farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 35

 深夜に差し掛かる時刻、シルヴィオは小さく息をついた。
「セシル、今日の分はこれで終わりか?」
「ええ、夜も遅いので、お休みなられた方が宜しいかと」
 淡々と口を開くセシルは、相変わらずシルヴィオのことなど微塵も慕っていない。
 人の感情は厄介だ。
 セシルは宰相として申し分ない働きをしているが、あくまで義務的にしか仕事をしない。先王を妄信と言ってもいいほど慕っていた彼は、先王とは似ても似つかないシルヴィオに心を砕いたりしないのだ。
 以前、シルヴィオは最低限国を傾けない王でさえいれば、どのような王であろうとも構わないのだと思っていた。だが、王としての仕事をこなすことができようとも、臣下の信頼が得られないのであれば、崩壊も時間の問題だ。
 国は一人でまわせるほど、小さくはないことを痛感する。
 先王の代からのツケが回ってきた分もあり、シルヴィオの治世は出だしから良好とは言えなかった。
 即位から半年も経つと言うのに、処理すべき事柄が減るどころか増えているのは、そのためだ。
「お前も明日に備えて早く休め、セシル」
 執務室を出て、周囲に気を配りながら自室へと向かう。
 宰相であるセシルは、滅多に姿を現さない王の言葉を伝える代理人でもある。臣下の信頼を集めるためにも、まずはセシルから認められなければならないのだ。それは、無理やり押さえつけるのではなく、彼自身が心からシルヴィオに仕えてくれなければ意味がない。
 ふと、ベアトリスがシルヴィオに語っていた王の理想像が頭を過った。女であるがために王になれなかったベアトリスは、押し付けるようにシルヴィオに王の在るべき姿を聞かせた。
 王の在るべき姿とは、良き王とは、何なのだろうか。
 もし、自分が希有に出会わず、公爵家の言うままに即位していれば、今よりも状況は良かったのだろうか。ベアトリスは間違いなく頷くだろうが、シルヴィオには、とてもそうは思えなかった。
 自分が人間として、どこか未完成なのは、己が一番良く分かっている。自分の心さえ良く分からない、感情に振り回されてばかりの人間だ。
 いくら王としての教育を施されてきたとはいえ、知識と実際は異なる。希有に出会う前のシルヴィオが、そのまま即位していても、間違いなく反感は買っていただろう。
 むしろ、シルヴィオは希有に出会えたからこそ、この程度の反感で済んでいると思っている。
 仕事をこなすだけではなく、何が最善かを考えるようになった。
 書面の内容だけで判断せず、その向こうには生きた人間がいることをわずかでも意識するようになった。
 ほんの少しだけだが、生きた人間の感情を知った。
 それは、些細な変化だったが、シルヴィオにとっては驚くべき変化でもあった。
 気づけば、シルヴィオは足を止めていた。
 視線の先の部屋は、今は主が不在となっている。シルヴィオの力が及ばなかったが故に、少女は公爵家にいる。
 自然と希有の元へと足が動いていた自分に気付き、シルヴィオは苦い顔をする。
 自然と足が向かうほど、シルヴィオは希有に会いに行っていたのだ。
 どれほど疲れていようとも、一目でも姿を見ようと顔を出していた自分が、信じられなかった。
「……、参ったな」
 だが、不思議と悪い気はしなかった。


               ☆★☆★               


 朝日の眩しさに目を細める。
 ローディアス公爵家で迎える数度目の朝は、身体が鉛のように重かった。気だるい身体を無理やり起こすように頭を振って、希有は荷物から着替えを取り出す。
 その際に荷物から零れ落ちたブローチに、思わず手が止まった。それは、一瞬にして彼を思い出させる代物だ。
「……、情けない」
 たった数日しか経っていないと言うのに、帰りたくて堪らなかった。
 素早く着替えを済ませてから、ソファに座る。
 胸のあたりがもやもやとして、気分が良くない。見知らぬ場所で気負っていることも原因の一つだろうが、それ以上に、希有自身が迷っているのだろう。
 シルヴィオの傍に、このまま何もせずに居座っても良いのだろうか、と。
 シルヴィオの近くにいる明確な理由が分からない今、希有は居心地が良いと言うことだけで、彼の傍に甘んじている。
 居心地が良いだけならば、離れるべきだろう。他にそのような場所が見つかるとは思えないが、自分で居場所を探すのは、誰もが行うことだった。受け身な態度で、居場所の方が出向いてくるのを待つ希有は、どうしようもない卑怯であると思う。
