farCe*Clown

終幕 追憶で微笑む亡者 48

 王城に戻り、前と変わらぬ日々が流れ始めた。
 地球に帰るための有力な情報は何一つ集まっていない上に、半ば軟禁状態であることは相変わらずだが、公爵家にいた頃に比べたら精神的にも肉体的にも随分と楽だった。
 その理由は、シルヴィオが頻繁に会いに来てくれることが大きいのだろうが、それを認めてしまうのは、少し恥ずかしい。
 読んでいた本を閉じて、希有は苦笑した。
 勉学の面でも、文を書くことは相変わらず酷いものだが、最近では読むことに関しては大分上達してきた。地球とは文法などに若干の相違があるこちらの書物も、児童書以外でも読めるようになってきている。半年も勉強していれば当然なのだろうが、成果が出てきて嬉しい。
 読書は元々好きだったこともあって、わりと時間をかけずに本が読めるようになった最近では、部屋にいることを退屈だと感じることも、あまりなくなっていた。
「キユ様」
 声をかけられて顔を上げると、少しだけ困り顔のミリセントがいる。
「なに?」
「少し、よろしいですか?」
 希有は、彼女の言葉に頷く。
「今日の午後より、お客様がいらっしゃるそうです。陛下の許可は出ているので、お会いになってくださいませ」
「……、うん?」
 希有は首を傾げる。
 希有に会いに来る客人など、まったく心当たりがない。希有がこの世界で持った、ちゃんとした人間関係など、シルヴィオとミリセントの間くらいにしかないのだ。

 疑問の晴れないまま時間は流れ、午後になった。

「では、部屋の外にいるので、いつでもお呼びください」
 ミリセントが開けた扉の先に、見知った影を見つけて、希有は足を止めた。 満面の笑みを浮かべて振り返った少年に、思わず扉を閉めてしまったのは致し方ないことだろう。
「……幻。あれは、幻」
 第一に、彼がこの場所にいるはずがないのだ。
 扉の前で首を振っていた希有は、意を決して小さく扉を開ける。隙間から中の様子を覗こうとした瞬間、手首を掴まれ引きずり込まれた。
「キユったら、酷いね」
 艶やかな赤毛に独特の銀の瞳を細めて、少年は笑った。
「なんで、ここにいるの、……アル」
 呟いた希有に、アルバートは首を傾げた。
「だって、仕事場だもの。当然でしょう?」
「……、は?」
「あれ、キユは知らなかったんだっけ。僕、これでも城の侍医なんだけど」
「城の、お医者さん? だって、ローディアスに……」
「担当場所の移動までの休暇」
 確かに、アルバートは休暇の最中だと言っていた。
 しかし、まさか彼が公爵家の外で働いていたとは夢にも思わなかったのだ。いくら要らない子とはいえ、ローディアス公爵家が使える人材を手放すはずがないとも考えていた。
「城の侍医は高位の者の面倒を見ることが多いんだ。体調が悪い時って、心も無防備だし、自分の不調を治してくれる医者に本音を漏らす人間は結構いるよ」
「……、そう」
「まあ、それは僕が優秀だからなんだけどね」
「自分で言うこと?」
 アルバートが、今も五体満足で暮らしているということは、公爵家はアルバートのことを不問としたのだろうか。
 身内贔屓な処断であるが、当のシルヴィオがアルバートを咎めないのであれば、後は公爵家の好きなのかもしれない。シルヴィオ自身、赦さないとは言っていたものの、具体的に何か罰を与えるつもりはないようだったのだ。
 納得いかないが、希有が口を出すことではないのだろう。
 希有の視線に気づいたのか、アルバートは幼子のように頬を膨らました。妙に癪に障る態度だった。
「言っておくけど、……僕だって、何のお咎めもなしに職場に戻ったわけじゃないんだからね」
 希有は、相槌を打ちながら、小さく息をついた。
 アルバートに対しては、未だに複雑な思いを抱いている。正直、今、顔を合わせて会話しているのは夢ではないかと半分思っているのだ。思いの外、意識せずに会話を交わせているものの、やはり、彼が何をしたかを想うと複雑だった。
 それに、――中途半端にかき乱して別れてしまった分、筋違いな罪悪感もある。
 気付かれないように軽く拳を握ってから、希有はアルバートを見た。

