farCe*Clown

第三幕 幸福を夢見る愚か者 46

 淡く温かな光が、優しく降り注いでいた。
 薄らと開いた双眸に映るのは、過去にあの子と見た桜と同じ淡い薄紅。
 柔らかなその色に手を伸ばせば、春の光を帯びた若草の瞳が慈しむような輝きと共に細まった。
「シル、ヴィオ……?」
 彼以外に、こんなにも優しい春の色を携えた人を、希有は知らない。
 何て都合のよい夢を見ているのだろうか。指の先をすり抜ける桜色に懐かしさを覚え、胸の奥が切なくなった。
 シルヴィオに、伝えたい、教えてあげたい気持ちがあった。
「おはよう、キユ」
 美しい顔が近づいて、希有の額に唇が触れた。柔らかな唇を感じた瞬間、希有の意識はまどろみから現《うつつ》へと呼び戻される。
 少しだけ意地悪に微笑んだ表情は、確かに見覚えがあるものだ。
 希有は、恐る恐る彼の頬に手を伸ばした。美しい顔に、両手で確かめるようにして触れていく。
 少し冷えた肌は手に馴染み、肌理細やかな感触が気持ち良かった。
「どうした?」
 目を瞬かせるシルヴィオに、希有は熱い何かがこみ上げるのを感じる。
「夢じゃない……?」
 触れた指先から伝わる温もりが、これが夢でないことを希有に教えた。
 何度も名を呼びたいが、喉が震えて言葉にならない。
 どうして、彼がここにいるのだろうか。

「何故、泣く。……そんなに、俺に会いたかったのか?」

 苦笑したシルヴィオに、希有は言葉を失くした。
 自分の頬を滑り落ちる冷たい滴を感じた時、唇からこぼれ落ちたのは、取り繕う暇のなかった本音だ。
「……、会いたかった、よ」
 歯止めをかけようとしても上手くいかずに、言うつもりなどなかった言の葉が溢れだして止まらない。
「だって、……寂しかった」
 視線の先で、彼が困惑したように目を見開いた。
「一人でいることなんて、慣れてたはずなのに……、誰かから疎まれることなんて、我慢、できたはずなのに」
 一人になっても、誰かから疎まれていても、我慢することは難しくなかった。傲慢にも、それが自分に与えられるべき罰だとさえ思っていたのかもしれない。
「なのに、どう、して? なんで……」
 たった一月ひとつき会えないくらいで、泣いたりなどしないはずだった。それくらいの弱さなど、誤魔化すことができたはずだった。
 あの子を置き去りにしてから四年。希有は、そうして現実から目を背け、取り繕うことで生きてきたのだ。
「……、我慢したからところで、その辛さが消えるわけではないだろう」
 シルヴィオの大きな手が、希有の頭に伸ばされる。
 久しぶりの感触が懐かしく、さらに涙が止まらなくなる。泣いてばかりで、困らせたくないというのに、せきを切ったような涙は止まるところを知らなかった。
「助けを求めることを止めたところで、苦しさが終わるわけではなかった」
 堪らず、希有はシルヴィオに縋りつくように、彼の胸に顔を埋めた。
 久しく感じることのなかった人肌は、やけに熱く感じられた。その熱が心地よくて、またも、涙は流れていく。
「吐き出して良い。苦しいことも辛いことも、全部口にして構わないと、……俺は言ったはずだ」
 あの子に対する想いと似ていて、それでいて異なったこの感情の名を、希有は知らない。知らないのに、疑うことなく、この想いは間違いではないと直感している。
 胸の奥にともるあかりが嘘ではないことを、希有は理解してしまった。
「寂しいなら手を握る。苦しいなら頭を撫でてやる。寂しさや痛みを我慢されるより、……傍で泣いてくれた方が、ずっと嬉しい」
 この人を、とても大切に思う。
 優しい手が髪をかき分けて、耳の後ろに手が回される。視線を合わせるように上を向かせられると、優しい光を湛えた瞳がある。
 彼の唇が頬に触れ、涙を吸い取るように口づけた。
 普段なら恥ずかしくて拒絶してしまうような仕草も、今ならば、全部赦してしまう。
「……、ありがとう」
 希有の言葉に応えるように、彼は優しく微笑した。


