farCe*Clown

終幕 追憶で微笑む亡者 49

 昼下がりの執務室。
 己の仕事がひと段落つき顔を上げたセシルの目には、黙々と作業をする美しい男の姿が映っていた。
「……、この間は、勝手に王城を抜け出して何を考えているんですか」
「書き置きは残しただろう。それに、休みだったと記憶している」
「お休みになられるようには言いましたけど、王城を出るならば、一言、声をかけてください。……お迎えに行きたいお気持ちは分かりますけど、書き置き一つでいなくなられたら、堪ったもではありません」
「言えば、お前は止めただろう? 王らしく、ないと。俺自身もそう思っているからな」
 肩を竦めたシルヴィオに、セシルは溜息をついた。
「貴方様が王らしくないのは、前からでしょう」
 頬を引きつらせたセシルに構わず、シルヴィオが不意に言った。
「……、随分と、甘い手を使ったな」
 セシルは、シルヴィオが何について言っているのか気付いて、口を開く。
「始末しろと言われましたが、殺せとは言われてませんでしたから」
「良い性格をしている」
 言い捨てたシルヴィオに、セシルは渋い顔をする。
「あまり性急に処理されると、貴方様の評判も悪くなります」
 シルヴィオ・リアノの始点は、他の王よりも足場の悪いものだった。彼がそこから這い上がっていくためには、幾重にも努力を積み重ねていかなければならない。些細なことで足を掬われてしまえば、堪ったものではない。
「良き王になってもらうためにも、ご自分で危うい位置に立たれては困ります」
 王であれば構わないなどという思いを、セシルは認めるつもりはない。
陛下・・
 セシル・ソローは、目を丸くしたシルヴィオに苦笑した。
 優しい微笑みを向けてくれた、あの人の息子。
 ただ、記憶力が良いだけの平凡な人間に、温かな手を伸ばしてくれた人の血を継いだ青年だ。
 セシルは、先王の支えにはなれなかった。盲信して、彼の願いをすべて叶えるだけだった。彼が善人であろうとするが故に払われていく犠牲に、見て見ぬふりをしていた。
 今ならば分かる、それでは、とても宰相などとは呼べない。
 この先進む道は、決して綺麗なものばかりではないだろう。セシルは国の暗部から目を逸らし続けていたが、これから照らしていく闇に向かうためには、目を逸らしてはいけない。
 今は、まだ完全には浮き彫りにはなっていない。だが、セシルが思っていたよりも、ずっと、この国は腐っているのだろう。
「貴方様のために、微力ながら、お手伝いさせていただきます」
 シルヴィオを素晴らしい王とすることが、セシルがなすべきことだ。
 それこそが、あの人の遺志なのだと信じている。
 未だ、この美貌の王に先王に対するような忠は誓うことができないが、この道がセシルが進むべき道であると決めた。
「貴方様の厳しさと、私の甘さを足したら、丁度良くなると思いませんか?」
 真剣な眼差しを向けるセシルに、シルヴィオは捻くれた笑みを浮かべた。
 これから、リアノは生まれ変わらなければならないのだ。


