farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 37

 セシル・ソローは、目を瞬かせた。
「シルヴィオ様、どうして、そのように仕事を急がれるのですか?」
 彼の処理すべき案件が多いのは仕方のないことだが、いつも以上に急いでやらなくとも、十分期日までに終えられる量だ。
 シルヴィオは溜息をついて、渋々と口を開いた。
「姉上が城を訪れるらしい」
「……、ベアトリス様が?」
 ベアトリス・ローディアスの訪問。
 よりにもよって、この時期に彼女がシルヴィオを訪ねて来る。セシルは呆れたようにシルヴィオに視線を遣った。
 彼女と会えば、疑われることなど承知だろうに彼は応じるらしい。
 ただでさえ悪い立場を、さらに悪くするだけだ。
「俺が出るしかないだろう。お前の危惧も分かるが、流石に、今、ローディアス公爵家を敵に回すわけにはいかない」
 王女が降嫁したローディアス公爵家は、現在、王族に継ぐ権力を握っていると言っても過言ではない。
 何より、あの家は地位もさることながら、財力も十二分に持っている。ここで向こうの機嫌を損ねることは、将来的な不利益に繋がる可能性も否定できない。
 だが――、それを分かっているならば。
「……下手に、喧嘩を売るような真似は、懸命ではなかったでしょう」
 黒の少女を傍に置けば、公爵家からの反感を買うことなど、この男は承知だったはずだ。
「確かにあれを近くに置いたのは俺の我儘だが……、いずれにせよ、公爵家との関係は、ある程度絶ち切らなければならななかっただろう」
 予想だにしなかった言葉に、セシルは驚く。
 シルヴィオ自身に公爵家との関係を少しでも切るつもりがあったとは、思っていなかった。
「恩はあるが、王としては必要以上の慣れ合いは避けるべきだろう。それより、頼んだことは進んでいるのだろうな?」
「処分は、まだですが……、ある程度の証拠はあげています」
「それならいい。結局のところ、膿を出し切らない限り、俺の立場など安定するはずがないのだから」
 立ち上がり去っていくシルヴィオの後ろ姿を見ながら、セシルは言いようも知れない複雑な感情に眉をひそめた。
 自分は、王を心配しているのだろうか。
 認めたくないと思いつつも、シルヴィオの足場を心配している自分が良く分からなかった。
 セシルが王として慕うのは、先王だけだ。
 それは、昔も、これからも変わることのないはずだったのだ。


               ☆★☆★               


 瞳に冷たい光を孕ませて微笑むシルヴィオに、ベアトリス・ローディアスは小さく息をつく。
「姉上、遠路はるばる御苦労様です」
 厭味ったらしい口調だった。ベアトリスは眉をひそめる。
「……、私に会いたくなかったかのような、口ぶりですね。シルヴィオ」
「気のせいでしょう。俺は姉上を尊敬していますから」
「相変わらず生意気な弟だこと」
「お褒めに預かり、光栄ですよ。貴方の育てた生意気な弟のままで、安心しましたか?」
 安心などするはずがない。
 ベアトリスの知るシルヴィオは、いくら憎まれ口は叩こうとも、ベアトリスの決定に逆らうことはなかった。
 決して逆らうことのないように、育て上げたはずだったのだ。
「キユは元気ですか? あれは意外と寂しがりやですからね」
 その名に、ベアトリスは拳を握りしめた。
 ベアトリスにとって消し去りたいほど邪魔な存在、シルヴィオの心に余計な影響を及ぼした憎い少女の名だ。
「ふてぶてしい娘です。憎たらしいほど元気ですわ」
 カミラの報告、エルザから様子を聞いたヴェルディアナの言葉を思い出す。軟禁されて弱り切ってはいるものの、彼女は一度も泣いていない。
 直ぐにでもシルヴィオの傍を離れるだろうと高をくくっていたベアトリスからしてみれば、計算外も良いところである。
「違いないですね、だが、……あれでいて酷く脆いのです。あまり、心細い目には合わせたくないのですよ」
 言外に、早く返せと言うシルヴィオに、ベアトリスは唇を軽く噛んだ。
 シルヴィオの指し示した可能性さえなければ、何一つ憂慮することなく、少女を葬れたというのに。

