farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 36

 気づけば、公爵家で過ごして十日ほどになる。
 窓からはり込む陽光が嫌で、希有はカーテンを閉めた。そのような希有の姿を見て、カミラが口を開いた。
「キユ様」
「……、なに?」
「申し訳ありませんが、私は数日ベアトリス様に着いていかなければならなくなりました」
 カミラの装いは、いつもよりも立派なものになっている。これから、身なりを整えなければ、恥となる場所に行くことは明白だった。
「……、そう」
「これから家を空けますが、くれぐれも、お一人で部屋を出たりしないようにお願いします」
 希有を心配しての言葉なのだろうが、言われなくとも、一人で部屋を出るつもりはなかった。
「その、……アルバート様のお言葉は、あまり、考えないでください」
 慰めにもならない慰めを呟いて、カミラは部屋を出て行った。
 寝台に顔を埋めて、希有は呻いた。
 ――、物語の王子様には、決まって、お姫様がいる。
 それは決して、中途に物語に割り込んだ異物がなれるものではない。
 お姫様と王子様は結ばれる、そこに横やりが入れられることなどあってはならない。物語は、最初から幸福な終演ハッピーエンドを迎えることを約束されているからこそ美しく仕上がるのだ。
「ばかみたい」
 シルヴィオが手を伸ばしてくれたからと言って、その手を独り占めできるわけではない。
 彼が応えるべき人間は、この世界に生きる人たちであることくらい、分かっていたはずだろう。
 彼の微笑みは、希有に与えられるべきものではない。
 いつか見た写真の中で幸せそうに微笑む赤髪の少女。シルヴィオが守るべき、王である彼に相応しいお姫様。
 名を、フローラ・ローディアスという。
 ――、お姫様になりたかった。
 子どものような願いを抱いていた理由は、たった一つ。お姫様には、守ってくれる人がいるからだ。真綿で包むように、大切に守り抜いてくれる人が、お姫様には必ず存在する。
 それが、希有は羨ましかったのだ。
 自分で何も努力をせずに守ってもらおうなどと願うのは、都合が良い。しかし、希有はそれが欲しかった。
 微笑みかけてくれたシルヴィオの隣に居ることは、赦されないことだった。少なくとも、深く考えることなく、当然のように彼の優しさを享受することだけは、やってはならないことだったのだ。
 希有は、彼に依存して寄生虫のように頼りにした。希有が彼に与えられるものなんて、何一つないと分かっていながら、縋りついていた。
「……っ、ごめん、ね。シルヴィオ」
 自分が、彼に泣き場所を用意してあげられると希有は信じていた。
 だが、希有はこの半年、彼に何をしてあげられた。
 いつも気遣われてばかりだった。
 本当は、とても辛く苦しい思いをしていたはずのシルヴィオに、希有は何一つしてあげられなかった。
 己の存在理由である王となってから、シルヴィオの周りには敵意ばかりだったのだ。希有を助けたことで、彼を支援していた者たちは激怒し、シルヴィオはたった一人で責務を全うするしかなかった。
 協力者のいない状況の中、一人で国を治めることが、辛くないはずがなかった。
 本心を隠していたのは、希有ではなくシルヴィオだったのだ。
 希有の前では、その苦悩をおくびにも出さずに、希有のことばかりを気にかけてくれていた。
 希有は、いつか帰る人間である。
 そして、この世界に在るだけで彼を苦しめることしかできないのに、何故、こんなにもシルヴィオの傍にいたいと願うのだろう。
 彼が誰を選ぼうが関係ないと言いながらも、希有の心は晴れない。
 離れれば離れるほど、会いたくて堪らなくなる。
 壊れそうな感情を、そっと抱きしめてほしいと願ってしまう。与えられるものなど何一つないと知りながら、今も貪欲にも救いだけを求め続けている。
 身勝手にも、望むことばかりを繰り返している。
 そのような自分が嫌いだから、変わりたいと願ったのに――。
「……、会いたい」
 胸の奥に刺さった棘は、簡単には抜けそうにない。抜いた瞬間に溢れ出るものは、きっと、醜く痛い心だ。

