farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 41

 目を見開いた瞬間、広がった赤に、希有は息を呑んだ。
「あ、起きたの? まだ夕方だよ」
 慌てて身体を起こすと、彼は寝台の近くに置かれた椅子に腰かけなおす。
「なんで、いるんですか」
 赤毛の少年――アルバートは首を傾げる。
「お見舞い。友だちは心配し合うものなんでしょ? 具合悪いって、昼にエルザが言っていたから、お見舞いに来ないといけないって思ったんだ」
「……それは、ありがとうございます」
 アルバートは小さく笑う。
「どういたしまして。友だちって良いね、ありがとうって言ってもらえる」
 彼の顔に浮かぶのは、無邪気な笑みだ。少なくとも、希有にはそう見えた。
 アルバートは良く分からない少年だ。
 希有に度々構うことも、何か知っているかのような思わせぶりな態度も、彼は何をしたいのだろうか。本当に子どものように笑うかと思えば、時折、背筋が粟立つような底の見えない瞳をする。
 まるで、彼が何かに迷っているような印象を受けることが、希有にはわずかに引っかかっていた。
「……、カミラは、どこに?」
 眠りに就く頃にも部屋にいなかったカミラが気になり、希有は部屋を見渡すが、彼女の影はない。
「仕事だよ。わりと忙しい人間だからね」
「そう、なんですか」
 希有は小さく頷く。
 最初の数日間は希有が嫌になるほど傍に控えていたが、彼女には彼女の仕事が在るのは当然である。
「……、あ、これ、うちの茶葉だね」
 アルバートは、机の上に置かれたものを見て口を開く。
「……エルザさんが、ラシェル様からのお詫びと言って持って来ました」
 だが、そこに謝罪の意図があったようには思えない。ラシェルが茶葉を用意したのは、単純に、エルザを庇うためだろう。
「エルザが? 珍しいね。ラシェルの言葉とはいえ、素直にエルザが言うことを聞くなんて。エルザは、あんまりラシェルの命令には従わないんだよね」
「……、従わない?」
「まあ、エルザは使用人の中では異質だから、仕方ないのかもしれないけど。……この家は、使用人の育成は彼らが生まれた瞬間から始まるって言ったよね?」
 頷いた希有に、アルバートは満足げに笑う。
「エルザは違う。兄様の奥方が亡くなった年の冬、兄様自ら連れてきたんだ。兄様以外の誰もが、エルザの素性を知らない。本当の名も、……性別すらも、ね」
「性別? エルザさんは、男の人じゃ……?」
 淡々と語られる内容に、希有は思わず声を上げた。何処からどう見ても、あの青年は女に見えない。細身だが、女には見えない。
「シルヴィオから聞いてなかった? エルザの姿は一つじゃない。母様が素性の知れないエルザの存在を黙認しているのは、その能力を買ってるからに過ぎないよ」
 アルバートの言葉に、希有は思い出す。
 確かに、初めてエルザにあった時、シルヴィオは言っていた。
『……今日は、その姿か。エルザ』
 あれは格好について言っていたのではなく、エルザのすべてに対しての言葉だったのだ。
「変装の名人、ということですか? ……、ばかばかしい」
 口にしてみれば、絵空事としか思えない。
 つい零れ落ちた否定の言葉に、アルバートは肩を竦める。
「そんな感じかな。長く過ごせば襤褸が出て分かるけど、数日過ごしたくらいじゃ同一人物とは思えないよ」
「いくら何でも、無理です」
 別人になり済ますなど、可能なのは物語の中の話であって、現実では不可能に決まっている。それを信じられるほど、希有は夢想家ではない。
「そうかな? 誰かに化けるんじゃなくて、いくつかの顔を持っているだけなら、可能だと思わない? 既存の人間になるんじゃなくて、数人の架空の人間を創り出すんだ」
「……、分かりません」
「あいつ、自分の元の顔の特徴を、都合の良いように潰しているみたいだしね」
 顔を潰していると言う言葉に、希有は小さく身を震わす。
 何度も、あの子と同じ顔を潰そうと思ったが、結局実行に移せなかったのは、自分の顔を失くせば、あの子との繋がりさえ消えて独りぼっちになるからだ。
 優秀な方にはなれなかったけど、同じであることが歯がゆかったけれども――、同一の顔を持つが故に救われていた点もあった。
 己の顔は、わずかばかりでも、惨めな居場所を用意してくれた。
 顔を潰す、己の特徴を消すと言うことは、己の存在を消してしまうことと何が違うのだろうか。それを行っているならば、エルザは異常だ。
「特徴のない素地に色をつける方が、今在る貌を変えるよりも余程楽だから」
 アルバートの言うとおり、元々ある顔を弄るよりも、特徴のない下地に色を足した方が楽ではあるだろう。
 だが、どうして、そこまでしなければならないのだろうか。
 自分の顔の特徴を消してしまうなど、並大抵の覚悟で行えるものではない。少なくとも、希有には無理だ。
 エルザは、元からの公爵家の者ではないのだ。そのエルザが、何故、公爵家に仕えているのか。顔を潰してまで、公爵家に、ヴェルディアナに仕える理由がエルザにはあるのだろうか。
「顔の基本形は数人だろうけど、髪型と化粧の種類は数えきれない。それだけやれば、ちょっと似てても別人にしか思われないよね」
 未だに、不可能だと思う心は捨てきれない。だが、アルバートの言葉を聞いていると、可能にも聞こえてくる。
「エルザはね、たくさん姿を持っていて、全部の姿を把握しているのは兄上だけなんだよ」

