farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 34

 苛々とする頭で、希有は馬車を降りた。
 少なからずシルヴィオに対しての負い目もある希有にとって、エルザの嫌味は、聞き流そうにも聞き流せなかった。
「馬車はここまでなので、残りは徒歩になりますよ」
 エルザが御者に指示をすると、馬車が去っていく。
 眼前には、大きな庭園が広がっている。庭園と称するよりも、小さな森と呼ぶ方が良いのかもしれない。この先に建てられているだろう公爵家本邸を守り隠すように、木々たちは太陽に向かって背伸びをしていた。
「こっちですよ。迷っても構いませんけど、助けには行きませんから。死にたくないなら、ちゃんと着いてきてください」
 躊躇なく森に足を踏み入れたエルザに続くように、希有は慌てて小走りをした。
 一応は整備されているらしく、歩き難いということはなかった。ただ、道が入り組んでいる、或いは、入り組んでいるように見せかけているようで、エルザの背を追うだけで精いっぱいだった。
 数十分歩くと、建物が見えて来た。生い茂る木々たちによって守られるように建てられた洋館。希有が見たこともないような大きさを有するその建物は、外観は想像していたよりも随分と落ち着いていた。
 エルザに案内されるままに、希有は洋館の中に足を踏み入れる。
 館内は、外観から予想されるように随分と広かった。その上、リアノ人の性なのか知らないが、迷いやすい構造をしているようだ。道を憶えようにも、あまりにも複雑すぎて、すべて憶えることは不可能だった。
 見知らぬ場所に来てしまったことを再認識して、不安が広がる。もしもの時の逃走経路くらいは確保しおきたかったが、無理な話だったようだ。
 やがて、エルザが足を止めて、希有を横目で見た。
「ヴェルディアナ様、エルザです。キユ・ファラジア様をお連れしました」
 エルザは、言葉とほぼ同時に扉を開く。そして、希有だけを部屋の中に入れて、自分は一礼して去って行った。
 一人部屋の中に放り投げられて、早まった心臓を押さえつけるように、希有は一度瞬きをした。
 顔を動かさないように、さりげなく室内を見渡す。
 品の良い装飾品に彩られた広い室内には、三つの人影があった。その中の一人、鮮やかな赤のドレスを身に纏ったベアトリスは、希有を目に映すなり不快そうに眉をひそめた。
 予想通りの反応に、内心では不快感を覚えたが、一応は挨拶をしないわけにはいかない。
 重い気分を奮い立たせて、公爵家の人間を見つめながら希有は口を開いた。
「この度は、御招きいただきありがとうございます」
 思ってもいない言葉を口にすることは、やはり疲れる。
 心に溜まっていく鬱憤うっぷんを感じながら、希有は一礼した。
「貴方が、キユ・ファラジアか」
 シルヴィオよりも低い声をした、ベアトリスの隣に佇む男。いつか見た写真の青年が、幾分か成長した姿がそこにはあった。
 茶髪に、水銀を溶かしたような独特の瞳。
 先王に良く似た、希有が王と勘違いしていた男だ。
「ヴェルディアナ・ローディアスだ。ルディ、で構わない」
 シルヴィオの親友だと言う者の名を、青年はしかめっ面で名乗った。ヴェルディアナ、男に名づけるよいうよりは、女に多い名前のように思われた。
「よろしくお願いします。ルディ、様」
 希有はぎこちない笑みと共に、差し出された手を握った。
 ヴェルディアナは明らかに希有と仲良くする気はなさそうだが、握手を求められて応じないわけにもいかない。
「ベアトリス様も、よろしくお願いします」
 ベアトリスにも挨拶すると、今まで黙していた彼女は、静かに口を開いた。
「……、私から、貴方に言いたいことは、一つだけです」
 希有の挨拶など無視して、彼女は宣言する。
「あれの傍から離れなさい」
 どこまでも高圧的な声だった。
 多少の老いを感じさせるものの、その美貌は鋭く希有を射抜く。
 歓迎されているとは思っていなかったが、ここまではっきりとした敵意を向けられれば、流石に堪えるものがあった。
