farCe*Clown

第三幕 幸福を夢見る愚か者 47

 朝食を終えて、希有はシルヴィオと共に部屋を出る。
 何も言わずに荷物を持ってくれたシルヴィオの気遣いに、小さく希有は笑んだ。
 屋敷の入り口には、不機嫌そうなベアトリスと少しだけ眠たそうなラシェルの姿があった。
「あ、あの、父上は体調が悪くて、お出迎えに来れないと……。申し訳ない、と言っていました」
 視線を逸らしながら小さな声で言うラシェルに、シルヴィオと希有は目を合わせる。互いに、ラシェルの言葉が嘘であることを察するのは簡単なことであった。
「ルディの奴、良い歳して相変わらずだな。いったい、いくつのつもりだ。もう、子どもではないだろうに」
 シルヴィオが、笑いを堪えながら言う。
 ヴェルディアナの姿が見えないのは、希有の顔を見たくないからだろう。子どものような人だということは、この家に滞在している間に知れた。シルヴィオは、彼のそのようなところを、特に気に入っているに違いない。
 眉を吊り上げて、ベアトリスがシルヴィオを見た。
「わざわざ迎えに来るとは、自分の立場を分かっているのですか。呆れたものですね。シルヴィオ」
「姉上ほどではないですよ」
 ベアトリスの嫌味をまったく気にすることなく、シルヴィオが笑顔で受け答えた。ベアトリスの頬が引きつっている。
 今にも言い合いを始めかねない二人に、幼いラシェルが苦笑した。
「シルヴィオ様、ご活躍をお祈りしております」
 この場で一番大人なのは、もしかしたら、ラシェルなのかもしれないと希有は思った。
「キユ様も、お元気で」
 不意にかけられた言葉に、希有は驚く。
 公爵家の人間は、皆希有に敵意を持っていた。そう思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。
「……ありがとうございます。ラシェル様」

「若様、何処に行ったんですかぁ。お勉強のお時間ですよ」

 聞こえてくるエルザの声に、ラシェルが慌てて礼をする。
「最後までお見送りできず、すみません。僕は行きますね」
 心なしか嬉しそうに駆けていくラシェルの姿に、希有は苦笑した。
 あの時は、妄信などと言い表してしまったが、ラシェルがエルザに抱くのは妄信ではなかった。
 それは、本能的な無条件の甘えだったのだ。
「では、俺たちも行きます」
「道中、気をつけなさい。シルヴィオ」
「……ええ、姉上もお元気で」
 ベアトリスは希有に視線を遣り、一瞬だけ悲痛な表情をした。
 訳も分からずにシルヴィオを見るが、彼も黙したまま虚空を見つめるだけだった。
「……、お世話になりました。ベアトリス様」
 玄関を出る直前、希有は振り返って礼をした。
 完全な和解ができたわけではない。彼女は、希有を疎ましく思い続けるだろう。それで良いのだ。いつか希有がいなくなった頃に、ベアトリスが感じる疎ましさも消え去るのだから。
 ベアトリスは、出て行く希有に何も言わなかった。
 隣にいたシルヴィオが、そっと玄関の扉を閉める。
 二人並んで歩き出すと、シルヴィオが何か言いたげに希有に視線を遣る。
「なに?」
 その視線に居心地の悪さを感じて、希有は小さく息をついた。

