farCe*Clown

第一幕 鮮やかな嘘をつく道化師 32

 月と星が陽光を喰らい輝きを放つ時刻。太陽が闇に負けた空を窓越しに見上げ、希有は溜息をついた。
 戴冠式から数日が経つが、未だに、あの日のことが頭から離れなかった。
 あの後、シルヴィオと共に普段は行かないような場所を散歩したが、気分は少しも晴れなかった。ベアトリスの言葉が、冷たい瞳が、ふとした瞬間に思い出される。
「いかがなさいましたか?」
 浮かない顔をしている希有に、ミリセントが気遣わしげに言葉をかける。
「……、ちょっと、ね」
「戴冠式の日から、顔色が悪いですわ。――、ベアトリス様が、何か仰られたのですね」
 唐突な言葉に、希有は一瞬の間の後に頷く。図星を言い当てられるとは思っていなかった。それほどまでに分かりやすかったのだろうか。
 顔を上げた希有に、ミリセントは給仕の手を止めずに苦笑した。
「あの方は、とても、気の強い方だと聞いております。……、あまりお気になさらないでください」
 ミリセントの手から、淹れたばかりの温かな飲み物が渡される。肌寒さが感じられる秋の夜には、ちょうど良い温度だった。
「刺繍や楽などよりも教養と武術に興味を持ち、噂では降嫁するまで、ずっと王になりたかったそうです」
 地球では、勉学を好み身体を動かすことが好きな女性など山ほどいたが、こちらではそうではないのかもしれない。少なくとも、一国の王女としては、奇特に見えたはずだ。
「……、女の人は、やっぱり、王にはなれないんだね」
 奇異の目に晒されることを知りながらも、ベアトリスは王になるために勉学と武術に励んだのだろう。だが、それが報われることはなかったのだ。
「ええ。砂漠にあるレイザンドなどとは逆で、リアノでは男児しか王位を継げません」
 レイザンド。
 詳しいことは知らないが、リアノと隣接する、女王が統べる砂漠の大国だと聞き及んでいる。
「どうして、リアノでは男児だけなの?」
 資格を持つ者が王となると聞いたが、リアノでは、何故女児には与えられないのだろうか。
「好み、だそうです」
「……、好み?」
 希有が目を瞬かせると、ミリセントは微笑した。
「たとえば、赤色が好きな人と黒色が好きな人がいます。キユ様は、それを不思議に思いますか?」
「思わない、けど」
 彼女の言葉は当然のことで、不思議に思うようなことはない。
「人それぞれに趣味があるのと同じように、世界にもあったところで不思議ではありません。……全部、受け売りの言葉ですが」
「言っていることは、分かるけど……」
「シルヴィオ様が世界にとっての好みだったからこそ、資格を与えられ、あの方は王となりました」
「ベアトリス様は女で、世界にとっての好みではないから、王になれなかった?」
 ミリセントが頷く。
 理解はできるが、すんなりと得心はできない。
 尤も、彼女たちの説明に違和感があるのは、希有が異邦人だからなのかもしれない。
 ごうっては郷に従え、と言うが、どうしても納得できないことがあると強く意識してしまう。
 いくら共通点があろうとも――、ここは、希有の暮らしていた世界ではないことを。
「詳しいことは、いずれ陛下から直接聞いた方が宜しいでしょう。私では、キユ様にどこまで話しても良いのか判断できませんから」
「……、なに、それ」
「さあ、そろそろ、眠りに就いてください。大丈夫ですよ」
 空になったカップを受け取って、ミリセントは子どもを宥めるように、希有に言い聞かせる。
「もうすぐ、夜も更けます。何かあったら、いつでも呼びつけてくださいませ」
 ミリセントは一礼して、部屋を出て行った。
 どこまで話して良いか分からないとは、どういう意味なのだろうか。言う必要のないことだから、シルヴィオに口止めされているのか。それとも、希有の耳に入れば都合の悪いことがあるのだろうか。
「止めよう、こんなこと考えるのは」
 希有が王家の事情まで把握する必要はない。部外者の希有がいくら考えたところで、どうにもなりはしない。
 灯りを消して、寝台に入る。
 だが、目を瞑ってみたものの寝付くことができない。時計の音が閑静《かんせい》な部屋に響き、時間ばかりが過ぎ去っていく。
 いつの間にか、深夜となり、希有は寝台の上で数回目の寝がえりを打った。床に就いてから随分と経つが、上手く寝付くことができない。
 ここ数日は、固く目を瞑っても、漠然とした不安が身体を這いずり回り冷や汗が背を伝うのだ。
 瞳を閉じると、戴冠式の日のベアトリスが脳裏に浮かぶ。
 彼女の言葉にどれほど動揺しているのかが分かり、自分に対する苛立ちが募る。
 希有は異邦人だ。シルヴィオが何と言おうとも、この世界にとっての異物であることに変わりはない。
 ベアトリスに敵意を向けられるのも、やむを得ないことだ。
 それを上手く消化できるようにならなければ、いつまでも湿っぽく悩まされることになる。受け流すことのできない希有は、やはり、未だに子どもなのかもしれない。
「え、……?」
 突然、衣擦れのような音がした。
 薄く目を開けると、わずかな灯りに照らされた一つの影が床に浮かび上がる。
 思わず悲鳴をあげそうになった瞬間、その人影が良く見知ったものであることに気がつく。
「……、シルヴィオ」
 薄闇に浮かび上がる美貌は、確かに彼のものだった。
「起こして、すまない」
 既に、時刻は深夜を回っているはずだ。
 このような時間に、家族でもない人間の部屋に勝手に入るとは、一般的に考えて好ましいことではないだろう。
「眠れなかったから別に良いけど……。こんな時間に、いきなり入ってきて、なに?」
 灯りをつけながら、希有は身を起こす。
 光に照らされた彼は、珍しく苛立っているようだった。まるで、何かに焦っているかのようにも思える。
「伝えなければならないことが、できた。……、つい先ほど、姉上から書状が届いた」
 妙に落ち着きを失った声音に、希有は目を瞬かせた。