「たとえば、――城で働く少年、とかね」

「え?」
「僕でも知っているような、王城でのエルザが良く使う姿なんだよ。綺麗な顔をした、でも、印象の薄い男の子」
「…………、少、年?」
「実際に見た方が、早いかな? この時間なら、良いものが見れるかも」
 差し出されたアルバートの手を見て、希有は小さく息を呑む。
「おいで」
 言葉を重ねたアルバートに、戸惑いながら、希有は頷いた。


              ★☆★☆★☆              


 あれから庭園へと出たアルバートは、以前希有がヴェルディアナと対峙したフローラの薔薇園を通り抜け、更に奥の方へと進んでいく。迷路染みた庭を歩く足取りには、一切の迷いがなかった。
「……、どこまで行くんですか?」
 あまりにも奥へと進んでいくために、不安になってくる。
 書き置きはアルバートに残してもらったものの、カミラにも何も言わずに出てきてしまったことに対する後悔もあった。
「この家は、基本的に、全体の構造を把握している人間はいないんだよね。母様も兄様も姉様も、もちろん使用人たちだって、この屋敷全体の構造は把握していない」
 希有の質問を無視して、アルバートは一方的に喋り始める。
「だからさ、誰も思わないわけだよ。まさか、自分たちしか知らないはずの秘密の道を、他にも知っている者がいるなんて」
 口元に指を当てて、アルバートは振り返る。
 愉悦をはらんだ瞳で、彼が微笑んだ。
「それに、大切な場所を、関係のない誰かに踏みいれられているなんて、……考えたくもないでしょ?」
 木々をかき分け、通り抜けて、歩みとともに彼の笑みは深まっていく。
「さすがに、この距離なら聞こえないとは思うけど、ちょっとだけ静かにしてね」
 アルバートは木陰に隠れるようにして、木々の隙間から前方を指差した。彼の指先を追うように、希有は視線を遣った。
 遠い場所、辛うじて顔は確認できる程度の距離だ。
 希有の存在を快く思っていない、ヴェルディアナの姿が見えた。その隣に、人影はもう一つある。
「……、う、そ」
 ヴェルディアナの横に居る彼の姿を、忘れるはずがない。