 ここに来るまでに感じていた不安が、一層と浮き彫りになる。彼女が害意を持ち、希有に何かするために、この家に招いたことが決定的になった。
「貴方のような小娘を傍に置くことを、認めはしません。どのような手を使ったのか知りませんが、薄汚い娘。決まった相手のいる男に取り入るなんて、はしたない」
 続いたベアトリスの罵詈雑言ばりぞうごんに希有が絶句していると、慌ててヴェルディアナが言葉を添えた。
「母上、話が性急過ぎます。私の方から、順を追って説明をすると申し上げたはずですが」
 止めに入った息子が癇に障ったのか、ベアトリスはヴェルディアナまでも睨みつけた。
「黙りなさい。順を追うもなにも、そのようなことは不要です。これでも、随分と譲歩しました」
「……、母上。少し落ち着きになられてください。私に任せてはくれませんか? この家の当主は私です」
 内輪もめを始めた二人を見ながら、希有は何とか平静を装って、気付かれぬように溜息をこぼした。
 二人が遣り取りをする時間のおかげで、乱された心を少しだけ落ち着かせることができた。
 シルヴィオの傍に希有がいることを、公爵家の人間が良く思うはずがない。つい動揺してしまったが、ある程度予想はついていたことである。
「分かりました、……好きにしなさい。ですが、お前が何もしないのであれば、私は私の勝手にさせてもらいます」
 あからさまに不機嫌な態度で、ベアトリスは部屋を出て行ってしまった。あまりの行動に希有が呆気にとられていると、残されたヴェルディアナは、小さく息をついた。
「申し訳ない、母は少し実直な人でね」
 あれを少しと言えるとは、身内に対しての評価が甘すぎる。希有ならば、実直などという甘い言葉で呼ぶのも躊躇われる。
「だが、私も母の意見には同意している」
 続けられた言葉に、特に驚きもせずに、希有はヴェルディアナを見上げた。
 カルロスにも先王にも似た、茶色の髪に水銀を溶かしこんだような瞳。一度は、写真で見た彼を王だと勘違いしてしまったものだ。
 シルヴィオが大切にしていた写真が、エルザの言葉を裏付けるように脳裏に浮かんだ。確かに、幸せそうな写真からも感じられるように、彼はシルヴィオの親友なのかもしれない。少なくとも、希有よりもよほど気を赦している存在であることは確かだろう。
「それが、貴方たちの総意なのでしょう?」
 ――、希有をシルヴィオの傍から引き離すこと。
 それが、シルヴィオを支援してきた公爵家の総意なのだ。
「少なからずシルヴィオを大切に思うのであれば、シルヴィオのために身を引いてくくれないだろうか。――貴方は、シルヴィオにとって不要だ」
 希有は、黙したまま目を伏せる。
 シルヴィオのためと言われても、大人しく身を引きたくないと思った希有は、やはり卑怯で甘えているのだろう。
 希有にとって、シルヴィオの傍は容易く手放せるものではない。生活面でのことはもちろんあるが、大きいのは精神的な面での話だ。
 何一つ持たずに世界に盗まれた希有には、人間関係がほとんど皆無だ。シルヴィオを通しての関わりであれば、ミリセントがいるが、その他の人間とは関わりがないに等しい。
 シルヴィオが、大きな精神的支えとなっていたことは、否定できない。
 ここ半年をシルヴィオの傍で過ごした希有にとって、彼から離れることは、かんばしいとは言えなかった。甘えだと知りつつも、素直に身を引いて上手く生きていけるとも思えない。
 子どものような、意地でもあるのかもしれない。
 傍にいてくれ、と言ってくれたのはシルヴィオだ。他人に言われて彼の傍を離れることが、おかしくも感じられた。
 返事に困る希有に、ヴェルディアナは目を細めた。
「そんなにも、シルヴィオの傍は都合が良いものだろうか」
「……、嫌な言い方をしますね」
 都合が良いなんて言葉で片付けられることに、怒りさえ覚えてしまう。
 以前、希有はシルヴィオを利用していた。
 牢にいる間も、彼を利用することを前提として、怪我をしていた彼の世話をしたのは事実だ。見返り欲しさがなければ、あの時の希有は、彼のことなど放っておいただろう。何の打算もなしに誰かの面倒を見れるほど、あの頃の希有に余裕があったとは思えない。