               ☆★☆★               


 少しだけ赤くなった目で、希有は向かいに座るシルヴィオを見る。彼は頬を引きつらせて、給仕をするカミラに視線を遣っていた。
「カミラ、……少し乱暴過ぎないか」
 テーブルの上に並べられていく朝食は、決して綺麗な盛りつけとは言えない。不器用なのか、カミラは手を震わして、必死に食事を皿に盛りつけていた。
「私の本職は給仕ではありませんから、シルヴィオ様」
 言い訳のように口にして、カミラは視線を逸らした。
「……、そう言えば、カミラの本職って?」
 一度も聞いたことがなかったことに気付き、希有は首を傾げた。
「いくつかありますが、主だったものは護衛になります。それ以外には、能がない人間ですから。オルタンシア様やシルヴィオ様に剣をお教えしたのも、私です」
 希有は彼女の言葉に耳を傾けながらも、少し腑に落ちなかった。帯刀していたことから戦えると言うのは本当だろうが、痩せすぎと言っても過言ではないカミラが剣を振り回す姿は想像しがたい。
「キユ、騙されるな。かなり、えげつない戦い方をする女だ」
 肩を竦めたシルヴィオに、カミラは眉間に皺を寄せた。
「……、えげつないも何も、あるものですか。勝てる戦は、最大限の力をつかって、どんな卑怯な手を使ってでも勝たなければ意味がありません」
「実にリアノらしい考え方だが、ここの連中も気の毒に。誰もが、俺やお前みたいに振る舞えるわけではないだろう」
 シルヴィオの呟きを拾ったのか、カミラはさらに顔を歪めた。
「……だいたい、朝から、ローディアスまで何の御用ですか。お帰りになる時が来たら、キユ様は、責任もって私が送り届けるとお伝えしたはずです」
 いつのまにか連絡を取り合っていたらしい彼らに、希有は目を瞬かせる。 だが、今思えば、公爵家にいる間カミラは常に希有を守ろうと行動していた。シルヴィオが希有を守るために、カミラにも手をまわしていたということだろう。
 どれほどの親交があったのか知らないが、シルヴィオとカミラの間には、長年積み上げられてきた信頼があるのだろう。シルヴィオに言えば否定するのかもしれないが、希有にはそう思えた。
「迎えに来たかったから、来ただけだ。手紙も出していただろう。何が悪い」
「手紙に関しては、こちらに非があるので何も言いませんが……、護衛も付けずに城を出てきたことは、悪いと思います。貴方様の剣の腕は認めますが、先代と違ってお顔が広く知れ渡っているのですから、あまり一人で行動なさらぬようにお願いします」
「……、一人で来たの?」
「ああ」
 平然と答えるシルヴィオの神経を疑いながら、希有はカミラを見た。彼女は呆れたように目を伏せている。
「私は、ベアトリス様に報告してきます。そのご様子では、どうせ、この家に来ていることも伝えていらっしゃらないのでしょう」
「良く分かったな」
 喉を震わしたシルヴィオに、カミラが溜息をつく。彼女はそのまま、大股で部屋を出て行った。
 二人っきりになった室内で、希有はシルヴィオに視線を遣った。
「……それで? まさか、本当にわたしを迎えに来るためだけに、来たわけじゃないよね」
 ローディアスは、王都に隣接する領地とはいえ、そう頻繁に行き来するような距離ではない。希有を迎えに来るためだけに、早朝から馬を走らせて来るとは思えなかった。
「つれないな。先ほどまでの可愛らしい態度はどうした」
「……、あれは、忘れて」
 シルヴィオは、言葉に詰まった希有を揶揄やゆするように笑った。
「本当に迎えに来ただけならどうする?」
「ベアトリス様に引き渡す。再教育が必要だって」
「まったく、今のお前は、可愛げがない」
「もう直らない」
 乱暴に受け答えると、シルヴィオは興が醒めたかのように嘆息した。
「お前を連れて行かなければならない場所が在る。護衛をつけなかったことに関しては、反省しているが、……残念ながら今の俺には、信頼できるような護衛がいないからな」
 呟いたシルヴィオに、希有は自然と唇を噛んだ。
 彼の現状が、今も厳しいことに変わりはない。護衛と共に出かけることも、その護衛が信用ならないのだから、どうしようもないのだろう。
 それならば、出かけることを自重しろと言いたかったが、自分のために彼がしてくれた行動を無下にすることも躊躇われる。
「……、それなら、シルヴィオ自身が来なければ良かったのに」
「来てほしくなかったのか?」
「…………、迎えに来てくれて、嬉しかったけど……。シルヴィオが危険な目に遭う方が嫌だから」
「……、それは、嬉しい言葉だな。だが、俺以外となると、今度はお前が危険に晒される可能性があるからな。貴族も、お前に関しては敏感になっている」
「どういう意味?」
「そのままだ。それに、これから行く場所は、俺以外が連れて行くには都合が悪い。朝食を食べたら直ぐに向かおう。早く城に帰りたいしな」
「ねえ、シルヴィオ。――、わたしは、……帰っても、良いの?」
 希有はなけなしの勇気を振り絞って確認する。
「帰りたくないのか?」
 直ぐに返ってきたシルヴィオの言葉に、希有はゆっくりと首を振った。
 ――もう、迷う必要などないのだ。
「帰りたいよ」
 仮初だとしても、この世界での、希有の帰る場所は決まっている。