farCe*Clown

第三幕 砂中で生まれた子どもたち 70

 サーシャが口にした不穏な言葉に、その場の者たちが息を呑んだ。
「……ご冗談にしては、度が過ぎます」
 辛うじてシルヴィオが返すと、サーシャは口元を歪めた。
「妾は冗談は好かぬ。今までリアノはすべてを独占してきたのだ。少しくらい分け与えてくれても構わぬだろう。我らが喉から手が出るほど欲しい資源――繁栄を約束された泉が、リアノにはある」
 彼女は鋭い眼差しでシルヴィオを睨みつけた。ヴェールを取り払っているためか、彼女の切れ長の瞳に宿る怒りがありあり伝わってきた。
「蜜腺は、そのような都合の良いものではありません」
 シルヴィオは顔をしかめ、首を横に振った。
 彼は王の落胤として異母姉であるベアトリスに育てられ、オルタンシアとも深い関わりを持っていた。この場にいる誰よりも、蜜腺の与える恩恵と悲劇を理解している。
「戯言を。蜜腺さえあれば我らは楽に生きることができた。男神は残酷だ。真に必要としている者には、決して恩恵を与えてくれないのだから」
 声を震わしたサーシャは、おもむろに自らの唇に手をあて、細い指先に歯を立てる。零れ落ちた赤い血と共に、甘ったるい強烈な香りが鼻をくすぐった。
「この程度の権利があったところで、妾は枯れていく国を救えない」
 シルヴィオが怪訝に目を細めた、次の瞬間だった。
 周囲に控えていた重臣や国軍の者たちの身体が、一斉に弛緩し、椅子から崩れ落ちる。受け身も取らずに床に倒れ込んだ彼らの目は焦点が定まっていなかった。
「……っ、大丈夫ですか!」
 微動だにしない彼らに声をかけるが、聞こえているかどうかも分からない。ひたすらに恍惚するだけの虚ろな表情に、希有の背筋は粟立った。
 異様な光景の中、希有はシルヴィオに視線を遣る。他の者たちと違って彼は意識を保っているらしく、険しい顔でサーシャを睨みつけていた。
 咄嗟の判断で、希有はシルヴィオの傍に駆け寄った。他の人々の容体は気になるが、おそらく原因であるサーシャをどうにかしない限り彼らは回復しない。
 サーシャの後ろに控えていた男たちが剣を抜く。彼らは刃を周囲に向けて彼女を守るように陣を組んでいる。彼らの口元に巻かれた布の意味を、希有はようやく知った。
 ――初めから、サーシャは会談などするつもりはなかったのだ。
「同性もだが、……やはり、同じように権利を有した王には効かぬか」
 蟲惑的な赤い唇を釣り上げた彼女に、希有は拳を握った。
 サーシャの台詞は、彼女こそがレイザンドの女王足る資格を持った存在だということを示していた。
「お前は第一王女で、王位は第二王女が継いだはずだ」
「だが、権利を持っているのは妾だ。権利を持っている者が王となる必要などない。そんな古臭い形骸化した仕来たりに従わずとも、結果的に国の利益に繋がれば良いのだから」
 平然と型破りな所業を口にしたサーシャに、希有は唇を噛みしめた。彼女が口にしたのは、始めから考えようとすら思わなかったことだ。
 ――世界から権利を賜った者が王となる。
 その者以外が王となることなど、あり得ないと端から決めつけていた。
「それは、……貴方たちの信じる神への冒涜ではないのですか?」
 喉の奥から絞り出すように零した希有に、サーシャは目を丸くして大きく肩を震わした。
「レイザンドが崇める神など気紛れな世界のことだ。ラドギアの女神も同じ。神は我らに味方しないと言うのに、今さら冒涜も何もあるものか。――それに、レイザンドの血は一度穢れている。冒涜なら、とうの昔になされた」
 レイザンドの血を穢した存在を希有は知っていた。
 リラ。サーシャの異父兄は、男神の花嫁だった前女王がカルロスとの間に設けた子どもだ。神の花嫁が産み落としてしまった、人の子である。
「なあ、シルヴィオ・リアノ。血を穢して二つの蟲を混ぜたならば、どうなるのだろうか」
 サーシャは銀色の髪をかきあげ、切れ長の目を細めた。
「ラドギアの少年王は蟲毒こどくと言っていたよ。あちらの世界の呪いの名らしい。蟲が互いに喰らい合えば、残った蟲はより強力なものになるだろう」
 立ち上がったサーシャが、ゆっくりと希有たちに歩み寄る。彼女はシルヴィオに向かって手を差し出した。
「我らが手を組めば、悪政に揺れるラドギアを討つことなど容易い。――共に繁栄の道を歩もうではないか」
 それは、疑問の形を取りながらも、否定を赦さない響きを孕んでいた。希有は一歩も動くことができず、立ち尽くしてしまった。
「シルヴィオと、貴方の間に、子どもを……? 同じ、ことを繰り返すの?」
 悪い夢を見ているかのようだった。サーシャは再び繰り返そうとしているのだ。かつて彼女の母が犯した過ちを紛糾しておきながら、自らも同じことをなそうとしている。
「それが国のためならば、妾は迷わない。ああ、勘違いをするなよ、シルヴィオ・リアノ。これは提案ではなく、決定事項だ」
 戦も辞さない、と口にしたサーシャの言葉が、真実であるかどうかは知らない。だが、この場で、それだけのことを口にした意味が分からぬほど幼くはない。
 どのような手段を使っても、彼女たちは望みを叶えるつもりなのだ。
 希有は不安げにシルヴィオの顔を見上げた。
 脅しに屈することは、すなわち、レイザンドに頭を垂れることを意味する。だが、抵抗したところで、今のリアノに戦をする力があるわけでもない。