 だが、今は違う。
 実質がどうなのかは分からないが、利用しているつもりは微塵もなかった。利用などという冷たい言葉で片付けられるのは、シルヴィオにも悪い上に、希有としても嫌だった。
 ヴェルディアナが眉をひそめる。
「……、暫く滞在するといい。色好いろよい返事を聞くまでは、私としても貴方を外に出すつもりはない」
 シルヴィオの傍から離れるという返事しか受け付けない。そう言われていることは、希有にも察しがついた。
「軟禁ですか」
「客人を丁重に持て成すと言っているだけだろう? シルヴィオの周りは、既に満たされている。貴方が入り込む隙間など何処にもない」
 ヴェルディアナは不機嫌そうな声で言い捨てて、踵を返して部屋を出て行った。実直なのは、母だけではなく息子も同じらしい。表面的には性格が異なっているように見えたが、実は奥の方では似通っているのかもしれない。
「あは、兄様も母様も、必死だね」
 少年らしい瑞々しい声に視線を移せば、赤毛に銀の瞳を携えた少年が一人。
 この部屋に遺された最後の人影、戴冠式の日に見た少年は、黒子のある少し厚めの唇を釣り上げた。
 ベアトリスとヴェルディアナが去った部屋で、赤毛の少年――アルバートが怪しく笑う。

「いらっしゃい、キユ・ファラジア・・・・・

 あからさまに家名を強調して、彼は笑みを深めた。
「今日は転びそうになったりしなかった?」
「……、ええ」
 身体を強張らせて返事をする希有の様子を気にすることなく、アルバートは続ける。
「会うのは二度目だけど、自己紹介はしていなかったね。僕は、アルバート・ローディアス。ローディアス公爵家の末子。十五だから、……キユよりは、ちょっと年上かな?」
「……、キユ・ファラジアです」
 年齢のことに関しては何も言わずに、希有は名乗る。味方などいない場所にいるのだ、年下だと思われているのならば、そのままにしておいた方が良いだろう。もしかしたら、そのことが希有の保身に繋がるかもしれない。
「また会えて嬉しいな。キユは暫くうちに滞在するんだよね?」
「暫くの間は、厄介になるかと思います」
 言い知れない不安を感じながら、希有は応える。
「良かった。休暇中で暇していたから、話し相手ほしかったんだ。姉様は、お得意の仮病でどっか行っちゃったし、兄様は兄様で苛々してて面倒だからね」
 アルバートの姉のことは知らないが、ヴェルディアナは十中八九、希有の存在に苛立っているのだろう。
 希有はシルヴィオについた悪い虫だ。
 歓迎されているとは思っていなかったので、ヴェルディアナのあからさまな敵意も、我慢するほかない。
 頭痛の種は、いつまでこの家に滞在しなければならないのか、だ。
 城はさほど神経をすり減らすような環境ではなく、精神的に安定していられる場所だった。できることならば、早く城に戻りたいというのが本音だ。
 それに、有力な情報は未だに得られていないが、今ここにいる間に地球に帰るための情報が集まっているかもしれない。半年の時間があっという間に過ぎ去ってしまったが、希有は自分の目的を忘れてはならないのだ。
 地球は、希有を受け入れてくれるたった一つの世界。
 たとえ、どれほど疎まれていようとも、居場所がないと感じようとも、地球という世界だけは希有の存在を受け入れてくれていたはずだ。
 どれほど心地よく思おうとも、この世界は希有が在るべき地球ではない。
「なんだか、早く帰りたいみたいだけど、できれば長く居てほしいな。シルヴィオの奴は戻ってこないみたいだし、暇で仕方がなくてさ」
 頬を膨らますアルバートの唇から零れ落ちた名に、希有は気にかかっていた疑問を口にした。
「……、シルヴィオ様とは、どのような関係なんですか?」
 ヴェルディアナがシルヴィオの親友ということは、納得はできた。彼がシルヴィオの身を案じて、希有に対して敵意を向けていることも理解できた。
 だが、シルヴィオとアルバートは、親しい友などと呼べる関係ではないだろう。
「前に見たとおりだよ? 僕たちは仲良しなんだ」
「そうは、……見えませんでしたけど」