 そして、自らが卑怯であることを知り直そうと思いながらも、実行に移せない自分こそ何よりも卑怯である。
 ――希有は、前に進めているのだろうか。
 誰かに迷惑をかけて、縋って甘えたままであるのに、前に進んでいると言えるのだろうか。
 考えれば考えるほど、シルヴィオが自分を守ってくれる理由が、まるで分からなかった。

 希有を、シルヴィオが傍に置く理由が分からない。

 沈んでいく思考を振り切って、希有は部屋を見渡した。
 カミラが部屋の隅に立っている。初日こそ、眠る間も部屋にいる彼女に怯えていたのだが、気にするだけ無駄だと悟った。
 第一に、眠る間を狙わずとも、武器を所持する彼女ならば希有一人殺すことなど造作ない。
 カミラは、ベアトリスから希有を監視するように言われているのかもしれない。
 彼女が何を思って奇妙な警告を発したのかは気になるが、希有には端から逃げるつもりなどないのだ。
 逃げれば、シルヴィオの迷惑になるうえに、希有自身、最悪命を失う。それほどの危険を冒してまで、現時点では無事でいられる場所を離れるつもりはなかった。
 それに、何か行動を起こすにしても、判断材料が少なすぎる。
「……あの、座ったらどうですか」
 希有が寝てる間に仮眠くらいはとったのかもしれないが、いつまでも立っていれば疲れるだろう。
「お気遣いをどうも。しかしながら、私は立っている方が楽です、お気になさらないでください」
 希有は、わずかに頬を引きつらせた。四六時中、知らない人間が近くにいれば誰でも気にするだろう。
「あの……」
 流れ始めた沈黙を打破すべく、希有は口を開いた。話すことなど何もないが、このまま、妙に緊張した空気が流れ続ければ、そちらほうがよほど精神的に参ってしまう。
 ただでえさえ閉じ込められていて、気が滅入っている。
 とりあえず、気になっていることの内で、当たり障りのなさそうなことを質問してみよう。少しでも情報がなければ、何一つ判ずることができない。
「この家は、誰が暮らしているんですか?」
 オルタンシアのことを聞いた時から、気になっていたのだ。
 元王女のベアトリス。
 当主でありシルヴィオの親友であるヴェルディアナ。
 ヴェルディアナに仕えるエルザ。
 末子のアルバートと、その上にいるであろう姉。
 そして、かつてはこの家で暮らしていたオルタンシア。
「今現在、この家にいない本家の方は、心痛で療養中のフローラ様だけです」
「ルディ様の妹ですか?」
 カミラは頷く。
 どうやら、アルバートの姉であり、ヴェルディアナの妹である令嬢は不在らしい。会いたくもないので、その点は幸いと呼ぶべきなのかもしれない。
「フローラ様を除けば、キユ様がお会いになられていないのは、ヴェルディアナ様の子息であるラシェル様だけですね」
 子息と言う言葉に、希有は驚く。
 ヴェルディアナの外見は、シルヴィオよりも五つは年上に見えた。シルヴィオの年齢を聞いたことはないが、彼はおそらく二十歳前後だろう。
 確かに、ヴェルディアナが二十代後半から三十代に差し掛かるくらいだとすれば、結婚して子どもがいても不自然ではない年齢であった。
「奥方は亡くなられてますが、子息であるラシェル様は公爵家の正当な後継ぎとして、日夜勉学に励んでいます」
「後継ぎ? アルバート様は……?」
 赤毛の少年の姿を思い浮かべ、希有は首を捻った。
 アルバートは十五歳だと言っていた。ヴェルディアナとは随分歳が離れているのだから、アルバートも後継ぎの候補に挙がっているのが普通だろう。
「アルバート様は、ラシェル様が生まれた八年前に、その権利をベアトリス様の手によって廃されています」
 それは、いささか、急な判断なのではないだろうか。
 ラシェルという子どもが、事故などに巻き込まれて亡くなる可能性もあるのだ。何も、アルバートから後継ぎの権利を奪う必要などないのではないか。
「それに……、たとえ、ラシェル様がいなくなろうとも、ベアトリス様はアルバート様だけには公爵家を継がせないでしょう」
「どうして、ですか?」
「公爵家の直系は、男児に女児の名をつける慣習があります。遠い昔から続いている慣習で形骸化しておりますが、それは現在も行われています」
 カミラの言う通り、ヴェルディアナも、先ほど聞いたラシェルという名も、男につける名前と言うよりは女の名だった。
「アルバート様は、例外です」
 何故、アルバートの名は女児の名前ではないのだろう。
「キユ様。……、お答えした後で言うべきではないでしょうが、この家も、色々とあります。刺客となれば、私がお守りいたしますが……、この家の人間となると、私から手出しはできません」