「リアノが、……この臆病な国が望むのは、安寧だ。潰し合うならば、レイザンドとラドギアで勝手にしろ」
 シルヴィオの硬質な声が広間に強く響いた。彼からの拒絶に、サーシャはわずかに眉をひそめた。
「レイザンドと国交を繋ぎ直しラドギアと敵対しても、リアノに益はない。災いを呼ぶ過ぎた力など不要だ」
 ――それは、一瞬のことだった。
 サーシャは身を乗り出して、シルヴィオの唇に自らのそれを重ねた。場違いなほど情熱的な口付けに、彼の身体はかたまり、希有は小さく悲鳴をあげた。
 シルヴィオは、渾身の力を込めてサーシャの身体を突き飛ばした。
「……っ、何を」
「いや、なに、気が変わるかと思ってな。妾では満足できぬか? それなりに上等な方だとは思うのだが」
 からからだと笑う彼女の顔は、先ほどまでと異なり、妙に上機嫌だった。要求を撥ね退けられたにしては、あまりにも表情や仕草が凪いでいる。
「はっ、……お綺麗ですよ。趣味ではありませんが」
 唇を手の甲で擦りながら、シルヴィオが吐き捨てる。
「ああ、失念していた。貴殿は幼子の方が好いているのだったな。それでは、妾では敵わないな」
 あからさまな侮辱にシルヴィオがわずかに肩を揺らすが、希有は何とも思えなかった。侮辱されたことよりも、何故、彼女が今そのようなことを口にしたのかが気にかかる。
 まるで、何かの時間を稼ぐような――。
 希有が思い至った時、突如、シルヴィオは身体の均衡を失くして、崩れ落ちるように片膝をついた。
「シルヴィオ!」
 近寄ろうとした希有を、サーシャが瞳で制した。希有は反射的に怯んでしまい、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「権利は効かずとも、毒なら多少は時間稼ぎになるか。手荒な真似はしたくなかったのだが、仕方がないな。赦せ」
 顔を歪めたシルヴィオを前に、サーシャは腰元から一本の懐剣を取り出した。
「愚王であったならば、妾たちは喜んでお前を擁護しただろうに。あるいは、妾たちを拒まない賢王であれば。……ほんに、残念で仕方がないよ」
 そうして、彼女は勢い良く刃を抜いて振りかざす。鈍色に光る刃が紛うことなくシルヴィオの首筋に向けられていることに気づいて、希有の顔から血の気が失せた。
 シルヴィオは、身をよじらせるだけで大きくは動けずにいた。
 希有の頭を駆け巡ったのは最悪の未来だった。戦も辞さないと口にしたサーシャにとって、シルヴィオを仕留めるのは今であっても構わないのだ。彼を殺して、このままリアノの中枢を乗っ取るだけの準備も、既にしてあるのかもしれない。
 その未来を招きたくなくて、希有は怯える身体を勇め、シルヴィオの身体に体当たりをした。
 目を見開いたシルヴィオが、希有の名を叫んだ。だが、応えるよりも先に腹部に鋭い痛みが走る。視界が一瞬真っ暗になるが、歯を食い縛って希有は意識を保った。
 驚きに目を見張るサーシャに向かって、必死で手を伸ばした。剣を握る彼女の手首を握り締める。ほんのわずかで構わない、時間を稼がなければならない。
 ――シルヴィオなら、きっと、応えてくれる。
 立ち上がったシルヴィオが剣を抜く姿が、希有にははっきりと見えた。
 動揺するサーシャの肩を乱暴に掴んで、彼は瞬く間に彼女の身体を抱きこんでしまう。
 サーシャの手を離して床に倒れ込んだ希有は、震える手を腹部に宛てる。生温かな血で滑った傷口を押さえ込みながら、荒い息を吐き出した。堪え切れない涙が次から次へと零れ落ち頬を濡らしていたが、気絶だけはしていはいけない。
「動くな」
 サーシャの首に剣を宛がって、シルヴィオは底冷えするような声で言い放った。シルヴィオ越しに見たレイザンドの兵は、サーシャを人質にとられて動きを止めている。
 希有を背に庇って、シルヴィオはレイザンドの者たちと対峙していた。
「……妾を殺せば、レイザンドは黙っておらぬぞ」
 サーシャの震える声が、激痛に支配される頭の中に、やけに強く響いた。
「黙れ! このような真似をしておいて、無事に国に帰れると思うな。お飾りの女王に、お前の首を送りつけてやる」
 激高したシルヴィオは、いつもの冷静さを欠いている。
 希有は崩れ落ちた身体を奮い立たせて、縋りつくように彼の足首を掴む。呼気は獣のように荒く、舌は痺れたように上手く動かせない。
「シルヴィ、オ」
 それでも、希有は彼の名を呼ぶ。
 いくら仕掛けたのがサーシャとはいえ、ここで彼女を害すれば、必ず争いの火種となる。それでは、リアノが望む安寧は手に入らない。怒りに身を任せた先に待ち受ける未来など、シルヴィオを苦しめるだけだ。
「シルヴィオ」
 希有は最後の力を振り絞って、もう一度彼の名を呼ぶ。言葉にならなくても、どうか伝わってほしい。
 倒れ込む希有の姿を目にしたサーシャが、唇を戦慄かせて目を伏せた。
 その時、室内を包みこんでいた緊迫感が、糸が切れたようになくなった。不自然な静寂は消え失せ、床に崩れ落ちていた人々が正気を取り戻して当たりを見渡す。
「……っ、早く、こいつらを捕らえろ!」
 茫然としていた国軍の者が、シルヴィオの一喝によって動き出す。

 喧騒を耳にしたのを最後に、希有の意識は闇に落ちた。