               ☆★☆★               


 一人きりの浴室で、希有は小さく息をついていた。
 リアノは希有にとっては、驚くほど過ごしやすい場所だ。季節や生活習慣なども、さほど地球と――日本と変わりはしない。
 ――、あまりにも都合が良すぎて、怖くなる。
 この地には、希有の望むものが揃っているのだ。
 口には出せなかったが、長い間望んでいたのは、温もりを与えてくれる人だったのだろう。
 独りが寂しかった。それが当然だと思っていても、楽になりたかった。
「……、自分勝手」
 甘やかして抱き締めてくれる人を、身勝手にも求めていたのだ。
「キユ様」
 浴室の外から聞こえてきたミリセントの声に、希有は顔を上げる。慌てて、今まで考えていた思考を振り払う。
「お召し物のご用意ができました。そろそろお上がりになられないと、逆上せてしまいますわ。何かお困りでしたら、私がお手伝いを……」
「大丈夫。今上がるね」
 世話をしてくれるのは嬉しいが、入浴くらい一人でも可能だ。ミリセントが浴室まで入ってしまえば、何度もミリセントを説得した苦労が、水泡に帰してしまう。
 自分の貧相な身体を、他人に晒す事態は避けたい。
 温かな湯に使っていた身体を起こして、希有は浴槽から出た。浴室に取り付けられた鏡の前で、希有は足を止める。
「……、傷?」
 あまり豊かとはいえない胸元にある憶えのない傷痕に、希有は首を傾げる。
「キユ様?」
 ミリセントに名を呼ばれ、希有は慌てて浴室を出る。このままでは、心配した彼女が浴室まで入って来かねない。
 急いで寝巻に着替えて部屋に戻れば、ミリセントがゆっくりと近づいてくる。
「ふふ、乱れていますわ」
 希有の寝巻の乱れを直しながら、ミリセントは笑う。
「御髪を整えましょう。こればかりは、私にやらせてくださいませ」
 希有は小さく頷いて、鏡台の前に腰掛けた。
 ミリセントは櫛を取り出し、未だに濡れた希有の髪を丁寧に梳かしていく。
「キユ様の御髪は、本当に美しいですわ」
「……、ありがとう。でも、ミリセントの髪の方が綺麗だと思う」
 髪だけではないのだ。その心根も、ミリセントの方が、よほど希有より美しい。
「私には勿体ないお言葉ですわ」
 それ故に、思ってしまうのだ。
 たとえば、彼女がこの地に生まれた時からいなければ、もっと相応しい場所があったのではないだろうか。
 考えても埒が明かないことが心に浮かび、気づけば希有は口を開いていた。
「ねえ、ミリセント。無神経な質問だと思うけど、……聞いても良い?」
「……? どうぞ」
「生まれた時から、道が決められているのは、どんな気分?」
 希有の言葉に、ミリセントは困ったように苦笑した。
「……、私はこの道しか知りません、この道こそが幸せなのだと思っています。他に、幸せがあるのだとしても、今の私が選ぶことはないでしょう」
 ミリセントは、穏やかな口調で続ける。
「私もまた、臆病なリアノの民。今在る幸せを手放してまで、あるかも分からない不確かな幸せに手を伸ばすことはできません。……、それに、今はキユ様のお傍を離れてまで、見つけたいものなどありませんわ」
 微笑んだミリセントに、希有は気にかかっていたことを口にした。
「ミリセントは、……どうして、わたしに優しくしてくれるの?」
 与えられる優しさが少しだけ怖くもあって、内に閉じ込めていたはずの希有が、いつの間にか顔を出してしまう。
「大好きだからですよ、キユ様」
 裏表など微塵も感じさせない声だった。
「好きな人には優しくしてあげたいと、心から思いますでしょう?」
 ミリセントの言葉に、希有は目を閉じる。
 ――、希有は、大好きだったあの子の手を放した。
 あの日の、美優の微笑みはいつも心に在る。
 一瞬の絶望を閉じ込めて、直ぐに戻るという希有の言葉に、微笑みながら彼女は頷いた。あの子は聡明そうめいだった。希有が山奥にあの子を置き去りにしようとしていたことに、もしかたしたら、気づいていたのかもしれない。気づいていながらも、優しい彼女は受け入れてれたのだろう。
 時間が思い出が美化するなど、戯言だ。思い出を美化して、罪から目を背けていたのは希有だった。
 犯してきたことは、何一つ消えない。
 償いなど何処に存在する。
 あの子はもう、いないというのに――。
「……、そうだね」
 それでも、何の罪滅ぼしにもならないと分かっていても。
 あの子に似たシルヴィオに、優しくしてあげたいと思っても構わないだろうか。
「わたし、シルヴィオが好きだな」
 希有は、シルヴィオが好きだから、彼に優しくしてあげたい。
 温もりを与えてくれる人。
 彼が微笑む度に、心の奥に灯る温かな感情は、間違いではない。
「好きだから、優しくしてあげたいと思うんだよね」
「ええ」
「まだ、間に合うかな」
「零れ落ちたものはあるかもしれませんが、これから掬えるものも、……必ずあると、私は信じています」
 口元を綻ばせた希有に、ミリセントは内緒話をするように囁いた。
「私、昔は悪い子だったのですよ」
「……悪い子?」
「はい、キユ様にはとても言えないようなことを色々と。その時、痛いほど知ったのです。人を傷つけることが、傷つけられて失うことが、どんなに辛いものなのかを思い知りました」
 ミリセントが何をしてきたのかは希有には分からない。彼女も、詳しいことを語るつもりはないのだろう。
「あの日、……気を失ったキユ様の身体を清めたのは、私でした」
 それは、希有が処刑されそうになった日のことだろう。目が覚めた時、身体は綺麗になっており、丁寧な治療も施されていた。希有が目覚めるまでの世話をしていたのは、ミリセントだったらしい。
「胸が痛かったのです。どうして、こんなにも小さな人が傷つかなければならないのか、……私が失ってしまったものを思い出して、酷く、身勝手な同情を抱きました」
 愛しい者を思い出すようにミリセントは瞳を閉じた。
「私にできることなど、多くはないでしょう。ですが、キユ様が傷つかぬうに守ってさしあげたいと、思いました。陛下に命を出されたとき、本当に嬉しかった。私は、望んでキユ様のお傍にいます」
 微笑んだ彼女に、母の面影が重なった。
 生みの母は希有を厭わしく思っていただろう。劣等感ばかり刺激する愚鈍な娘を、憎んでさえいたかもしれない。
 だが、ほんの少しでも、愛してくれていたのならば、どれほど良いだろう。
 少なくとも、この世に生みだしてくれた瞬間だけは、彼女はきっと希有を愛してくれていたはずだ。
 この名は、皆から特別愛されるように、稀有けうな力を持った子になれるようにと、母がつけてくれた名前だと聞いている。
 名に課せられた期待に応えることはできなかったが、名に籠められた愛情はあるのだと、希有は思いたい。
 顔も良く思い出せない母を思い出して、希有は小さく微笑んだ。