 元々はオルタンシアに仕えていたとはいえ、カミラも公爵家に属する者だ。同じ公爵家の者に対しては、手出しができないというのも理解できた。
 だが、カミラに言われずとも、端から守ってもらえるなどという期待はしていない。そもそも、希有には、剣を差している人間を容易く信用することなどできない。
「安全に過ごすためには、あまり深入りはしない方が宜しいでしょう」
 カミラは、深入りするなと警告している。
 公爵家の内情には興味もないが、中々に面倒な家であることだけは分かった。
 滞在期間がどの程度になるかも不明瞭な上、長くいればいるほど、身の危険も高まる気がしてきた。
 現状に対する認識も儘ならないというのに、危険な状況に陥った時に、どのように対処すべきなのか。
「……、お暇でしたら、本がありますが」
 何も言わずに手持無沙汰で考え込む希有に見かねたのか、カミラは遠慮がちに提案する。
「……、それは、その」
 持ってきてもらったところで、簡単な児童向けの本くらいしか読むことはできない。そのような類のものが、この家に蔵書されているとは思えなかった。
「童話やお伽噺の類なら、オルタンシア様が興味がおありでしたので、そちらの棚にたくさんありますが……」
 カミラが、流れるような動作で棚から数冊本を引きぬいて希有に渡す。
「……、変なの」
 思わず、本音が零れ落ちた。あれだけ頭の良い人が、わざわざ童話やお伽噺を揃えているとは、思ってもいなかったのだ。
 希有が内心で首を傾げていると、急に部屋の扉が開く。
「おはよう! もう起きてる?」
「あ、……」
 目に鮮やかに飛び込んできた赤毛に、希有は間の抜けた声を上げた。
「……アルバート様? おはよう、ございます」
 たまに訪れるとは言っていたが、冗談だろうと聞き流していた。来るとしても、まさかこんなに早く希有に会いに来るとは思っていなかった。
「驚かせようと思ったのに残念、意外と起きるの早いね。それに勉強熱心だ。向こうでもたくさんしてるだろうに」
 希有の手にある本を見て感心したように頷きながら、アルバートは当たり前のように希有の隣に腰掛けた。
「日当たりが良い部屋だよね。オルタンシア叔母様も勿体ないことをしたよ、あんな辺境に住むくらいなら、ここにいれば良かったのに。そう思わない?」
 同意を求めるアルバートの言葉に、希有は曖昧に笑みを浮かべる。
 オルタンシアのことに関しては、あまり触れられたくなかった。
「ここは、……オルタンシアの部屋だったんですか?」
「正確にはオルタンシア叔母様と、もう一人暮らしてたよ。今は、どっちも死んじゃったから、部屋の持ち主はいないけどね」
 蛆の湧いたオルタンシアの死体が脳裏をよぎり、希有は眉をひそめた。そのような希有を気にすることなく、アルバートはカミラに声をかける。
「カミラ、僕も朝食まだだから、二人分持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
 まさか、ここで朝食を食べていくつもりだろうか。
 親しみが持ちやすいと言えば聞こえは良いのかもしれないが、あまりにも遠慮がない人間は苦手だ。
「ふふ、誰かと一緒に食事を取るなんて、滅多にないから楽しみだな」
 子ども故の遠慮のない行動だと分かっていても、鬱陶しさを覚えてしまう。アルバートは十五歳らしいが、随分と幼い印象を受けた。
「朝から、何か用事でもありましたか?」
 早朝にいきなり訪ねて来られるのも困った。
 公爵家の人間であるがために無碍にすることはできないが、できることならば、朝から相手にしたくない。
「お友達に会いに来るのに、用事は必要?」
 アルバートは、可愛らしく首を傾げる。
「……、友達?」
「そう、僕と君はお友達」
 無邪気故の言葉なのか、それとも、何かしらの打算が含まれた言葉なのか。知り合ったばかりで数回しか会っていないうえに、碌に会話もしていない相手だ。知人とは呼べるかもしれないが、友人と呼ぶには足りないだろう。
 尤も、希有には友人と呼べるような関係を築いた人間が思い出せないため、何とも言えないのだが。
「だから、仲良くしてね」
 沈黙する希有に、アルバートは唇を尖らせた。
「もしかして、疑っている? 僕が、母様の命を受けているんじゃないかって」
 図星だったために、希有は軽くアルバートから視線を逸らした。
「心配しなくても大丈夫だよ、母様は僕になんて関心がないから。言ったでしょう? この家の宝は、シルヴィオなんだって」
「シルヴィオ、様は……、大切にされていたんですね」
「ふふ、宝を大切にしない人間なんていないでしょ」