 シルヴィオの苦々しげな表情を思い出して、希有は小さく呟いた。
 あの日の遣り取りを思い出す限りでは、仲良しなどとは口が裂けても言えない。
「そうかな? きっと照れてるだけなんだよ。僕とあいつは、仲良しに決まっているんだ。だって、十五年も一緒にいるんだもの。僕が生まれた時からの付き合いで、僕が生まれた時には既に公爵家の宝はシルヴィオ。今も昔も変わらない」
 王になるべく育てられた、先王の落胤。
 シルヴィオは、生まれた時からこの地で育ったと言っていた。王となるためだけに、公爵家の手によって育てられてきたのだ。
「母様も兄様も姉様も、他の人も、みーんな、シルヴィオが大好きなんだ。愛しちゃってるんだよ。だから、赦してあげてね?」
 歳に似合わない、ぞっとするほど妖艶な笑みを浮かべ、アルバートは口元を綻ばせる。
「シルヴィオを愛しているから、キユに何をしても良いんだって、あの人たちは言うから」
 それは、さながら、免罪符を掲げるような言い分だった。
 誰かを愛しているから、何をしてもその罪は赦されるのだと言われた気がした。
 そのようなこと、あるはずがない。
 そうであるならば、希有はとっくに赦されていただろう。自分勝手に、己を赦していた。罪悪感の欠片も抱くことなく、愛した半身のことなど忘れて、今を生きていただろう。
「……そんなの、間違って、ます」
 消え入るような希有の声に、アルバートは首を傾げる。
「正しいか間違っているかなんて、決めるのは自分たちの知りもしない人間だし、真実、正しいか間違っているかなんて誰にも分かりはしない。だから、母様たちは、そんなものに頓着したりしないよ」
 当たり前のことを、アルバートは淡々と語る。
 正しいと思って行ってきたことが、間違いだと責めれることもある。その逆も然りだ。
「あの人たちが掲げるのは、利己的な自分たちにとっての正義。その正義の下では、何をしても罪にはならないと思っている。何をしたって、赦されると思っているんだよ」
 利己的な正義など、既に正義とは呼ばないだろう。
「……、貴方も、ですか」
「ううん、僕は家のことには、ほとんど関係がないから」
 アルバートはあっけらかんと言った。
「君のことが嫌いなわけでもないし、むしろ、半年もシルヴィオの元にいたことに感心しているくらいなんだ。あいつ、性格最悪だからさ」
 ふと、アルバートの雰囲気が変わる。
 仄暗い影は消え失せて、代わりに少年らしい明るい雰囲気が辺りを満たした。
「最悪なくせに、一番愛されてるなんて、ずるいよね」
 頬を膨らます姿は、親を取られて拗ねた子どもそのものだった。
 どうして、先ほど、あれほどに身構えたのか分からない。アルバートの中身は、大人になりきれていない少年なのだ。
 警戒し過ぎるのも、莫迦らしい。
 それに、ベアトリスやヴェルディアナに比べたら、子どもらしくて付き合いやすそうだ。
 思わず希有が零した笑い声に、アルバートは唇を尖らせた。
「今、子どもっぽいと思ったでしょ?」
「いいえ、……そんな」
「まあ、僕なんてまだ子どもみたいなものだけど、――キユに笑われたのは心外かも。こんなに小さいのに」
「小さいは余計です」
 自分の身長に不満はない。同じ年頃の女子の平均よりは低かったが、そこまで低くはないと思っていた。
 リアノ人の背が高すぎるのだ。
「だって、本当に小さいんだもの。可愛らしいね」
 アルバートは、年頃の男の子らしく、無邪気な笑みを浮かべた。
 やはり、先ほどまでに感じていた闇は気のせいだったのだろう。気を張っていた希有が、勘違いをしてしまっただけのようだ。
「部屋に案内してあげる。ほとんど軟禁扱いだけど、僕が、たまには外に出してあげるよ。今のところは、シルヴィオがキユを守ってくれているみたいだから、安心しても大丈夫」
「シルヴィオ、様が……、守る?」
 首を傾げた希有に、アルバートは肩を竦めた。
「そっか、何も聞いてないなら忘れて。母様も兄様も反対してるし、まだ正式に認められたわけじゃないみたいだから」
「……、はぁ」
「行こう。王城ほどじゃないけど、ここも結構面倒な作りだから、はぐれないでね」