 華奢な体躯の、美しいが、どこか印象の薄い少年・・
 城の庭園で必死に希有たちを探していた、監守の役割を負っていた少年だ。髪型こそ違うものの、あの顔は、確かに彼と同じものだろう。
 心臓が逸るのを感じながらも、頭は急速に冷えて行く。
 エルザに対して、既視感のようなものを抱くのは当然だった。
 あの少年も、侍従姿のエルザも、一様にして不自然なまでに印象に残らない顔をしていたのだ。綺麗な顔をしていると言うのに、否、綺麗であるが故に特徴のない顔だ。
 隣り合って、ゆっくりと去っていく二人の姿を、希有は茫然と見送る。
「言ったでしょう? エルザは、いろんな姿を持っているって」
 希有は、気づけば、拳を握りしめていた。
 エルザは、シルヴィオが希有と同じように牢に捕らわれていたことを知っていた。エルザが手引きすればシルヴィオは容易く逃げられたというのに、彼を助けなかったのだ。
 それが意味することなど、一つしかない。
「ルディ様が、……裏切り、者?」
 公爵家によって匿われていたシルヴィオをカルロス側が捕まえるためには、シルヴィオ側に属する協力者――裏切り者がいない限り不可能だった。
 裏切り者がヴェルディアナだとすれば、辻褄が合う。
 当主である彼は、母親であるベアトリスの信頼も厚い。シルヴィオの居場所を、ヴェルディアナが知っていても不自然ではないだろう。
『あれにとって、己の血縁は憎むべきものだ』
 固く目を瞑ると思い出される、カルロスの言った言葉。玉座を求め、シルヴィオを害したあの翁の言葉は、強く希有の中に刻み込まれていた。連鎖的に、処刑されそうになった時の恐怖も蘇り、希有は小さく身を震わす。
 ヴェルディアナにとってのシルヴィオは血縁でもある。己の血縁を憎んでいるのならば、彼がシルヴィオを憎んでいても不思議ではない。
 目眩がした。
 シルヴィオとヴェルディアナは親友だ。
 シルヴィオも写真にして持ち歩くほどに、ヴェルディアナとその妹を大切にしているだろう。
 それなのに、シルヴィオが裏切られているというのか。
「へえ」
「あ、……」
 失念していたが、この場にはアルバートがいたのだ。
 顔を青くして振り返る希有に、彼は笑みを深めるだけだった。
「裏切り、か。兄様ならあり得るかもね。お世辞にも優秀とは言えない人だけど、僕らの中で公爵家の性質を一番色濃く継いだのは兄様だよ」
 ローディアス公爵家に深く根付いた理念は、ただ一つ。
「……何かのためとか、誰かのためなら、何をしてもいい」
「そう、自分が思う正義のためなら、何をしても良いと思っている。そんなもの、結局は利己的な思想でしかないのにね」
 無邪気な声で笑うアルバートは、一層、不気味なほどであった。
 兄が裏切り者かもしれないというのに、その顔は妙に晴れやかで、気味が悪い。まるで、自分は公爵家と無関係であるかのような態度だ。
「どうするの?」
「え?」
「事実を知ったからと言って、キユに何ができるのかな。放っておいた所で、兄様が何か仕出かしたなら、遠くないうちにシルヴィオは気づくよ。もしかしたら、もう気づいているかもね」
 アルバートの尤もな言葉に、希有は俯く。
 シルヴィオは、直に裏切り者に気づくだろう。既に気づいている可能性だって、少なくはないだろう。
「……わたしは、ただ」
「傷ついてほしくない? シルヴィオに」
 思っていたことを言い当てられて、希有は声を失くして顔を上げた。
 銀色の瞳を細めて、アルバートは笑う。
「大丈夫だよ。シルヴィオは、これくらいで傷ついたりしない。そんな風に、あいつは育てられてきた」
「でもっ……!」
「君が殺されたとしても、シルヴィオはきっと何とも思わないよ。それと同じこと」
 優しい声音をしていると言うのに、畳みかけるようなアルバートの言葉が、堪らなく息苦しかった。
「分かっていたでしょ? シルヴィオ・リアノは、どれほど親しくとも、大切にしていても、――切り捨てることを厭わない人間だって」
 知っていた。
 知っていた、つもりだった。
 たった半年しか傍にいないというのに、彼のことを分かっているつもりになっていた。
「キユは、シルヴィオに守られているだけで、自分じゃ何もできない。この世界と何の関係もない、ただの子どもだ」
 ――本当は、希有はシルヴィオのことなど、何も知らないというのに。
 知ろうともせずに、その優しさに甘えて縋りついていただけだ。彼が何も言わないからと、彼のことを知ろうともせずに甘え続けていた。
「傷ついてほしくないなんて思うこと自体が、身勝手で偽善だよね。君は良い子になんてなれないくせに、……嫌われることを恐れるように、綺麗事ばかり口にして取り繕っている」
 アルバートの言葉は、すべて、正鵠を射ている。
 自分は愚かな道化だ。
 決して美優のような子になれないというのに、美優の猿真似を繰り返していた。滑稽だと笑われていることを知りながら、ばかみたいに、いかにもあの子が言いそうな優しい言葉を口にしている。いくら自分がそれを口にしたところで、偽善にしかなりはしない。
「甘えて頼って縋っているくせに、……傷ついてほしくないなんて、都合が良すぎるよ。君だって、シルヴィオを傷つける一因じゃないか」
 彼のことを分かったつもりになって、それを免罪符のように掲げていたのは希有だ。
 そうすることで、甘える自分から目を逸らしていた。
 愛しているから何をしてもいいと思っている公爵家と、何処が違うというのか。
 俯く希有に、アルバートは優しい毒を垂らし始める。
「母様の要求が、まさか、本当のことだとは思ってないでしょ?」
 ベアトリスの言葉を、疑り深い希有が、そのまま信じられるはずもない。彼女の言葉の裏に在るのは、生活を保障すると言う名目での軟禁、もしかしたら、監禁かそれ以上に酷い目にあわされることも、可能性としては考えていた。
 アルバートの言い分から察するに、どうやら、ベアトリスは希有をそのような目にあわせる腹積もりだったらしい。
「シルヴィオのおかげで、希有は、ギリギリのところで守られている」
 こうして、希有が今も無事でいられるのは、シルヴィオのおかげなのだ。どのような手を使っているのかは知らないが、彼が公爵家に何か手をまわしていなければ、希有は今頃葬られていたに違いない。
「でも、このままシルヴィオの思惑が上手く行くとも限らない。――希有の未来は真っ暗。だから、逃げなよ」
 カミラと同じことを、アルバートは忠告する。
「逃げないと、死んじゃうよ」
 この場所から、シルヴィオの近くから離れない限り、希有の身はいつまでも危険に晒されるだろう。あれほど恐れていた死が間近に迫っているというのに、どうして希有は逃げないのだろうか。
 ――、傍にいたいと思っているのは、何故だ。
「逃げることは悪いことじゃないよ。誰だって自分の命は惜しい。楽しいことも嬉しいことも、希望も……。死んでしまったら、全部終わりなんでしょ?」
 死を恐れていた。
 生きることの理由など分かりもしなかったから、いつかそれを知るために、希有は生きていたいかったのだ。
 彼の隣でその理由を見つけられるのならば、どれほど素敵なことだろうと、あの日、泣きながらに思った。
 ただ、生きているだけの存在になりたいわけではない。
「それを知りながら、キユが逃げないのなら……、どうして?」
 冷えた身体温もりを与えてくれる人、彼が傍にいることが堪らなく嬉しかった。この手を取ってくれる人がいるならば、希有はどうしようもない愚かしさも過去の罪も含めて、自分を愛せるようになる。