「キユ様、いらっしゃいますか?」

 部屋の外から聞こえる声に、枕に埋めていた顔を上げた。重たい身体を起こして、寝台から移動しようとすると、希有の返事を聞かずに扉が開かれた。
 そこには、一人の青年が立っている。
「エルザ、さん」
 エルザは不遜な態度で、部屋の入り口に立っていた。身に纏う服が違うからだろうが、以前とは若干印象が違う。
「昼間からお休みですか。良い御身分ですね、本当」
「……、別に」
「顔色悪いですけど、ご気分が優れませんか?」
 希有の体調が悪いのは、ずっと部屋の中に軟禁されているからだ。アルバートが時折訪ねてくることも、また、気が滅入る原因の一つにもなっている。そのことを知っていながらも、エルザは意地悪そうに問うてくる。
 エルザは、常でさえ会いたいとは思えない相手だ。気分が沈んでいる時にエルザと会話するのは苦痛にしかならなかった。もしかしたら、それを見通して、エルザは希有に言葉を投げかけているのかもしれない。
「体調は、あまり、良くはありません」
 憮然とした声で答えた希有に、エルザはさらに愉快そうな顔をする。事実、心底楽しいに違いない。
「ダメですねぇ、体調管理はしっかりしてもらわないと。たったの十日しか経ってないのに……」
 エルザの言葉は、上手く頭に入らなかった。厳しい言葉を聞けるほどの余裕が、今の希有にはないからかもしれない。
 色々なことが頭を駆け巡って、己が何処へ向かえば良いか分からない。
 心に湧きあがる願望は、幼子が駄々をこねるような、彼の傍にいたいという漠然とした想いだけだった。傍にいたい理由さえも、はっきりとした輪郭を見せていないと言うのに、想いだけが先走っている。
「何かお望みのことはありますか? 僕、カミラみたいに甘くないので、叶えてさしあげられるかは分かりませんけど」
「……、外に出たいです。少しだけ、外の空気を吸って気分を変えたい」
 煩わしいまでに心をかき乱す感情を、どうにかして、なくしてしまいたかった。
 あからさまに怪しむような顔をするエルザに、希有は告げる。
「逃げるつもりはありません」
 エルザは希有を試すような視線を向けた後、気味の悪い笑顔を浮かべた。嫌らしさを隠そうともしない、不敵な笑みだ。
「分かりました。キユ様は、僕が近くに居ながら逃げ出すような莫迦者ではないと思いますし、……逃げたところで、貴方に行く場所なんて何処にもありませんからね」
 エルザの言うとおりだ。
 希有には、行き場など何処にもない。
 この世界にも、故郷である世界にも、居場所なんてありはしないのだ。
 エルザに案内されるがままに、希有は部屋を後にした。


