farCe*Clown

第三幕 砂中で生まれた子どもたち 71

 暗い水底に沈んでいた意識が引き摺り出される。ぬるま湯に浸かり揺蕩うような感覚の後、希有は目覚めを迎えた。
 視界には見慣れた寝台の天蓋が広がっている。身体は鉛のように重たく、頭は冴えわたらない。だが、指先にある温もりに気づくことはできた。
 ――誰かが、手を握ってくれている。
 ゆっくりと横を向けば、希有の手をとって眠る男がいた。椅子に腰かけている彼は、希有と手を繋いだまま寝台に突っ伏していた。
「シルヴィオ」
 春咲く薄紅の髪を散らして、彼は眠りに落ちていた。幽かな寝息が静寂に響き、希有の胸に不思議な安堵が芽生える。あれから何が起きたのか確かめなければならないというのに、シルヴィオが無事でいることが嬉しかった。
 希有は握られていた手をそっと解いて、上半身を起こした。寝台を囲うレースのカーテンを開くと、薄明りに照らされた自室が広がっている。窓から見えるのは夜の名残が色濃い黎明の空で、少なくとも一夜明けたことを知る。
 意識を失う直前の記憶が脳裏を過る。希有はサーシャの振り翳した刃から、シルヴィオを庇って刺されたはずだが、不思議と痛みはなかった。
 恐る恐る、希有は夜着の襟を緩める。腹部に巻かれた包帯を見つけて、胸を撫で下ろした。
 ――良かった。確かに彼の痛みを肩代わりすることができたのだ。
 不意に、両肩に重みが生じて、希有の身体は後方に傾く。次の瞬間には、胸元に腕をまわされ、覆い被さるように抱き締められていた。
「どうしたの?」
 希有は目を白黒させて、シルヴィオの腕を軽く叩いた。彼は問いに答えることなく、縋りつくように希有の右肩に顔を埋めた。柔らかな髪が首筋を擽って、久しく感じることのなかった彼の温もりが沁み渡る。
「キユ」
 意識を失くした希有の傍で、シルヴィオはどれほどの不安を抱えていたのだろう。ようやく発せられた彼の声は、喉の奥から絞り出した酷く掠れたものだった。
「何故、あのような真似をした」
 理由を問われて、希有は曖昧に笑った。彼にとって最悪の未来を避けたくて、気づけば身体が動いていたのだ。
「余計な御世話だった?」
 おどけて返すと、シルヴィオは希有を抱く腕に力を籠めた。あまりの強さに驚いて、もう一度彼の手を叩くが、さらにきつく抱き締められる。
「怖かったんだ」
 たった一言から、彼の恐怖が痛いほど伝わってくる。希有は眉間に皺を寄せて唇を引き結んだ。そうしなければ、みっともなく泣き叫んでしまいそうだった。
 ――こんなにも想ってくれているというのに、どうして、彼を信じてあげられなかったのだろう。
「何が、怖かったの」
 希有はシルヴィオを分かってあげたい、とうそぶいておきながら、身勝手に彼の心を決めつけていた。向けられた好意さえ、信じ切ることができずにいた。
 彼を大切に思うならば、希有の想像するシルヴィオではなく、彼の真実を知らなければならなかった。彼が希有に抱くのは玩具に対する愛着だと思い込んでいた。挙げ句の果て、美優への劣等感から、彼女の代わりにしているだけだと彼を責め立てた。
「喪いたくない。……置いていかれるのが、怖い。そんなの、俺には相応しくないのに。お前だけは手放せない、切り捨てられない」
 シルヴィオは愛していると囁いた唇で、平気で誰かを切り捨てることができる。そのように育てられ、ちぐはぐな心を抱える矛盾した人が、希有の喪失を恐れて震えている。それは何よりもの、彼が希有を大切にしてくれている証だった。
 希有はたくさんの言い訳を並べて逃げ続けてきた。耳を塞いで目を瞑り、心の奥底では彼を拒んでいたのだ。
 誰かを理解するためには、自分の心を開かなければならない。自らの一番柔らかい場所に彼を招き入れる覚悟もなく、何故、分かってあげたいなどと言えたのだろう。
 信じなければ、裏切られても傷つかずに済む。だから、希有は楽になれる道に逃げようとした。かつて、逃避を選んだ故に姉の未来を壊したように、大切な者を見失うところだった。
「俺を選んで。……憎んでも、嫌っても良い。だから、何処にも行くな。傍にいろ」
 一年前、シルヴィオが命を救ってくれた日、希有は彼の隣で生きる意味を見つけたいと願った。
 ――この桜色の人を、誰よりも何よりも大切にしたい。傷つき、歪み、それでも王で在り続ける彼を抱きしめてあげたい。
「離して」
 突き放すような言い方をすると、わずかに彼の腕が緩む。その隙に、希有は彼の腕から抜け出して身体を反転させる。寝台に手をつきながら、彼と向き合う体勢になる。
 シルヴィオは、今にも泣きだしそうな顔をしていた。春の光を帯びた若草の瞳を揺らして唇を噛んでいる。それでも、彼は独りでは泣くことさえままならないのだ。
 シルヴィオは王だ。何もかも奪われて、唯一の存在理由のために生かされてきた。だからこそ、どうしようもなく不自由で、自分のためには生きられない人だった。
「シルヴィオ。わたしが、ずっと魔法をかけてあげる」
 ありきたりで特別ではない言葉を、彼のための魔法を、何度だって囁こう。
 シルヴィオが愛し、彼自身を愛してくれる特別な誰かなど要らない。誰にも渡さない。何処にも行けない寂しい人の傍にいるのは、彼を愛してあげるのは希有が良い。
「ぜんぶ、あげる。貴方を選ぶから」
 シルヴィオが望んでくれるならば、いつか訪れる命の終わりまで、彼の泣き場所になろう。大きな身体を抱き締めて、孤独に打ち震えるこの人に寄り添うのだ。
「だから、泣いていいんだよ。……貴方の弱さを、わたしにちょうだい」
 希有は両手を伸ばして、シルヴィオの滑らかな頬を包み込む。親指で彼の目元を撫ぜると、透明な粒が次々に滴り落ちた。泣いている彼の弱さが、希有にだけ赦された彼の心が、とても愛おしかった。
 静かに涙を流すシルヴィオの眦に口づけて、希有もまた一筋の涙を流した。