「……アルバートと、仲良くなったのか?」

 いつもと変わらぬ声音だったが、シルヴィオの表情は少しかたい。
 希有は彼の質問に答えずに、口を開いた。
「気づいてたよね?」
 シルヴィオ・リアノは、いつ頃からなのかは知らないが、アルバート・ローディアスの裏切りに気づいていた。
 希有でも分かった事実は、順序立てて考えれば、さして難しいことではない。証拠があがらずとも、推測くらいにはたどり着ける。シルヴィオのように頭の切れる人間ならば、なおさらのことだ。
「……、さあな」
 大切な宝として育てられてきたシルヴィオは、己の影のような存在を誰よりも知っていただろう。
 期待も愛情も注がれることのない、哀れな少年の姿を一番気にかけていたのは、実はシルヴィオだったのかもしれない。
「俺は、裏切ったあいつを赦すつもりはない」
「……、うん」
 シルヴィオが、彼を赦すことはないだろう。
 それが彼自身の感情に寄るものなのか、そのように育てられてきたことが理由なのかは分からないが、シルヴィオには裏切りを赦すことはできない。
「だが、一つだけ、あいつには感謝をしている。……、筋違いな感謝だがな」
 苦笑したシルヴィオに、希有は首を傾げた。

「アルバートが俺を憎まなければ、俺はキユに出会うこともなかった」

 瞬間、希有は息を止める。
 暖かな陽光が、彼の瞳の奥へと吸い込まれていく。桜色の髪が煌めいて、微笑を湛えた顔は、この世のものとは思えないほど美しく儚く思えた。
 出会えて良かった、と言われたような気がした。
 言葉にすることができないほどの嬉しさと共に、胸の奥が引きつるような寂しさが浮かび上がった。
 この先には、終わりがある。
 出会いがどれほど大切なものとなっても、別れは必ず訪れる。そのことを強く意識して、希有は軽く拳を握りしめる。
「俺も、随分と甘くなったものだな」
 前髪をかきあげて、シルヴィオは自嘲した。
「……、シルヴィオは、前から甘くて、とっても優しいよ」
 世間的には分からないが、彼は希有にとって甘くて優しい人だ。それは、出逢った頃から変わらない。
 あの牢獄で、もし、シルヴィオに出会うことがなかったのならば、希有に現在いまは存在しなかった。彼が希有に手を伸ばしてくれなければ、呼吸をすることさえ叶わなかったのだ。
「皮肉にしか聞こえないな」
「褒め言葉だよ。ねえ、シルヴィオ」
 一度だけ目を瞑ってから、希有は駆けてシルヴィオの前に回り込む。
 そっと、彼の手を取れば、虚をつかれたように彼は足を止めた。
「辛いことは辛いと、苦しいことは苦しいと言って」
 自然と、口元が柔らかく綻んだ。
 彼に伝えようと思っていた言葉は、希有の望むままに、心の中から湧き上がって来た。
 築き上げたいのは、甘えてばかりの一方的な関係ではなく、互いに甘えることのできる関係。守ってもらうばかりではなく、希有は彼を守ってあげられる人になりたい。
「あなた一人分くらい、……わたしにも、受け止められるよ」
 甘えて、縋りついて、それでも彼は受け入れてくれた。
 それならば、今度は、希有がシルヴィオを受け入れよう。
「あなたが思うほど、わたしは小さくない」
 シルヴィオが、泣きそうな顔をして希有の手に頬を擦りよせた。
「……、ありがとう、キユ」
 たとえ、彼の想いが希有の望むものでなくとも構わない。玩具に対するような愛着でも良い。
 この人が泣いてくれるならば、希有は何度でも魔法をかけてあげよう。ありきたりで特別ではない言葉を、何度でも囁いてあげよう。
「泣いてもいいんだよ、シルヴィオ」
 目を逸らし、逃げ続けていた希有を振り向かせてくれたのは、シルヴィオだ。
 いつか、彼が愛し、彼を愛してくれる人が現れるまで、希有は彼の泣き場所になろう。
 酷薄な魔法が解けて、この言葉に価値がなくなるその時までに、シルヴィオを守ってくれる人が現れてくれる。
 その時、希有は、笑って彼を送り出せるだろうか。