「勘当されたよ」

 アルバートの唇からこぼれ落ちた言葉に、希有は思わず息を呑んだ。
「今の僕は、ただの侍医のアルバート。ローディアス公爵家とは、無縁の子どもになったってこと」
 早口で言って、アルバートは希有を見た。
「まあ、お優しい罰だよね。皆、莫迦、本当に莫迦でしょ。いっそうのこと、死んだ方が楽だと思うくらいの目に遭わせれば良かったのにさ」
 アルバートの横顔を見つめながら、希有の頭に一つの疑問が浮かび上がる。
「……、悲しくないの?」
 零れ落ちてしまった無神経な言葉に、希有は慌てて口元を押さえた。
 家族に愛されたいと願っていたアルバートが、家族に捨てられたことを悲しく思わないはずがないだろう。アルバートは、自分の望む者たちから愛されているシルヴィオへの嫉妬で、彼を裏切ったのだ。
「悲しく、ないよ。母様たちにとって、僕は簡単に捨てられる存在だって再認識できたから。初めから相手にもされていなかったのに、母様たちに多くを望みすぎて、勝手に失望していたのは僕だ」
 無理をして、アルバートは微笑む。
「同情は止めてね? 君は自分とシルヴィオのことで精いっぱいなんだから、他に構う余裕はないでしょ。……それなのに、中途半端に人に関わろうとするから騙されるんだよ」
「……、騙される?」
「シルヴィオは、君に酷い隠し事をしているよ」
 希有は目を瞬かせた後、小さく笑う。
「だから? 隠し事の一つや二つくらい、誰にでもあるよ。それを咎める権利なんて、わたしにはない」
 シルヴィオに、隠し事をするな、とは言えない。
 希有自身、話す必要のないこととして胸に秘めてることや、口にしたくない過去がある。シルヴィオはどんな希有でも受け入れてくれると思っているが、もしかしたら、過去を口にすれば嫌われるのではないかという一抹の不安が胸に巣食っているのだ。
 未だに、シルヴィオに打ち明ける決心のつかない罪がある。
 姉の未来を醜い嫉妬で奪った妹の話など聞かされれば、シルヴィオは、どのような反応をするのか。
「ひどい、隠し事なんだよ。……この先の身の振り方を考えるなら、オルタンシア叔母様の研究記録。読んだ方がいい」
 シルヴィオが情報を集めるのを、ひたすらに受け身に待つ希有にアルバートは警告する。
「城の第十三書庫の、この棚に叔母様の研究記録が納められている。シルヴィオも知らない場所だから、一人で見るんだよ。いいね?」
 渡された紙とアルバートを交互に見つめて、希有は困惑に瞳を揺らす。まるで、シルヴィオには黙って行動しろと言われているようだった。
 それに、何故、アルバートがオルタンシアの研究記録の場所など知っているのだ。
「職業が職業だから、僕は叔母様とは、わりと仲が良かったんだ。まあ、向こうは僕に対して大した興味は持っていなかっただろうけど」
「本人から、教えられていたの?」
「……うん、そんな感じかな」
 言葉を濁して、アルバートは続けた。