              ★☆★☆★☆              


「僕は離れた場所にいるから、ご勝手にどうぞ。逃げたら殺しますから、怪しい真似はしないでくださいね」
 物騒な言葉に頷いて、希有は庭を歩き始める。
 照りつけるような午後の日差しを浴びながら、心を落ち着かせるために深く息を吸う。室内の澱んだ空気と違う、緑に囲まれた瑞々しい空気で肺が満たされ、少しだけ心が軽くなった気がした。
 立派な庭園を見渡せば、色取り取りに咲く花々がある。
 その花々に沿うように歩いていけば、一つの薔薇園が目に入った。美しい薔薇が群生する光景に目を奪われ、希有は心許なく薔薇園へと向かって足を進める。
「……、綺麗」
「触らないで、もらおうか」
 薔薇の花に手を伸ばそうとした希有を窘めるように、厳しい声が耳に入る。
「……あ、ルディ様」
 咄嗟に振り向くと、そこにはヴェルディアナが佇んでいた。銀色の瞳が、射抜くように希有を見ている。
「ここは、妹のために亡き父上が設けた場所だ。この薔薇に触れることが赦されるのは、貴方ではない」
 希有は、伸ばしかけた手を下げて、ヴェルディアナの言葉に応える。
「綺麗な、薔薇ですね」
「庭師が特別手をかけているから、当然だ」
「……、でも、一色しかないんですね」
「フローラは、淡い赤色をした――、柔らかな色の薔薇を好んでいる。その中に他の色を混ぜるのは、無粋だろう」
 その色が指し示す人物を脳裏に浮かべて、希有は幽かに笑んだ。
 確かに、パステルピンクの薔薇は、彼の髪色に似ている。
 ヴェルディアナの妹は、彼と同様、シルヴィオとは幼馴染だ。三人で映っていたあの写真を思いだす限りでは、仲も良かったのだろう。
 幼い頃から共にいるシルヴィオに、フローラは恋をしているのだろう。
 薔薇に想いを託し、焦がれるほどに。
 きっと、その恋は叶えられる。様々な者に祝福される中、赤毛の少女はシルヴィオの手を取るに違いない。
 色鮮やかに浮かび上がる未来に、希有は強く唇を噛んだ。
 希有が持つシルヴィオへの感情に、恋情が含まれているかと言われれば首を傾げる。はっきりと分かるのは、一人の人間として彼を好ましく思っていることだけだった。
 彼の隣にいたい。――その理由は、未だにはっきりと分かりはしないが、想いだけは確かなのだ。
 しかし、そのようなことを願ったところで、希有の入りこめる隙間など何処にもないのだ。
「妹さんは、今、どちらに?」
「今は、別荘で過ごしている。――あまりにも哀しいことがあって、心を痛めたんだ」
「哀しいことですか?」
「小さい頃から屋敷にいた、誰よりも傍にいたつもりだった人が、目の前から掠め取られたからだよ」
「シルヴィオ様が、王になったからですか」
 幼い時から、長い時を共に過ごした人。傍にいた人が、王となったことで遠くへと行ってしまったのだ。
 戸惑い哀しむことも無理ないだろう。
 希有が薔薇から視線を上げると、訝しげに希有を見るヴェルディアナがいた。
「……それは、本気で言っているのだろうか?」
 彼は苛立ったような口調で、問い詰めるように希有に言う。
「え?」
 訳が分からずに声をあげると、ヴェルディアナは眉間に皺を寄せる。
「妹の哀しみの原因は貴方だよ。シルヴィオが恋しいフローラにとって、貴方は邪魔者でしかない」
 予想外の言葉に、希有は息を呑む。
 フローラがシルヴィオに恋をしていたところで、何故、希有がその邪魔になるのだろうか。好いた男の傍に見知らぬ女が居座っているのは憎らしいかもしれないが、フローラはシルヴィオの隣に立つことを約束されている身だ。希有のことを忌々しく思おうとも、哀しみに嘆く必要はない。
 シルヴィオは恋心などという甘い理由で、希有を傍に置いているわけではないのだ。
 シルヴィオの希有に対する想いは、玩具に対する愛着に過ぎない。希有が彼に与えられるものはないのだから、彼は希有に飽けばすぐにでも希有を手放す。
 その上、希有はいずれは日本に帰る身でもある。
 フローラが希有に苛立つのは無理ないことだ。だが、希有が邪魔者になどならないことは、公爵家に生まれたフローラ自身が分かっているはずだ。
「可哀そうなフローラ。貴方が突然現れて、シルヴィオの隣を独占した」
 シルヴィオの隣を独占したつもりはない。彼のような人を独占するなど、傲慢であり不可能だ。あのようなちぐはぐな男を自分のものにすることは、希有のような凡人にはできないことを、親友であるヴェルディアナならば知っているだろう。
「貴方の今在る場所は、妹が欲しくて堪らなかった場所だ。あの娘が消えて、漸く手に入りそうだったその場所に、今度は同じ色を宿した貴方が現れた」
「……、はあ」
「妹の絶望が分かるかい?」
 なんてありふれた、愛に溢れた台詞なのだろうか。
「ルディ様は、妹さんが大切なのですね」
 希有も、誰かにそんな風に思ってもらいたかった。
 厭味ったらしく作り笑いを浮かべて、希有は嗤った。
「わたしに妹さんの絶望が分かるわけないでしょう? 会ったこともない相手の絶望なんて知るものですか」
 薔薇園で頬を染めていただろう令嬢が、とても憎らしく思えた。
 吐き始めた毒で、心を染める黒い染みが少しだけ薄まった気がする。
 これで、前に進めているなどと思う自分は、なんて浅ましいのだろうか。心を乱す鬱憤の理由など、知りたくもない。
「わたしは、わたし以外の何者にもなれません。妹さんの悲しみや絶望を理解できるはずもない。理解したくもありません」
「…………、貴方には、人の心はないのか」
「ありますよ、それが貴方の妹さんに向けるものではないだけです」
 赤の他人の、それも愛されて育ってきた娘に対して向けるような心は希有にはない。理不尽な嫉妬であることは分かっていたが、羨む気持ちは抑えきれなかった。
「ルディ様が妹さんを愛しているからといって、わたしが妹さんを愛する理由にはならない。貴方にとっての特別は、わたしにとっては何の特別でもない」
 誰からも愛される人間はいない。
 ――誰にも愛されない人間はいるというのに、皮肉なものだ。
「妹は優しくて綺麗だから、特別、なんて言葉は言わないでくださいね」
 一層晴れやかなほどの笑顔と共に、蔑みを与えよう。
 心を黒く染め上げる鬱憤が晴れるなら、どんな酷い言葉も吐いてやる。
「同情が欲しいのですか? こんな小娘から与えられる哀れみなんて、頭に来るだけでしょうに」
 同情は悲しみを紛らわす麻酔でしかなく、ひと時の救いと共に残酷な現実を叩きつける。
 そのようなものを手にしたところで、虚しいだけだ。
「絶望も悲哀も、比較しても虚しいだけですし、比較できるものではありません。妹さんの哀しみは彼女自身のものでしょう。わたしの哀しみとは一致しない」
 喉を震わせば、ルディの額に青筋が走る。
 その表情を見つめながら、希有は目を伏せた。
「わたし、世界で一番不幸な顔をしている人間が、大嫌いなんです」
 か弱い、か弱いお姫様。
 希有も、周囲から愛される娘になりたかった。
 ルディの妹は、こんなにも愛されている。それ以上をどうして望むのか。今在る環境だけでは、満足できないのだろうか。多くを持っているのだから、シルヴィオなんて要らないだろう。
 ああ、こうして、不幸な顔をして佇む希有こそ――。
「なんだかそれって、わたしみたいでしょう?」
 自分が世界で一番不幸だと思っている、愚か者だ。
 そう言って再び嗤った希有に、ヴェルディアナは冷めた目を向けた。
「貴方は……、ここで葬るべきなのかもしれないな」
 腰に差してある剣へと、ヴェルディアナが手を伸ばした瞬間だった。

