fantasia-胡蝶の夢-

08

 肩を揺すられて、蝶子は目を開ける。未だに眠気に支配される身体を伸ばして、目を擦った。
「レイ……?」
『おはよう、蝶子。起きて、良かった』
「ん、おはよう。レイ」
「蝶子。今は寝ぼけている場合じゃないんだ」
 いつになく真剣なユーリの眼差しに、蝶子は瞬かせた。
 いつも室内を満たしていた穏やかな雰囲気は消え去り、代わりに、肌を差すような刺々しさが部屋中を満たしている。
『気づかれた』
 レイの言葉に、蝶子は目を見開く。
『蝶、いる。王、気づいた』
「隠し通すことは、無理だったらしい」
 王に見つかったということは、レイとユーリが蝶子を匿っていたことも発覚したということだ。
「前に敷地内で見つかった鱗粉りんぷんから、俺たちが蝶を匿っていることを気づかれた」
「あ、……」
 敷地内で鱗粉が見つかったのは、蝶子の責任だ。
 レイとの約束を破り、無鉄砲にも部屋の外に飛び出した蝶子は、己の翅から剥がれ鱗粉のことなど気づきもしなかった。
 顔を青ざめさせた蝶子に、レイが近寄って来た。
「レイ、あたし……」
 彼は黙って首を振る。
『いつか、ばれる、分かってた。蝶子、悪くない』
「でもっ……」
 彼はもう一度首を振ってから、信じられない言葉を口にした。

『蝶子、逃げる』

 レイは腰にさしていた一振りの短剣を抜いて、蝶子の手に握らせる。初めて会った時に彼が手に持っていた短剣だ。蝶子がレイを見れば、彼は優しく微笑んでいた。
『自分、守って』
 この短剣は、人さえも殺すことのできる道具だと、レイは知っているはずだろう。誰よりも何よりも、レイ自身が分かっているはずだ。
「無理、よ……、あたしにはっ……」
 震える蝶子の手に、レイは、もう一度強く短剣を握らせる。
『大好き』
 レイは、蝶子の額に、自分のそれを合わせた。
 涙に濡れた瞳を閉じることもできず、蝶子はレイを見る。レイもまた、蝶子の瞳を見つめている。
 自然、触れ合った唇は熱く、堪え切れない涙が零れ落ちた。
 彼の紫水晶の瞳は、不自然なほどに凪いでいた。
「れ、い……」
『笑って』
 一度だけ強く蝶子を抱きしめて、レイは蝶子に背を向けた。それは、すべてを覚悟した背中だった。
 彼は一度だけ振り返って、泣きそうな笑みで窓から飛び立つ。初めて会った日に見た、鋼の翼が空に舞い上がる。
「待ってっ……!」
 レイに向かって伸ばしかけた手を、ユーリが無理やり掴む。
「行くぞ」
「ユーリっ……! レイが、レイが行っちゃうっ……!」
「……っ、行くぞ!」
 蝶子の身体を肩に担いで、ユーリが走り出した。
 学校から出ると、燃え盛る炎が学校を囲う森を包みこんでいた。
 これがきっと、王の焔。その熱に立ち向かうには、あまりにも蝶子とユーリは無力だった。
 少しでも立ち向かうことのできる可能性を持つのは、王と同じ龍。
「レイっ……!」
 彼は、蝶子とユーリを逃がすために、時間を稼ぎに行ったのだ。
 蝶子の叫びを無視して、ユーリは走り続けた。
 遠ざかる景色の中で、大きな鋼の翼を見た気がした。
「……、ごめんな、蝶子」
 暫くして、蝶子は優しく地面に下ろされる。
 辿りついたのは小さな森の泉だった。蝶子がユーリを見上げると、彼は唇を開いた。
「お前は、二度と幻想曲には戻ってくるな」
「え、……?」
「大丈夫。眠りに就くだけだ。次に目が覚めた時には、蝶子の夢も現実も、一つになるから」
 ユーリは笑って、蝶子の頭を撫でた。
 優しいその手は、震えていた。
「俺はあっちのお前も、レイも知らないけど……、きっと、まだ学生なんだろうな」
 どうして、気付かなかった。
 自分だけが、特異な存在だと思い込んでいたのだ。
 ――夢を見ていたのは、夢と現実、どちらかも分からない世界を行き来していたのは、蝶子だけではなかったのだ。
 目の前にいるユーリも、レイも、蝶子と同じように地球でも生きていたのだろう。
「大丈夫だ。幻想曲で目覚める前に、戻るだけだから。……、俺は戦闘向きじゃないけど、眠らせること・・・・・・は得意だって、言っただろ」
「やだっ……、止めて、ユーリ!」
 透明な膜が蝶子を包み込むと、ユーリは笑った。
「さようなら、蝶子」



