたからこそ、美貌の青年は疑いの的ともなるのだ。
「陛下にお会いできなくて、寂しゅうございますか?」
「……、別に」
 ミリセントは苦笑した。
「キユ様は、もう少し正直になられても宜しいですわ。誰も、咎めたりはしませんもの」
 優しすぎる言葉に、思わず宙を仰ぎたくなる。
 この場所は、シルヴィオの傍は、居心地が良すぎる。優しくされることに戸惑いを感じていることも確かだが、それよりも嬉しく思ってしまう。
 穏やかな時間、美優あの子の隣にいた頃と同じような時間が流れていく。
「もっと、陛下に甘えてよろしいのですよ、きっと喜ばれます。もちろん、私にでも構いませんわ」
 甘やかしてくれる人がいることは、心の拠り所があるということだ。
 一人きりの寂しさを紛らわせてくれる人がいる。
 それが、嬉しくもあり、――恐ろしくもあるのだ。
 過ぎた幸いは、いつか希有に牙を剥くかもしれない。手の平を返すように、絶望が降り注ぐ日が来るかもしれないと怯えている。
 驚くことに、失うことに怯えるほど、希有は今の生活を気に入っていた。
「ねえ、今日はどうして、こんなに手が込んでいるの?」
 暗くなってきた思考を遮るように、希有は口を開く。
 シルヴィオが訪れるからと言って、ここまでする必要はないだろう。以前、彼が部屋を訪れた時も、ここまで手の込んだ真似はしていなかった。
 首を傾げた希有に、ミリセントは答える。
「実は、本日は陛下の戴冠式たいかんしきなのです」
 戴冠式。
 希有は、ますます合点がいかずに首を捻った。
「……、どうして、今頃」
 シルヴィオが即位してから、既に半年の月日が流れている。彼の即位が急なものだったとはいえ、戴冠式を行うには時期が遅すぎるだろう。
「陛下ご自身、即位は済んでいますから、今さら戴冠式も行うつもりはなかったようなのです。……ですが、ローディアス公爵家に降嫁されたベアトリス様の意向で、形式だけでも戴冠式を執り行うことに」
 ローディアス公爵家に降嫁。その言葉に、希有は思い出す。
「シルヴィオ様の姉に当たる人?」
 先王の娘ベアトリス王女は、公爵家に嫁いだと教えられていた。その家こそが、ローディアス公爵家だ。
「はい。シルヴィオ様とは異母で歳も離れていらっしゃいますが、先王と王妃様の子であり唯一の王女であられました。それは美しい方で、降嫁の際には、どの貴族からも熱望されていたそうですよ」
 心なしか誇らしげに語るミリセントに、希有は相槌を打つ。城に飾られていた肖像の王たちは、皆、整った顔立ちをしていた。王女であったベアトリスが美しかったというのも頷ける。
「今回、陛下のお心遣いでキユ様は欠席されることになっていたのですが、ベアトリス様が是が非でもキユ様のお姿を見たいと申したそうなのです」
「……、だから、こんなに急に準備を」
「はい、申し訳ございません」
 希有は首を振る。先ほどからのことだが、今の希有の状況にミリセントの非はない。
「私も微力ながら、お力添えをします。陛下の許可は出ていますので、式の直前までは、キユ様の侍女として傍におりますので」
「……ありがとう」
「式の最中にお傍にいることはできませんが、キユ様、頑張ってお勉強していましたもの。大丈夫ですわ」
 碧眼を細めて、ミリセントは部屋に飾られていた時計を見る。
「ああ、陛下がいらっしゃる時間になりますわ。本当に、間に合って良かった」
 計算しつくされたように仕事を終えたミリセントは、悪戯な瞳を希有に向けた。
 ミリセントの言葉の数分後、何の前触れもなしに部屋の扉が開けられた。振り返ると、桜色の髪に白磁の肌をした、美しいシルヴィオが佇んでいた。
 ここ半年で気づいたが、彼はほんとど足音を立てないで歩く。
 既に習慣となっていることなのかもしれないが、突然の来訪に驚いたことは一度や二度ではない。
「いらっしゃいませ、陛下」
 ミリセントは、シルヴィオに深く礼を執る。
 希有も慌てて頭を下げようとしたが、シルヴィオは目線でそれを制した。
「頭を上げて構わない。すまないな、急なことで苦労をさせた」
 シルヴィオの言葉に、ミリセントは静かに面を上げた。
「いいえ、苦労などとは思いません」