「真に、あの小娘が権利を有しているのですか?」

 苛立ちを隠そうともせずに、ベアトリスはシルヴィオを睨む。彼はその視線をものともせずに、口元を釣り上げた。
「断言はできません。可能性があると言っているだけです」
「はっきりとしなさい」
「無理を言わないでください。オルタンシア亡き今、この国で一番蟲に詳しい俺でさえ分からないのです。それに、……可能性があるからこそ、姉上も下手に動けないでいるのでしょう」
 降嫁したとはいえ、ベアトリスにとって公爵家の発展は二の次だ。王になりたいと強く願っていた若い頃と変わらず、ベアトリスの心は王族として根付いた価値観に基づいている。公爵家の発展も望みの一つではあるが、優先すべきはリアノの国益だった。
 王権の証、――リアノの蟲が二匹となれば、この国は更なる発展を約束されたも同然となる。
 人間の深みに介入するリアノの蟲は、国を支配するう上では利便性の強いものだが、同時に危険も高い。他者を知り過ぎて気が狂ってしまった王など、歴史の中に腐るほどいる。
 もしも、希有がその権利を有しているならば、王一人では負担が大きすぎる権利の行使の、負担を大幅に減らすことができる。
 それ故に、ベアトリスは、希有に手が出せない。
 安易に殺してしまえば、国益になるかもしれない蟲を失う可能性があるからだった。憶測で手を出すわけにはいかなかった。
 ――、ベアトリスが、どんなに望んでも手に入れることのできなかった、王たる資格。それを少女が有しているとしたら、憎らしくて堪らないが、国益となるならば認めざるを得ない。
「それが、お前の狙いですか?」
 険しい顔のベアトリスに、シルヴィオは微笑む。
 美しい顔に浮かぶ笑みは優しげなものだというのに、彼の雰囲気は鋼のように鋭い。
「俺が嘘をついていると、疑っておられますか」
「お前は、私が思うよりもずっと嘘つきでしょう」
「酷いですね。信じるも信じないも、姉上の自由ですよ」
 両手を上げたシルヴィオに、ベアトリスは苛立ちを深める。
「理由が分かりません。何処までも平凡な娘、お前が拘る点など、何処にもありはしない。早く切り捨てれば良いでしょう」
「俺はキユに能力など求めていないので、あれで良いのですよ」
「……、何一つ価値のない小娘に、王であるお前が求めることなど、ないでしょう」
 価値などない。
 王である彼が求めるものを、どうして、弱い少女が持っているというのだろうか。
「姉上、俺とて欲しいものくらいあります。欲しいものに出逢ってしまった」
 まるで、己だけが少女の価値を知っているかのように、シルヴィオの顔は満たされていた。
 心底幸せそうに、宝物を語るようにシルヴィオの唇は謳う。
「貴女たちの反対を押し切ってまで、キユを助けたこと後悔はしていません。貴女がキユのことを害するのならば、……俺は、きっと、貴女もルディも含めた公爵家を滅ぼしてしまう」
「脅しのつもり?」
「俺の正直な思いを述べただけです。どのように取るかは、姉上次第だ。俺を親しい者でも殺せる人間に育てたのは……、貴方でしょう?」
 リアノの王が短命である秘密は、国の穢れである。
 王が心を壊すなど、誇りを穢すなど、民に言えるはずもない。
 故に、蟲を使いながらも少しでも長く生きられる王が必要だった。人の闇を知りながら、己の心まで闇に侵されることのない、強い王が必要だったのだ。
「先王は、リアノの王としては甘すぎました。それ故に、長生きをしたのでしょう。だが、……あの人の治世は決して最良とは言えません。それが分かっていたから、姉上は俺の存在を黙認した」