「キユ・ファラジアを、ローディアス公爵家に招待するらしい」

 それは、強制的な命令のように感じられた。
 苦々しげなシルヴィオの顔から察するに、彼には断ることができない類のものだ。王として即位したとはいえ、日も浅く足場も弱い彼にとって、ベアトリスの要求を呑むしかないのだろう。
 ――、王であるにも関わらず、それほどまでに彼の立場は良くないのだ。
「悪い、虫」
 ベアトリスの真意を読み取るのは、難しいことではなかった。冷水を浴びせられたように、ぼんやりとしていた頭は冴えていく。
 シルヴィオの隣に置いてもらっている限り、安穏と過ごすことなど土台無理な話だったのだ。
「シルヴィオについた悪い虫を、排除しようとしてるんだ。新しく立った王に、わたしは不要だから」
 シルヴィオとて、分かっていたのだろう。
 聡明そうめいな彼は、希有を傍に置くことが、どのような結果を招くか理解していたはずだ。
「シルヴィオの味方からしてみれば、わたしは邪魔者でしかない。……周囲の反対を、押し切ったんだろ?」
 彼は、前に言った。
 気がづけば周囲の反対を押し切っていたと。
「この世界と何ら関わりのないわたしを、死なせたくないと思ったのは、シルヴィオだけ」
 シルヴィオを支援する人間たちからしてみれば、希有には何の価値もない。 黒が尊ばれる色だからと言っても、臆病なリアノ人は、絶対的に黒を大切にするわけではないだろう。
 あくまで、漠然と慕うだけの話なのだ。
 希有のような小娘に、今まで積み上げてきた計画を壊されることなど、あってはならなかった。
「わたしがシルヴィオの傍にいることに、ベアトリス様が、……シルヴィオを育てた公爵家が賛成するはずがない」
 初めから、分かり切っていたことだった。
 むしろ、よく半年もの間、放っておいてくれたことだ。もしかしたら、シルヴィオが手をまわしてくれていたのかもしれない。
「シルヴィオは、わたしを助けるために今までの計画を壊して、あの日処刑場に現れた。……、違う?」
「それは、……」
「わたしの命は助かったけど、シルヴィオを支援してきた人たちからしてみれば、最悪だ」
 それは、おそらく長い時間をかけて積み上げられてきた計画でもあったはずだ。先王の死、シルヴィオの捕縛という計算外もあっただろう。だが、それにしても、希有の処刑に間に合わせて王位を継がせることだけは、公爵家は選ばなかったはずだ。
 シルヴィオが手元に戻ったのであれば、王位を継がせるのは、体勢を立て直してからでも遅くなかった。
「シルヴィオは、裏切ったんだ。あんたを王にしようとしていた人たちを」
 希有を助けるなどと言う、シルヴィオの我儘が通った理由は知らない。
 だが、希有にも一つだけ分かることがある。シルヴィオの行動は、彼を支援してきた人間からしてみれば裏切りであることだ。
「違う! 裏切りなど、俺は、……王になった」
 消え入るような声に、希有は首を振る。
「結果論だ。危ない橋を渡った結果が、シルヴィオの評判の悪さだろ。その容姿から軽く見られて、敵意ばかりだ」
「知って、いたのか……?」
「戴冠式での雰囲気で、気づかない方がどうかしているよ」
 戴冠式の際に、王冠を授けられたシルヴィオを見る周囲の目は、決して優しいものではなかった。
 疑惑と敵意に満ち溢れた視線の先には、歴代の王族の容姿とかけ離れた美貌の男。
 臆病なリアノ人が、容易く、シルヴィオを受け入れるはずがない。
 肌を刺すような独特の空気に、彼が慕われていると思う方がどうかしているだろう。
「シルヴィオは、わたしの命を救ってくれた」
 そのせいで、彼は今のような状況へと陥ってしまった。
 死にたくないと助けを求めた希有の手を、優しい彼が握ってしまったからこそ、シルヴィオはただでさえ悪かった足場をさらに崩す破目になった。
「これ以上、わたしが何をシルヴィオに望むの」
 希有はシルヴィオを見つめたまま、噛みしめるように言葉を口にした。
 ――、もう、希有は彼に何かを望んではいけない。
「お前を助けたのは、俺の勝手だ! 望まれずとも、俺はっ……!」
 悔しげに唇を噛んだシルヴィオの頬に、希有は手を伸ばす。
 本来ならば肌理細やかで美しいはずの肌は、度重なる疲労で荒れている。希有はシルヴィオを煩わせる原因に、彼の負担になっていた。
 穏やかな日々を過ごすうちに、また、卑怯になっていたのだろうか。見ないふりをしたところで、負担になっていた事実に変わりはない。
「平気。シルヴィオを裏切るような真似だけは、絶対にしない。二人で逃げている時、庭園で誓ったことは嘘じゃないから」
「……っ、そのような心配はしていない!」
 希有の手を力強く握って、シルヴィオは叫んだ。
 苛立ちを何処にぶつければ良いのか、迷っているようでもあった。ここまで彼が感情を露わにするのを見るのは、処刑の日以来かもしれない。
「シルヴィオがわたしのせいで危なくなっているなら、わたしが少しでも助けてあげる」
「そんなことを求めているわけではないっ……! ただ、俺は……」
 泣きたくなるのを堪えて、希有は首を振った。
 これ以上の言葉を聞けば、きっと、みっともなく甘えてまた歩けなくなる。口先ばかりの卑怯な自分であることに甘んじてしまう。
「シルヴィオは、自分にとっての最善だけ考えて。必要なら、わたしを切り捨てればいいから」
 嘘ばかりだ。切り捨てて欲しくないと、心は泣いている。
「ね、それくらい、簡単でしょ?」
 だが、シルヴィオにとって、希有を切り捨てることなど容易いのだろう。
 逃げるように出て行ったシルヴィオの背中を見送って、希有は膝を抱えて俯いた。
 望むものは、とてもありふれたものだった。いつか帰る身であろうとも、穏やかに流れていく日々が続くことを願っていた。
 ただ、それを望む相手が、稀有《けう》な人だった。
 それ故に、平穏ではいられないだけなのだ。