 シルヴィオは希有に視線を移す。
「見違えたな。驚いた」
「……、どういう、意味ですか」
 ミリセントの手前乱暴はできないが、内心では殴りたい衝動に駆られた。彼の言葉は、おそらく、馬子にも衣装という意味だろう。
「褒めているというのに、そのような顔をするな。せっかくの格好が台無しだ」
 希有の眉間の皺を指で伸ばしながら、シルヴィオは笑った。
「良く似合っているから、笑った方がいい」
 率直な台詞に、希有は目を丸くする。世辞せじだと分かっていながらも、どうすればいいか分からなくなり、希有はシルヴィオの顔を見つめたまま動けなくなる。
「……、あ、ありがとう」
 先ほどまでの空気と一転した、くすぐったくも温かな空気が流れ出す。
 希有が堪らなくなりミリセントに視線を遣るが、彼女は微笑ましげに希有とシルヴィオを見るだけだった。
「ミリセント、少し席をはずしてくれ。お前も準備があるだろう」
「かしこまりました、陛下」
 希有の助けてほしいという願いも虚しく、ミリセントは一礼して部屋を出て行った。
 彼女が出て行ったことを確認して、シルヴィオは笑う。
「顔が真っ赤だ」
 揶揄《やゆ》するように言ったシルヴィオに、希有は視線を逸らした。
「褒められるのに、慣れていないだけ」
「それは良かった。おかげで面白い顔が見られたからな」
 仮にも女に向かって、面白い顔はないだろう。彼に比べたら、美的に劣る顔だが、面白いなどと言われれば希有とて傷つく。
「本当、……性格悪いよね」
 既に身に染みて分かっていることだが、口にせずにはいられない。初めて会った頃の純真さを、一体何処に隠したのか。
「知っている。昔から、良く言われるからな」
 肩を竦めてから、シルヴィオが、先ほどまでと打って変わって真剣な瞳で希有を見た。
 不意に、シルヴィオの表情に影が落ちる。
「……、すまないな」
 いきなりの謝罪に希有が何も返事ができずにいると、シルヴィオは若草の瞳を伏せた。
「急に、戴冠式に出席させることになってしまった」
 希有は、納得する。
 シルヴィオは、希有を戴冠式に出す気はなかったのだ。ローディアス公爵家に降嫁したベアトリスが口を出さなければ、希有は今もミリセント共にゆっくりとしていたのだろう。
 そのことを、彼は申し訳なく思っているらしい。
 だが、戴冠式に出席することに関して、希有がシルヴィオに怒りを覚えることはない。前々から思っていたことだが、居候の身である希有は、よほど無体なことでない限り、シルヴィオから求められたことを拒否するつもりはなかった。
「別に、良いよ。ちょっと我慢すればいい話だろ?」
「ああ、黙って座ってくれればいい。お前相手に話しかけるような奴はいないと思うが、受け答えは最低限で、当たり障りのない程度にしてくれ」
「……、分かった」
「長くて一時間程度だ。少しの上位貴族と、一部の重臣しか参加しない。大人しくしていれば直ぐに終わる」
 王は、むやみに人前に姿を現さない。
 それを考えれば、少人数しか参加しないことも納得できた。
 だが、既に大勢の民に顔を見られているシルヴィオにとっては、少人数しか参加しないことは意味のないことだ。
 単に、代々の形式を守っているに過ぎないのかもしれない。
「巻き込んだ俺が言えた台詞ではないが、あまり、不安そうな顔をしないでほしい」
「……大丈夫。久しぶりに外に出るから、嬉しいくらいだよ」
 誤魔化すように口にすれば、シルヴィオはそれさえも見透かしたように希有の頭を撫でた。
「無理はしなくていい」
 美しい顔に浮かぶのは、それに見合う優しげな微笑みだ。
 額に触れた優しい指に、希有は目を伏せた。
 これ以上甘やかされれば、希有はさらに調子に乗ってしまう。
「辛いことは辛いと、苦しいことは苦しいと言え」
 やはり、皆、優し過ぎるのだ。
「俺は、咎めたりしない」
 この場所は、柔らかなもので包まれている。
「――、うん」
 そうして、しばらく他愛もない会話をした後に、シルヴィオは部屋を出て行った。
 これから戴冠式に向かう彼の方が、よほど不安であろうに、わざわざシルヴィオは希有の元を訪れた。
 そのような気遣いをされると、大切にされていると錯覚してしまう。