 彼が命を救ってくれたあの日、希有はシルヴィオの隣で生きる意味を見つけたいと願ったのだ。

 あの人の隣でないのならば、変わることなとできない。ここで逃げたところで、自分を愛せるようになるはずがない。
 希有は、今も、身勝手で甘えてばかりだ。綺麗事ばかりを口にして、理想だけを掲げて、それに追いつこうとする勇気さえ持てない。己を守るために言い訳を繰り返して、外面ばかりを取り繕ったどうしようもない道化のままだ。
 だが、希有は、変わってみせると言った自分を裏切りたくはない。
「シルヴィオは、わたしを守ってくれた。傍にいてほしいと、……言ってくれた」
 彼の願いが嬉しかったのは、決して嘘ではなくて。
 繋がれた手の温もりを手放したくないと、強く願ったことも真実だった。
「だから、離れたくない」
 一緒にいたい。
 希有は罪を犯して、たった一人の姉を陥れた最低の人間だ。
 己の弱さと醜さを嘆き、身勝手に涙している弱い人間だけれども、――彼の笑顔の隣に立てる人間になりたい。

 もう二度と、大切だと思える人を見失いたくない。

「……、あの人の気持ちを、裏切りたくない」
 微笑んでくれたシルヴィオを、希有は裏切りたくないのだ。こんな自分を望んでくれた彼のためにも、自分のためにも、希有は目を逸らしてきた現実と向き合い変わっていかなければならない。
 ――それならば、希有がやることは、決まっている。
 その時、アルバートの瞳が迷いと困惑で揺れていたことに、希有はついに気づくことはなかった。