 女に王位は継げない。
 リアノの蟲は、レイザンドと真逆で男児だけを好む。
 父である先王の治世に苛立ちを感じながらも、女であるが故にベアトリスは王位を継げなかった。
 その分の想いを、シルヴィオにかけたことは認めざるを得ない。
「どうか愚かな真似だけはなさらないでください。ベアトリス・ローディアス」
 すべてを守ろうとして切り捨てることのできなかった先王とは反対の、いざとなれば非道になれるような人間に育て上げたつもりだった。そうすることで、腐りかけたリアノを救えるとベアトリスは信じていた。
 おかげで、認められるはずのない存在であるシルヴィオも生きられるのだと、生まれたての赤子に理想を振りかざした。
「……、生意気な子ね」
 だが、歯車は狂い、掌で踊らせていたはずの弟は、いつしか自分の意志を持つようになった。
 ベアトリスの用意した道を逸れて、矛盾だらけの危うい心のままに、一人で世界を歩くようになってしまった。
 それこそが、ベアトリスの最大の誤算だ。
「私たちを裏切ったお前に、最後の機会を与えてやると言っていることが、分からないのですか」
 傀儡のままでいてくれたならば、どれほど良かっただろうか。
 彼がベアトリスに忠実な王であったならば、思い悩む必要はなかったのだ。
「裏切った、ですか」
 喉を震わして、シルヴィオは目を細めながら嗤った。
「何がおかしいのですか」
「先に裏切ったのはそちら側でしょうに」
 ベアトリスの顔が強張ったのを見て、シルヴィオは笑みを深めた。
「心当たりがあり過ぎて、どのことを言っているのかも分からないのでしょうね。二年前の仕打ちも、俺の居場所がカルロスに発覚した理由も、……全部、そちら側に責がある」
 二年前。
 公爵家に身を寄せていた少女が、一つの骸となった日。
「知って、いたのですか……」
 真実を隠し、ベアトリスは少女の死因を、事故死と伝えていた。シルヴィオは、それを疑うこともなく信じたはずだ。
「半年前までの俺なら、調べようとも思いませんでしたが……、キユと出会ってから、少し思うところがありまして。二年前の事件は、色々と不自然でしたから」
「二年前は、……私は、お前のためを、思って」
「それで? それで、オルタンシアの大切にしていた少女を殺しましたか」
「お、お前を惑わす、存在など……」
「仮に俺が惑わされていたと言うならば、俺を咎めれば良かったでしょう。彼女には、何一つ責はない」
 身体を震わしたベアトリスに、氷のような視線が突き刺さる。
「赦すも赦さないも、俺は言いません。その権利を持っていたのは、亡くなった彼女と、オルタンシアだけだ。所詮、あの頃の俺は公爵家の人形で、彼女を殺した原因であることは否定できませんから」
 滔々と語った後、シルヴィオはベアトリスを睨みつけた。
「姉上がキユを同じ目に遭わせる気ならば、容赦はしません」
 彼の瞳から読み取れるのは、怒りだった。昔の彼からは考えられない感情に、ベアトリスは目を伏せた。
 明らかな敵意を向けるほどに、彼の心は公爵家から放れてしまった。一度外界を知ってしまった人形は、元には戻れない場所まで離れて行ってしまったのだ。
 黒の少女に出会った瞬間から、彼の変化は始まっていたのかもしれない。 日が経つほどに、シルヴィオの心が少女に囚われて行く様子が、ベアトリスには手に取るように分かった。
「俺は、姉上たちを疑っています。一度裏切られた家を全面的に信用できるほど、俺はできた人間ではない」
 皮肉げに吐き捨てた弟に、ベアトリスは唇を噛みしめた。