 先を歩き始めたアルバートに、希有は慌てて後を追う。
 歩きながら周囲を見渡せば、確かに、同じような飾りを並べたり、廊下がやけに入り組んでいたりと、一筋縄ではいかない家のようだ。
 希有の想像する豪華絢爛な貴族の屋敷とは違うものの、これだけの家を作るのには、相当な土地と財力が必要だろう。
 公爵家と呼ばれるだけのことはあるらしい。
「ここだよ」
 扉を開けたアルバートに、希有は部屋の中に入る。
「何かあったら、そこにいるカミラに聞いてね」
 アルバートの視線の先には、削ったように薄い唇の、三十がらみの痩せた女が佇んでいる。腰に細身の剣を差した彼女は、希有の姿を視界にとらえると静かに礼をした。
「ありがとう、ございました」
 部屋まで案内してくれたアルバートに礼を言うと、彼は目を丸くする。
 礼を言われ慣れていないのか、少しの沈黙の後に、漸く彼は返事をした。
「……、いえいえ、楽しかったから良いよ」
 快活な笑みを浮かべて、アルバートは踵を返す。
 その背中を見送ってから、希有はカミラと呼ばれた女を見た。
「カミラと申します。本日から、お世話をさせていただきます」
 給仕の服を身に纏っているが、しなやかな身体を見る限り、本職は別のようにも思える。第一に、給仕の人間が腰に剣を差したりしているはずがないのだ。
「世話なんていりませんけど……」
 世話をされるほどに子どもではない上に、剣を携えた人間が傍にいるなど堪ったものではなかった。
 希有の言葉に、カミラは苦笑する。公爵家の者では、アルバート以外で初めて向けられた、何の敵意も交じっていない視線だった。幾分か好意的にさえ思える。
 使用人は、皆エルザのような態度だと思っていたので、意外だった。
「それが、私の仕事です。何か入り用のものがありましたら、遠慮なく言ってください。それと、一言言わせたいただけるのであれば……」
「……、何ですか?」
 部屋にあるソファに座った希有に、彼女は真剣な眼差しを向ける。希有が首を傾げると、カミラは躊躇いがちに唇を震わせた。
「早いうちに、この家を去った方が宜しいかと思います」
「どういう、意味ですか」
 希有が眉をひそめると、彼女は俯いて続けた。
「私は、元々はオルタンシア様にお仕えしていました。あの方が公爵家を出られる際に着いて行くことは叶いませんでしたが、私はあの方を敬愛しています」
 それは久しく聞くことのなかった名で、意図的に思い出すことを拒んでいた名前でもある。
 オルタンシア・カレル。
 リアノの重臣にして、高位の学者でもあった女性。
 希有をこの世界に招いた、今は亡き人だ。
「オルタンシアは、……この家の、人なの?」
 だが、オルタンシアの名にローディアスの響きはなかったはずだ。彼女本人も、そのようなことは一言も言わなかった。
「はい。ご自分の意思で出て行かれ、本人は既に勘当されたものと思っていらしたようですが、籍はこの家に在ります」
 言葉を詰まらせる希有に、カミラは哀しげに眉を下げた。
「オルタンシア様が大切になさっていた貴方様を、見す見すと惨い目にあわせたくはありません。たとえ、それが貴方様をシルヴィオ様の傍から引き離すことになろうとも」
「……たい、せつ?」
 希有が目を細めると、カミラはわずかに嬉しそうに述べる。
「生前、オルタンシア様は嬉しそうに貴方様のことを話してくださいました。あの方の笑顔を拝見できたのは、……本当に、久方ぶりでした」
「笑顔? そんな、だって、オルタンシアは……」
 オルタンシアと希有の関係は、打算で成り立っていたはずだ。
 会話も碌にしない、同居人でしかなかった。彼女が希有を大切に思っていたはずがない。笑顔で希有のことを語る理由など、オルタンシアは持ち得ないはずなのだ。
「不器用な方でしたから、伝わらなかったのかもしれません。ですが、あの方は、貴方様を大切にしておりました。それだけは、憶えていてください」
 カミラの言葉に、希有は困惑に瞳を揺らした。
「だから……、どうか、手遅れになる前に逃げてください」
 的を射ることのない警告は、得体の知れない不安を抱かせるだけだった。