「忘れないで。シルヴィオは、とっても嘘つき・・・なんだ」

 アルバートの言葉に、希有は訝しげに目を細めた。
「……わたしは、シルヴィオほど誠実な人間を知らない」
 性悪と呼ぶしかない一面もあるが、彼は希有に対して不誠実だったことは一度もなかった。いつも真剣に向き合ってくれていた。
 アルバートは鼻で笑った。
「誠実なんて、あいつには似合わない言葉だよ。良くも悪くも狡猾こうかつなんだ」
 ソファから立ち上がって、アルバートは帰り支度を始める。
「元々、希有に会うつもりはなかったからね。怒られないうちに、さっさと帰るよ」
「……、アルが、わたしの客人じゃないの?」
「客人? 僕は、仕事のついでに寄らせてもらっただけだよ。侍女のお姐さんたちの健康調査。あと、何人か様子を見に来なくちゃ駄目な人たちもいるしね」
 それならば、希有と面会したいと言った客人は、誰なのだろうか。
「ねえ、キユ」
 希有が眉をひそめていると、不意にアルバートが言った。
「シルヴィオはね、欲しいものを手に入れるためなら手段は選ばない。どんな手を使ってでも傍に置こうとする。あんなお綺麗な顔しているから淡白そうに見えるけど、実際は執着心と独占欲の塊だ」
「……、はい?」
「たとえ、嫌われることになろうとも、……あいつは、手に入れるためならその道さえ選んでしまう莫迦だ」
 希有がアルバートの言うことを理解できないまま首を傾げると、彼は複雑そうな顔をする。
「何も、分かってないでしょ。だから、僕はとても怖い。このままだと、君が泣く破目になることなんて、分かっているから」
 アルバートは寂しげに笑って、希有の両肩に手を置いた。
「もっと早く、君に会いたかったなんて言わない。僕は、不利だなんて思いたくないから」
「不利? さっきから、何の話を……」
「これは、……あいつに対する羨みの延長戦上にある想いだ。だけど、僕は、まだ子どもだから、そんな嫉妬心からの想いも有りだと思うんだ」
 アルバートは身をかがめて、希有の頬に口付けた。
 柔らかな感触に希有が目を見開くと、悪戯が成功したようにアルバートは口元を釣り上げる。
 頬を手で押さえた希有に、アルバートは笑んだ。
またね・・・
 そして、アルバートが部屋を出ていこうとした矢先に、扉が開く。
 そこには、数日前に別れたヴェルディアナが、エルザと思わしき女を引きつれて佇んでいた。
「……、アルバート」
 アルバートの姿を目にして、ヴェルディアナの表情が歪んでいく。それを見たアルバートは顔を伏せて歩き出した。
「こんにちは、ローディアス公爵・・・・・・・・。……、失礼します」
 すれ違う瞬間、震えた声でアルバートは言い切った。
 去っていくアルバートの背中を、茫然とした様子で見つめるヴェルディアナ。アルバートがヴェルディアナを振り返ることは、ついにはなかった。
 気まずい空気を打ち破るように、希有はヴェルディアナに声をかける。
「今日は、公爵家の方々の訪問が多いですね」
「――、あれはもう……、公爵家の人間ではない」
 明らかに動揺し声だった。自らが捨てた弟の姿を見て、彼は何を思っているのだろうか。
「それで? 用件はなんですか? 今さら、私に何か用があるとは思えませんけど」
「これを渡すように、母上から頼まれた」
 ヴェルディアナは、懐から一つの鍵を取り出した。
「この鍵は、ある部屋を開けるためのものらしい」
「ある部屋? それは、何処にあるんですか」
「残念ながら、私もその部屋が何処にあるかは知らない。シルヴィオも、知っているか怪しいところだな。母上も正確な場所は忘れてしまったらしい。だが、……おそらく、異界の娘ならば、その部屋に辿りつける」
「ベアトリス様は、どうして、そんな部屋の鍵を、わたしに?」
「この部屋の主は、貴方を待っている。――母上は、そう仰っていたよ」
 受け取った鍵を握りしめて、希有は顔を歪めた。
 情報が少なすぎて、何一つ理解できない。それに、希有を待っているとは、どういう意味だろうか。
「用件は済んだ。私は、失礼しよう」
「ヴェルディアナ様」
 部屋から出て行こうとするヴェルディアナたちに、希有は気づけば口を開いていた。
 何処に開けるべき部屋があるかも分からない鍵のことなど、希有にとっては、重要なことではない。
 それよりも、気になっていることがある。
「随分と、……甘い罰でしたね」
 希有の言葉に、ヴェルディアナが足を止めた。
 ヴェルディアナが、何故、アルバートに勘当と言う形の罰を与えたのかは分からない。
 アルバートは、公爵家に殺されても不自然ではないことを行った。シルヴィオが公爵家の宝であるならば、その宝を傷つけたアルバートを、彼らは決して赦しはしないはずだった。
 希有とて、アルバートの対する感情は、未だ複雑でもあるのだ。
 それを、勘当という甘い処罰で済ませたのは、ヴェルディアナなりの情けのつもりなのだろうか。処罰を下したのは、おそらく、ベアトリスではなく当主である彼のはずだ。
「……、こちらの問題だ。貴方に口出しされる謂れはない」
「口出ししたつもりはありません。少し、気になっただけです」
「気になった程度で、人の中に踏み込まないでほしい。どうせ、最後まで付き合う気などないだろうに、……気紛れを起こさないでくれ」
 苦虫をつぶしたような顔をするヴェルディアナに、希有は何も言わなかった。彼の語ることは、すべて真実だ。
「だから、私は貴方が嫌いなんだ」
 嫌われているのは知っていた。好かれているなどと思ったことはない。
「……、知っています」
 ヴェルディアナのあからさまな態度に気づけないほど希有は鈍くない。相手が自分に対してどのような感情を抱いているか判断することは難しく、希有には上手くできないが、ヴェルディアナのような明確な態度ならば話は別だ。
「だって、貴方が好ましく思い、愛するのは、己の居場所を脅かすことのない者だけでしょう? お綺麗で儚い者や、シルヴィオ様のような存在だけ」