 宝物のように大切にされていたならば、何故、シルヴィオは公爵家を裏切ってまで希有を助けたのだろうか。
 ますます、訳が分からなくなった。
「あのね、今日はちょっと聞きたいこともあったから、一緒に食事でもどうかなって思ったんだ」
「……、聞きたいこと?」
 アルバートが希有に聞くような事柄は、ないように思える。ほとんど初対面である上に、彼が望むような情報を、異邦人である希有が持っているとは思えない。
「ファラジアの名前、自分から欲しいって、シルヴィオにお願いしたの?」
「……、は?」
 予想外の質問に、柄の悪い返事をしてしまう。
 ファラジア家。
 かつて、リアノに存在したと言う黒の一族。希有と同じ日本人か、はたまた、アジア系の人間だったかは定かではないが、地球からこの世界に盗まれた人間の集団だ。
 希有が、自分からファラジアの名前を強請ったわけではない。最終的に今の偽りの立場を受け入れたのは希有だが、その立場を用意したのはシルヴィオだ。そもそも、希有はファラジアの名などシルヴィオから聞くまで知りもしなかった。
「違うなら良いんだけどね。もし、全部知っていてお願いしたなら、全部分かっていて頼んだのなら、随分な悪女だと思って」
 悪女、という単語に思わず苦い顔をすると、アルバートは申し訳なさそうに顔の前で手を振る。
「気を悪くしちゃったなら、ごめんね。悪気があったわけじゃないんだ。……、そっか、何にも知らないんだね」
「悪いですか?」
「キユは、面白いね」
 希有の質問に答えずに、アルバートは笑った。
 小馬鹿にされているような気がして、癪に障る。
「……、わたしからも、質問して良いですか?」
「仕返しかな? 良いよ。僕だけだと不公平だよね。友達だから、平等でなくちゃ」
「どうして、男の名前なのですか?」
 深入りするなと警告されたばかりだと言うのに、希有は疑問を口にしていた。さきほどのアルバートの態度が不快だったので、仕返しをしてやろうと思ったのが本音である。
 アルバートは、一瞬だけ身を固くしていから、ゆっくりと口を開いた。
「……、カミラに聞いたの? そんなこと聞いてくるとは思わなかった。それ、僕以外に質問しなくて良かったね」
 喉を震わして、アルバートは目を細める。
「要らない子どもだから、だよ」
 自嘲するように、アルバートの口元が歪む。
 彼の言葉の意味が分からずに、希有は恐る恐る自分の予想を口にした。
「ベアトリス様の、……実子ではないのですか?」
 一瞬だけ、アルバートの表情が泣きそうになったのを、希有は見た。
「それは、酷過ぎる。僕が母様の子どもであることは間違いないよ。そこまで否定されたら、最悪だよ」
 宙を仰いで、アルバートは呟いた。
「僕の名前がアルバートなのは、母様が兄様と姉様以外の子どもは設けないつもりだったからだよ。だから、僕は要らない子ども」
 アルバートの話に、希有は黙って耳を傾ける。
「兄様が生まれたことで、公爵家の後継ぎはできた。そして、シルヴィオが生まれた数年後に、思ったんだろうね。女児が一人生まれれば、これ以上に都合の良いことはないと」
 ローディアス本家の子どもは、三人いる。長子のヴェルディアナ、末子のアルバート。
 そして、二人の間にいる少女。
「姉様、フローラ・ローディアスはね。人の手によって、穢いものを見ないようにして育てられてきた、温室の薔薇。――シルヴィオに娶らせるためだけに生を受けた人なんだよ」
 瞬間、希有は息を止めた。
 胸の奥が、まるで棘が刺さったように痛んだ。
 シルヴィオが、将来添い遂げるだろう少女。
 シルヴィオの隣で微笑むことを約束された存在。
 堪らず拳を握りしめた希有に、囁くようにアルバートは続ける。
「母様が決まった相手に取り入る、なんて言葉でキユを貶したのは、母様が姉様以外を、シルヴィオの相手として認めないからだよ」
 フローラ・ローディアス。
 それは、きっと、写真で微笑んでいた赤毛の少女。
 シルヴィオが妹のようなものだと言っていた、周囲にシルヴィオの相手として望まれた、たった一人のお姫様だ。
「莫迦みたいだと思わない? 皆、いつまでも幻想に縋りついて愚かだよね。シルヴィオは、姉様を望まないだろうに」
 アルバートの言葉は耳に入らず、希有は浅く呼吸を繰り返す。
 シルヴィオがこれからどうなろうと、誰を望もうと、希有には関係ない。口を出す権利も持っていない上に、彼の心まで縛りつけることなど希有には無理だ。
 シルヴィオが誰と結ばれようとも、希有には何一つ関係ない。
 それなのに、どうして、こんなにも息苦しいのだろうか。