「兄様!」

 大声で名を呼ばれ、ヴェルディアナは反射的に振り返る。
 そこには、真紅の薔薇の花束を抱えて手を振るアルバートがいた。
 無邪気そうな笑みを浮かべた弟を視界にとらえたヴェルディアナは、小さく息をつく。
「……、運が良いお人だ」
 ヴェルディアナは希有に背を向け、アルバートに応えることなく屋敷の中へと戻っていった。
 その間に、アルバートは希有の元まで駆けてくる。
「もう、兄様ったら、冷たいな。こんにちは、キユ」
「こんにちは、アルバート様」
「ふふ、アルで良いのに」
「その、呼び捨てにするわけには……」
 親しくするつもりもない相手の愛称を呼ぶつもりもなかった。
「固いなぁ。僕なんて、いてもいなくても同じような存在だから、気をつかわなくてもいいのに」
 卑屈な発言に希有は何も言えず、曖昧な笑みを浮かべた。自分のことだけで精一杯であるのに、他人の抱える闇など知りたくもない。
 ――、結局、希有は自分だけが可愛いのだろう。
 だからこそ、考えてしまう。シルヴィオの中で、希有という人格は、未だに美化されたままのかもしれない、と。そうでなければ、シルヴィオが希有に愛着を抱く理由が見つからない。
 だって、こんなにも醜い。
「ねえ、ここで兄様と何してたの? いけないこと?」
 微塵も遠慮することなく明け透けに聞いてくるアルバートは、大人びていても、やはり子どもらしい。その眩さが、直視できなかった。
「少し、お話していただけですよ。怒らせてしまったみたいです」
「そう、兄様は怒りっぽい人だから気にしないで」
 アルバートは、抱えていた花束を希有に差し出した。
「アルバート様、この薔薇は……」
「あげる。こんな淡い薔薇より、希有にはこっちの方が似合ってるもの」
 無邪気な少年の笑みを浮かべて、アルバートは言った。
「それに、最近元気がなかったでしょ? 女の子は花が好きだからね」
「ありがとう、ございます」
 幽かに零れ落ちた希有の微笑みに、アルバートは目を見開く。
 そうして、大きな花束から一輪の薔薇を取って、希有の髪に差した。
「やっぱり、女の子は笑ってる方が可愛いね」
 手元で揺れる紅の薔薇を見て、シルヴィオに会いたいと強く思った。
 強かな紅ではなく、優しい薄紅の髪に触れたかった。
 そうして、優しい声で、名を呼んでほしかった。そうすれば、この胸に巣食う悪い感情のすべてが、消えてなくなるような気がした。