 ヴェルディアナ・ローディアスが愛するのは、己を害することのない存在だ。
 未だ幼いラシェルや無力なお姫様フローラ、そして、王であるシルヴィオをヴェルディアナは愛することができる。彼らは、ヴェルディアナが過ぎた真似をしなければ、彼の居場所を脅かすことがないからだ。
「臆病な人」
 アルバートは、違った。
 ヴェルディアナが過ぎた真似をしようがしまいが、アルバートにとって、ヴェルディアナは公爵家の当主として憎い相手に変わりはなかった。
 そのことを、ヴェルディアナは感じ取っていたのではないだろうか。感じ取っていたのだが、己にとって脅威となり得るアルバートを恐れるあまりにヴェルディアナは手を出すこともできなかったのだ。自分を憎む弟に手を出せば、何が起こるかも分からずに怯えていた。
 彼は、アルバートに対して、何もしなかった。ただ、時間が徐々に彼の道を絶たせることを待つしかできなかったのだ。
「……、手の届く弱いものだけを愛することは、そこまで非難されることなのだろうか。己の存在を脅かすであろう弟を厭うのは、褒められたことではないと紛糾するのか?」
「アルの存在は、貴方にとって脅威かもしれない。でも……、アルは、きっと、あなたたちを大好きなんですよ」
「何を、莫迦なことを。あれは公爵家を恨んでいる」
 希有は首を振った。
「どんなに疎まれて厭われても、憎しみを抱いても……それでも、嫌いになれない存在はあるんです」
 かつて、希有があの子に対して抱いていた想いは、それだ。
 嫉妬して憎しみを向けて、あの子を死に追いやってしまった。だが、昔も今も、希有は美優のことが嫌いではない。
 都合のよいことだが、今でも、大好きであることに変わりはない。
 どれほど憎んでいても、愛していたのだ。
 たった一人の、大切な片割れだった。
「……あるんです、そんな存在が」
 アルバートが求め続けていたものは、家族だ。
 気にかけてほしい、特別に思ってほしい、抱き締めてほしい。子が母を慕うのは当然で、血を分けた兄と姉を拠り所にしようとするのは、ごく自然なことだった。
 大好きだから、好きになってもらいたかった。憎く思おうとも、嫌うことなどできなかったのだ。
「気にかけてあげてください、できることなら、愛してあげてください。どんなに強がっても、まだ子どもなんです。……、アルは貴方やラシェル様の場所を、奪ったりしない」
 アルバートが求めていたのは、地位ではない。
 その地位にいれば、愛してもらえると思っていたからこそ、羨ましがっただけだ。そうして、彼は苦しみから放たれることを望み、シルヴィオを裏切る道を選んだ。
 顔を歪めたヴェルディアナに、希有は目を見張る。
「……、今さらだ。期待や愛情など、注がれぬ方がいいと、私は思っていた」
 ヴェルディアナは切なそうに目を伏せた。
「きっと、その方が幸せだ」
 断言する彼の唇は、かすかに震えていた。
 遠まわしで回りくどい、それは愛情と呼ぶには拙さすぎる複雑な心だ。アルバートは思われていた。それはアルバートの望む形ではないが、それでも、彼は誰かに大切にされていた。
 ただ、歯車が噛み合わなかっただけなのだ。最初から、噛み合わせる気は、ヴェルディアナにはなかった。
「アルの気持ちも、シルヴィオの気持ちも、分からないわけではない。それを認めることは、私の道を曲げることに繋がるからこそ、否定するしかないだけだ」
 ヴェルディアナがアルバートに己の心を伝える日は、来ないだろう。
 アルバートは、不器用で分かり難い想いを知らずに生きていく。
「私は、私の正しいと思うことをする」
 それこそが、ヴェルディアナの正しいと思う道。彼の考える正義だ。
 そのためならば、彼は何をしても、罪だとは思わない。
「誰を傷つけることになろうとも、私は私の愛する者たちの幸せを優先する」
 ヴェルディアナの横で何も言わないエルザに、希有は視線を移す。エルザは軽く目を伏せて、わずかに唇を噛んでいた。
 ヴェルディアナの愛する彼女・・は、永遠に表舞台に上がることはない。
 既に亡くなっているヴェルディアナ・ローディアスの妻がラシェルの母親かどうか、真相は闇の中に葬られる。
 三人の間に何があったのかまでは、希有の知るところではない。
「望む形で手に入らずとも構わない。傍にいてくれるならば、――他に何がいるというのか。故に、私はシルヴィオの気持ちが分かるのだろうな」
「……え?」
「シルヴィオは、貴方さえいれば他はもう要らないらしい。あの娘でもなく、悔しいことにフローラでもなく、――貴方に傍にいてもらいたいとシルヴィオは願ってる」
 ヴェルディアナとしても、公爵家としても、シルヴィオの傍には、フローラ・ローディアスを居させてあげたかったのだろう。このように思うのは傲慢かもしれないが、ヴェルディアナが公爵家で言ったとおり、その場を希有が奪ってしまった。
 ローディアス公爵家が恐れているのは、きっと、この世で最も制御し難く狂おしい想い。
 すなわち、恋情だ。
 希有は苦笑して、ヴェルディアナを安心させるように言う。
「わたしは、いつか、……帰ります」
 希有は、いつか必ず日本に帰る。
 未だに手掛かりの一つも掴めていないが、帰らないわけにはいかない。どれほどこちらの居心地が良くとも、希有の居るべき場所は地球だ。
 盗蜜者に残ることなど、赦されない。
「その時には、彼はきっと特別な誰かを見つけらているはずです。それが誰なのかは分かりませんけど、時が来れば確実に、わたしは不要になる」
 与えられた言葉が特別なものではないことに気づく日が、そう遠くない未来に訪れるだろう。
 希有と同じような言葉を、彼を愛する者が囁く日が来る。その瞬間に、希有の言葉の酷薄さに、シルヴィオは気づくはずだ。
「だから、安心して下さい。貴方が危惧する万が一など、起こるはずない」