               ☆★☆★               


 しばらく、馬で二人乗りをした。
 初めて乗った馬は、ひどく乗り心地の悪いものだったが、我儘を言うものではないと口をつぐむ。
 どうやら目的の地についたらしく、シルヴィオは地面に降り立つ。続いて、希有も地に足をつけた。
 顔を上げた際に目に映る見知った建物に、希有は目を見開く。
「ここ、は……」
「手がかりは見つからなかった。だが、お前はもう一度ここを訪れるべきだろう」
「……、オルタンシアの、家」
 希有は、勢い良く走り出して、玄関の扉を開けた。
 広がるのは、一階の大部屋。あの時の面影は何一つなく、当然ながら、オルタンシアの死体は消え去っている。彼女の気に入りであり、最期の場所となったソファも廃棄されたのだろう。
 閑散とした部屋には、あの時の暮らしを彷彿とされるものは、何一つない。それでも、酷く懐かしく思えた。
 希有は一月ひとつきの間、魔女と呼ばれる女と共に、この家で暮らしていたのだ。
「オルタン、シア」
 喪われた人の、名を呼んだ。
 美しくも、無愛想な人だった。
 だが、時折、希有の言葉に返事をしてくれることが嬉しかった。ありのままで接してくれた彼女の態度は、何よりも希有を勇気づけた。
 あれは、いつだっただろうか。寝込んだ希有を、心配そうな瞳でオルタンシアは見ていた。
 思い返せば、彼女の不器用な優しさが、朧な記憶には溢れていた。
 どんなにオルタンシアが忙しそうにしていても、希有が空腹を感じると、いつも温かな食事が用意されていた。
 口を引き結んで、希有は俯く。シルヴィオは何も言わずに、いつの間にか隣に佇んでいた。
「……家族、みたいだった」
 オルタンシアと過ごした日々。
 希有が目を逸らさずに見つめていれば、そこに優しさは広がっていたのだ。
「言葉を交わすことも、少なくて……、触れ合う機会もほとんどなかった。だけど、ずっと、傍にいてくれた」
 会話が足りなかった。希有には、彼女の少ない言葉から、多くを読み取ることなどできはしなかった。そして、目を逸らし続けていた希有は、彼女の態度が物語る真実に、気づくことさえできなかった。
「打算で成り立っている関係なら、温かい食事を用意したり、体調を悪くしたわたしを世話したりしないのに。……、あんなに心配そうな目で、見たりしない」
 疑り深い希有が、信じることができなかっただけだ。
 心を閉ざして冷めた目で彼女を見ていたのは希有だった。オルタンシアは、いつでも希有に手を伸ばしていたというのに、その手を見ることもなく、希有は俯いていたのだ。
 彼女は、不器用なだけの、優しい人だった。
「どうして、オルタンシアは死んじゃったのかな」
 果てた彼女の姿は、今も脳裏に在る。
 忘れてはならない。
 何故、彼女が死なねばならなかったのか、いつか分かる日が来るだろうか。
「恨んでいないのかと言われたら、分からない。でも、きっと……嫌いだったわけじゃ、ない」
 隣にいるシルヴィオの服の袖を握りしめる。
 この世界に招かれてから、様々なことがあった。辛いことも、嬉しいことも、――かけがえのない出逢いもあった。
 すべての始まりを与えてくれたのは、この地に住んでいた魔女だったのだ。
「ごめんね、ありがとう……、それから」
 痙攣したように震える喉を諫めて、希有は大きく息を吸い込む。

「おやすみなさい。オルタンシア」

 あの日も今も、一筋の涙すら流すことはできなかった。
 涙を流すほどオルタンシアを知ることができないうちに、彼女は遠い場所に旅立ってしまった。
 秋風が、冷たく頬を撫ぜる。
 死後の世界など、信じたくない。
 それでも、無残な最期を遂げてしまった彼女の死後が安らかであることを、信じてもいない神に祈ってみる。
 これは、自己満足だ。
 だが、希有の気持ちが満たされれば、オルタンシアはきっと、かすかに微笑みを浮かべてくれるのだろう。
「……、行こう」
 一度だけ目を伏せて、希有は外へと歩き出した。