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 ひとしきり二人で泣いた後、シルヴィオは涙の痕が残る顔で微笑んだ。心底幸せそうに目を細めた彼に、希有も自然と笑顔になる。
「憎んでも、嫌われても、……どんな手を使ってでも引き止めたかった。この手から零れ落ちてしまうくらいならば、心が伴わなくとも良い。ただ、傍にいてくれたら、と」
 きっと、シルヴィオは言葉通りのことを実行しただろう。希有が遠くへ逃げようとした時、彼は強引な手段を選んだに違いない。
 欲しいものを欲しいとも言えなかった人は、どうすれば希有を繋ぎ止められるか知らなかったのだ。
「ばかだね」
 無理やり留め置こうとしなくとも、シルヴィオは希有に枷を嵌めている。彼が与えてくれた温かなもの、優しい居場所、すべてが希有にとって幸福な囲いだった。
「どんなに恐ろしいことがあっても、傷ついても、どうか手を離さないでほしい。もう逃がしてはやれないが、俺も一緒に背負うから」
 シルヴィオの大きな手が右頬に触れた。希有は肉刺まめの潰れた固い掌に、そっと頬を摺り寄せる。
 視線が交わった瞬間、もう一度、二人は笑い合った。
「……お取り込み中のところ悪いけど。そろそろ良いかな」
 突然の声に驚いて、希有は肩を強張らせる。
 扉に視線を遣れば、アルバートが溜息をつきながら入室してくる。大股で近寄って来た彼は、シルヴィオを押しのけて希有の額に手を伸ばした。
「やっぱり、熱、あがってるね」
 アルバートに言われて、希有はほんの少しだけ身体が熱いことに気づく。
「キユが目覚めたら僕を呼ぶって約束で、面会を許可したはずなんだけど。積もる話は終わった? これ以上はだめだよ」
 アルバートに睨まれ、シルヴィオはばつが悪そうに目を泳がせた。どうやら完全に忘れていたらしい。
「あ、アル。わたしなら大丈夫だから、もう少しくらい」
「はあ? 大丈夫じゃないよ。君が今平気そうにしていられるのは麻酔が効いているからで、傷が良くなっているからじゃないんだよ。自分が大怪我したっていう自覚あるの」
 アルバートは心底呆れた声で希有を非難するが、彼の目元は泣いた後のように幽かに赤くなっていた。
「ごめん。心配してくれて、ありがとう」
「……っ、心配なんて、していないから。どうせ、僕のことなんて忘れていたくせに」
 拗ねた様子のアルバートに、希有は優しい気持ちになる。彼にはたくさん助けられた。彼のおかげで、希有は立ち上がることができたのだ。
「二人とも、そこまでにしておけ。傷に障るから休め。はやく元気になってくれ」
「それ、僕の台詞なんだけど! ほら、さっさと行くよ。僕たちがいたら、キユが休めないだろ」
 青筋を立てたアルバートは、シルヴィオを引っ張って部屋をあとにしようとする。
「待って! ……サーシャ様は、どうなったの?」
 事の顛末について、希有は教えてもらっていない。彼らがここにいるならば、最悪の事態にはならなかったのだろう。だが、希有が倒れた後の経緯が気がかりだった。
「監視をつけて軟禁している。国賓で、権利持ちの王女だ。下手なことはできないからな」
「シルヴィオ! 何、普通に答えてるの。ばかじゃないの」
 アルバートが頬を引きつらせ、シルヴィオの頭を思いっきり叩いた。あまりの行動の唖然としていると、彼は子どものように頬を膨らませる。
「キユもだよ。自分を刺した相手のことなんて気にして、ばかなの? 君が考えるのは、あの女じゃなく自分の身体のことだよ」
 アルバートの言葉は尤もだった。今は意識もはっきりしているが、重傷には変わりない。しばらくは安静にしていなければならないのだろう。
「何だか、その、良く分からなくて」
 リアノに害を及ぼそうとしたことに対する憤りも、シルヴィオを殺そうとしたことへの怒りもある。当然ながら、刺された恨みも存在する。
 だが、サーシャという人間に、希有はそこまで悪い感情を持つことができずにいた。庭園での寂しげな笑みを憶えているからかもしれない。
「ねえ、凄く身勝手なことを言っても良いかな」
 偽善だと分かっていても、口にせずにはいられないことがあった。
 希有の言葉にアルバートは肩をすくめ、シルヴィオは苦笑を浮かべた。