               ☆★☆★               


 王城からの帰路、馬車の中で、ヴェルディアナは大きく溜息をついた。思い浮かぶのは、寂しげに微笑んだ黒髪の少女だ。
「その特別な誰かが、貴方になる可能性だってあるだろうに」
 少女の描く未来は、シルヴィオの隣に並ぶものではないのだろう。そのような未来は諦めようとしているのだ。
 しかし、王であるシルヴィオが望めば、その未来は実現することを彼女は知らない。
 彼女は自分が置かれている状況にさえ、気づいていなかった。少女に一切の言葉を伝えることなく、シルヴィオは全てを根回していたのだ。相変わらず身勝手なことだが、実に彼らしい行動だ。
「鈍い人ですよね。見ていて苛々します」
 隣で毒を吐くエルザの頭に手を置いて、ヴェルディアナは苦笑した。
 出逢った頃から今に至るまで、ヴェルディアナの傍にはエルザがいた。誰よりも身近にいた愛する者のことくらい、ヴェルディアナにも分かる。
「だが、気に入っていたのだろう? ――少し、似ている」
 誰に似ているかなど、口にする必要はなかった。その女は、二人の中にかけがえのない者として刻まれている。
「ルディ様は、……たまに無神経ですよね」
 二人の追憶で、美しい女は幸せそうに微笑んでいるのだ。
 ヴェルディアナとエルザの幸せが自分の幸福だと言った女は、優しい微笑みを湛えているに違いない。
「……、そんなところも、愛しちゃってますけど」
「それは嬉しい言葉だな」
 決して忘れることのできない、二人にとって大切な人。
「あーあ。結局、空回りしただけでしたね。ベアトリス様の考えは的外れ。シルヴィオ様はオルタンシアが連れてきた少女の代わりに、キユ様を望んだわけじゃなかった」
 エルザの呟きに、ヴェルディアナは目を伏せた。
 記憶によみがえるのは、オルタンシアが蜜腺から連れてきた、二年前まで公爵家にいた少女。純白の笑みの中に確かな闇を携えていた彼女は、シルヴィオを惑わす邪魔な存在だった。
 だが、その少女の腐敗した死体を見た時の、言い知れない後悔を鮮明に憶えている。
 それは、シルヴィオに芽生えかけていた淡い想いが、残酷な形で摘み取られた瞬間だった。
「何者にも、代わりは存在しない。似ていたところで別のものだ」
 異界から盗まれてきた娘たちは、重なり合うように類似していた。シルヴィオの傍に身を置く境遇も、彼の心に枷なしに触れて行く姿さえ、ヴェルディアナにはすべてが同じに見えたのだ。
「でも、割り切ってみることができる人は稀なんですよね。少なくとも、ルディ様には無理だった、と」
 割り切ってみることなど、できるはずもなかった。
 希有の顔を見る度に、死した少女の無残な姿が脳裏に浮かぶのだ。
「……、今日はやけに口が過ぎるぞ、エルザ」
「それは、失礼しました」
 エルザは愛らしく装った顔で、可憐に笑った。