「いやっ……!」
 目が覚めると、そこには見慣れた天井が広がっていた。
「レイ、ユーリ……?」
 名を呼んでも、応えてくれる人はいない。
「蝶子さん、目が覚めたの?」
 蝶子の部屋の扉が開かれ、小野が近寄ってくる。いつもの制服姿ではなく、薄手のワンピースにカーディガンを羽織った私服姿だった。
「大丈夫? 具合が悪いなら、連絡をくれれば良かったのに」
 荒く呼吸を繰り返す蝶子の背を、ゆっくりと小野が撫でた。
「……、なん、で、小野さんが?」
 周囲を確認するが、間違いなく、蝶子の自室だった。何故、小野が蝶子の家にいて、自室に入ってくるのだろうか。
「蝶子さんのお父さんから連絡をもらったの。具合が悪いみたいだから、できれば、様子を見に来てもらえないか、って。蝶子さんの携帯からの連絡だったのに、いきなり男の人の声がしたから、びっくりしちゃった」
 困ったように苦笑した小野に、蝶子は瞳を揺らす。
「顔、真っ青だけど……、本当に大丈夫?」
 心配そうに顔を覗き込んできた小野に、蝶子は身を震わした。
 頭から離れないのは、レイとユーリの姿。
 レイは、蝶子たちを逃がすために囮となった。蝶子たちの中で、一番、暴力に立ち向かえるのは、レイだ。
 龍は、王に連なる血統だ。力を持つが故に、あの学校に彼はいた。
 あんなにも優しい彼は、その身に力を秘めていた。それは、一瞬にして森を焼き尽くしてしまうような、強大な力だ。あの日、蝶子が羽化するのが、ほんの少しでも早ければ、蝶子の命はレイの焔に焼かれていただろう。
「どうしたの? 何処か苦しい?」
 蝶子を案ずる小野の顔を、まともに見つめることはできなかった。
「……、ねぇ、小野さん」
 自分の無力さが、歯がゆかった。
 いつも守られてばかりで、何一つ変えられなかった、変えようとしてこなかった弱さが、悔しくてたまらなかった。
「大切な人に、会えなくなるのが怖いの。どうすれば、助けられるかも分からないの。あたしは、何にも出来ないわっ……」
 自分は弱かった。
 蝶子の存在が、レイとユーリを危機へと追い込んだ。
 出逢えたことに感謝している、彼らと一緒に過ごした時間はかけがえのないものだ。
 彼らを助けてあげたいのに、蝶子はどうすればいいか分からない。
「ええと、蝶子さんの事情は、わたしには分からないけど……。蝶子さんが、何にも出来ないのは、どうしてなの?」
 小野が蝶子の手を握って、幽かに微笑む。
「そう思っているのは、蝶子さんだけかもしれないよ。まだ可能性があるなら、諦めちゃダメ」
「あ、……」
「蝶子さんは怖いんだね」
 まるで、蝶子に勇気を分け与えるように、彼女はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「わたしも、ずっと怖かったよ。手を伸ばして触れたくても、何回もその手を振り払われて来たから、……、もう、手を伸ばすのは止めようって、何度も思ったよ」
 蝶子の手を、小野は再び強く握りしめた。
「だけどね、わたし、あの人の笑顔が好きだから、諦めないって決めたの」
 明るくて、何も悩み事を抱えていないように思えていた級友。だが、彼女は悩みぬいた末に戦うことを選び、前を向いていたのだ。自分自身に負けないように、彼女は彼女なりに立ちあがっている。
 蝶子には、それが眩しくて、憧れさえ抱いた。
 自分も、彼女のようになれるだろうか。
「怖くないよ。大好きな人の笑顔が喪われることに比べたら……、怖いものなんて何もないよ」
 微笑んだ小野に、蝶子は顔を歪めた。
 彼女の言葉こそが、真実だった。
 何も怖くないのだ。彼らの笑顔を思い浮かべたら、その笑顔を喪わないためならば、蝶子は何だってできるはずだ。
「……ごめんなさい。少し、独りにしてもらっていい?」
「うん。無理しないでね」
 部屋を出て行った小野の姿を確認して、蝶子はベッドの上で膝を抱えて俯いた。
 どちらが夢であろうと構いはしなかった。
 そこに彼らがいるならば、蝶子は良かったのだ。
 このままでは、レイもユーリも殺されてしまう。
 蝶子の想像が正しいのであれば、幻想曲で死ねば、地球で生きているであろうレイもユーリも同じように死んでしまう。
 そうすれば、二度と会えなくなる。手遅れになってしまうのだ。
 どうすれば良いかなど、分かり切っている。
 三人で助かるためには、片方の世界で眠りに就けば良いのだ。ユーリが蝶子を眠りにつけたように、片方の世界での意識を封じ込めてしまえば良い。
「……、一緒が、良いわ」
 その願いを叶えてもらうために、蝶子は再び幻想曲に戻らなければならない。
 母の死でも流れなかった涙が、こぼれ落ちた。それを拭うこともせず、蝶子は拳を強く握りしめる。
「会いに行くから」
 もう一度眠りに就こう。
 何度だって諦めはしない。二人の笑顔を、守ってみせる。



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