               ☆★☆★               


 希有の部屋から出て、シルヴィオは扉の前で崩れ落ちるように座り込んだ。 強く噛みしめた唇から、血の味がする。唇を乱暴に拭って、シルヴィオは床を叩いた。
「切り、捨てろ……?」
 少女が気丈に言い放った一言が、胸を締め付ける。
「できるわけ、ないだろう」
 彼女が与えた魔法の言葉は、シルヴィオにとって大切なものとなった。
 だが、それだけで、彼女を傍に置いていたわけではない。与えられた魔法の言葉は、希有が生きているからこそ価値あることを、彼女は理解していないのだ。
 希有を死から救うことが、身を粉にして、シルヴィオを王にするために動いてくれていた者たちを裏切る結果になることは知っていた。
 それが分からぬほど、シルヴィオは子どもではない。
 すべてを理解していながら、希有を助けるために、彼らの理想と期待を滅茶苦茶にしたのはシルヴィオの我儘だ。
 王となるために育てられたシルヴィオは、個人的な感情で動くことなど、あってはならなかった。
 それなのに、あの日、何を踏み躙ってたとしても、構わないと思ってしまった。
「生きていて、ほしかったんだ」
 彼女が生きていてくれるなら、再び出会えるならば、他の何を犠牲にしても良いと思ってしまったのだ。
 希有ばかりが、不幸なわけではない。彼女ばかりが可哀そうな目にあっているなどとは思わない。同情や哀れみだけで、我儘を貫いたわけではないのだ。
 ――、希有が、シルヴィオの心に触れた娘だから、失いたくなかったのだ。
 後悔はしていない。
 ただ、生きていてほしかった。

 できることならば、幸せに、――笑って、世界を歩いてほしいだけなのだ。