「俺をカルロスに売った裏切り者は、間違いなく公爵家の人間でしょう」


               ☆★☆★               


 ベアトリスを部屋に残して廊下に出ると、扉の前に佇む影があった。細身の女を見て、シルヴィオは笑む。
「会うのは久しいな、カミラ。元気だったか?」
「変わりありません。シルヴィオ様こそ、お元気そうで何よりです」
 頭を下げたカミラに、シルヴィオは苦笑する。
 公爵家で生まれ育ち、シルヴィオは様々な教育を施されてきた。それは作法や学問だけではなく、己の身を守るための術も含まれる。
 シルヴィオは、作法や学問といったものはオルタンシアから、武術全般――特に剣術に関しては、目の前のカミラから指導を受けた。
 オルタンシア付きの護衛でもあったカミラは、細身で頼りなく見えるものの、武術全般に関しては専門家だ。逆を言えば、それ以外の学習に費やすべき時間を最低限に削ったために、それ以外はからっきしだが。
「お前は、変わらないな」
「お褒めに預かり、光栄です。まだ、歳には負けていられませんから」
 小皺のある眦を下げて、カミラは笑んだ。
 オルタンシアよりも数歳年上だった彼女は、今年で三十の半ばに差し掛かる歳となる。
 護衛職として現役を続けるにしても、せいぜい十年が限界だろう。老いて、身体が思うように動かなくなる時は近い。
「オルタンシアが、いなくとも……、お前は護衛のままなのだな」
 零れ落ちた言葉に、カミラは驚いたように目を見開く。質問の意味は理解できも、何故、そのような質問をされたのか彼女には分からなかったのだろう。シルヴィオも、どうして自分がこのような質問をしたのか、良く分からなかった。
 生まれた時から、カミラは公爵家の使用人として生かされてきた。立場こそ違うものの、彼女はシルヴィオと同じようなものである。
 シルヴィオが国の権利を持ち続ける限り王であるように、彼女は死ぬまで公爵家の使用人だ。
「当然です、それが私の幸せですから。……、貴方様は、お変わりになりましたね」
 カミラは、寂しげに微笑んだ。
「……、そう、見えるか?」
「少なくとも、私の知る貴方様は、執着や独占欲なんてものからは無縁の存在でした。自分以外を……、いいえ、時には自分さえも、守ろうとしなかった」
 カミラの言葉に、思い出す。
 昔の自分は、何事にも執着を抱かなかった。欲しいものを知らなかったからこそ、すべてがどうでも良かったのだろう。
 決定的に、今の自分とは差異がある。
「差し出がましい発言でしょうが、一つだけ言わせていただきます」
 カミラの瞳が、真っ直ぐにシルヴィオを見た。
代わり・・・にしたいのであれば、手放すことをお勧めします。彼女とキユ様は違います」
 瞬間、シルヴィオは小さく息を呑むが、同時に納得もした。
「それを言うために、わざわざ姉上の護衛を買って出たのか」
「オルタンシア様の大切だった少女と、キユ様は違います。身代わりにしたいのであれば、お止めください」
「……そろいもそろって、お前らは同じことを言うのだな。――、代わりになど思わない」
 オルタンシアが蜜腺から連れ帰った、希有と似通った黒の少女。子どもと呼ぶべき年齢でありながら、妙に大人びた表情をする子だった。
「あいつのことは、好きだった。同じような苦しみを分かりあえる友として大切だった」
 どこか影を背負った寂しげな微笑も、嬉しそうに家族のことを語る唇も、孤独を分かってくれる強さも、四年前のシルヴィオは好きだったのだろう。 どこか息苦しさを感じていたオルタンシアとシルヴィオにとって、少女は同類であった。
 愛することはできなかった。少女と自分の共通点が多すぎたために、己が嫌いなシルヴィオは、少女を一人の女として愛することはできなかった。
 だが、友として好きだった。
 無残な最期を迎えさせてしまった。己などと関わらせたばかりに、短い命を散らせてしまったことは、罪悪感と共に悔いとなって心にある。希有の笑顔を見ると、時折、亡くなった少女の姿が重なる。
「だが、それは……、キユに対する想いとは違う」
 今ならばはっきりと分かる、あの頃少女に感じていた想いは、希有に対して抱いている想いとは別物だった。
 希有に対して感じた想いの始まりは、一瞬だった。欲しかった言葉を与えてくれた彼女に対する想いは、名も知らぬままに刹那にして膨れ上がった。それを一時の迷いだと言われれば、完全に否定できない。
 だが、今、その想いは徐々に色づいて、穏やかな光となってシルヴィオを照らすようになった。
 気の迷いなどとは、最早、誰にも言わせはしない。
 この半年、シルヴィオは己の想いが、決して錯覚などではないことを知った。
「初めて、心の底から欲しいと思った。何をしてでも、どんな手を使ってでも、傍に置きたい」
 希有に嫌われることは、恐ろしい。
 それでも、傍にいてくれない恐怖に比べたら、嫌われる方が怖くない。
 周りに取り残されたような孤独も、自分さえ良く分からない怯えも、全部関係なく包み込んでくれる。希有は、何者でもないシルヴィオとして出逢えた、たった一人の相手だ。
 いくらシルヴィオの立場を意識しようとも、彼女のシルヴィオを見る目は、いつだって真っ直ぐだった。真っ直ぐに、シルヴィオだけを見てくれた。躊躇いと戸惑いを見せながらも、シルヴィオを見つめる瞳は、いつだって優しかった。
 そのような存在を、手放すことが無理な話だったのだ。
「……、それで、キユ様が傷ついても、ですか?」
 シルヴィオは何も言わずに、目を伏せた。
 傷ついてほしいわけではないが、傷つけてしまっても、己の幸せのために傍にいてほしいと願う。
 それは、シルヴィオが今まで知らなかった感情だった。
 ――我ながらに性質の悪い想いだ。
 独占欲と執着心の塊で、これを恋情と呼ぶならば、それほど性質の悪い想いはこの世にはないだろう。
「守ってやってくれ」
 カミラは複雑な面持ちで目を伏せた。