fantasia-胡蝶の夢-

09

 ゆっくりと目を開けると、蝶子は泉の中にいた。
 息ができない、と思ったが、それは杞憂だったらしい。透明なシャボン玉のようなものの中に、蝶子は入れられていた。これもまた、ユーリの力なのだろうか。
 地球に生きるすべての人間が幻想曲でも生きているのかどうかは知らない。蝶子は、それを知る術は持たない。
 だが――、幻想曲で死ねば、地球でも死ぬ。その逆もおそらく、然りだろう。
 それが、幻想曲で目覚めてしまった者の宿命なのだと思う。
 蝶子が地球だけで生きていくためには、幻想曲での身体を眠りに就かせる必要があった。
 レイもユーリも、蝶子が地球でだけ生きることを望んだ。普通の子どもとして、安寧に笑って過ごすことを願ってくれたのだろう。
「……、行かなくちゃ」
 だが、そんな風に一方的に押し付けられたところで、蝶子は幸せになれない。
 二人を置いて、どうして、一人だけ笑って生きていけるというのか。
 蝶子は透明な膜を打ち破って、蝶子は水の中に身を躍らせた。鱗粉がはがれおちて、容赦なく翅が濡れていく。それでも、蝶子は水面を目指して泳いだ。
「……っ、レイ、ユーリ」
 濡れた翅では飛ぶことはできないけれども、蝶子には二本の足がある。裸足で地面を蹴って、蝶子は走り出した。
 遠くに、黒煙が立ち昇る場所が見える。彼らはその場所にいるはずだ。
 足の裏を刺す痛みも忘れて、蝶子はひたすらに走った。
 そして、木に身体を預けた青年の姿を見つける。
「……、ユーリ!」
 血の滴る腹を押さえながら、彼は苦悶の表情で顔を上げた。
「蝶、子?」
「……っ、ひどい、怪我」
 近くに駆け寄れば、赤い血が地面を濡らしている。
「止血、しなくちゃ」
 止血をしなければならないが、道具も満足にない状態で何ができるのだろうか。幸い急所は外れているようだが、彼の傷口が深いことに変わりはない。このままでいれば、下手をすれば失血死もあり得る。
 服の袖を破り、彼の傷口を抑え込もうとする。だが、蝶子の手ををユーリは払った。
「なんで戻ってきた。死にに来たのかっ……!」
「……、ねえ、ユーリは、全部知っていたのね」
 夢も現も関係ない。
 どちらも夢であり、現でもあった。そこに区別をつけること自体、不毛であったのだ。
 ユーリやレイは、おそらく生まれた時から、当然のように二つの世界を生きてきた。
 対する蝶子は、幻想曲では、この間まで羽化をしていなかったのだ。当然、意識は繭の中で眠りに就いていた。それ故に、蝶子は幻想曲が夢で、現代こそが現実だと思い込んだ。自分だけが、特別だと勘違いをした。
「レイはどこ?」
 視線を逸らしたユーリに、蝶子は目を伏せた。
「捕まったのね」
 何も言わず悔しげに唇を噛んだユーリに、蝶子は首を振る。ユーリはきっと、レイを助けようとして傷を負ったのだろう。
 彼の手を両手で握りしめて、蝶子は口を開いた。
「生きて」
 彼の愛しい人のためにも、ユーリは生きなくてはならない。
 何より、蝶子は友人を死なせたくはない。
「レイは、願いを叶えるわ・・・・・・・。きっと、また会えるから」
 自分は蝶。
 憎くて堪らなかった蝶々であることを誇りに思う。蝶子は、この世界で願いを叶えるための、たった一つの術なのだ。
 蝶の伝説は嘘ではないと、蝶子は信じることにした。
 王が願いを叶えるために足りなかったのは、覚悟だ。
 かつて、願いを叶えて死した者のように、己のすべてをなげうたなければ、願いを叶えることなどできないのだろう。
「またね、ユーリ」
 今度は、ビルの建ち並ぶ街の何処かで会おう。
 レイと三人で、一緒に会えたら良い。ユーリの大切な彼女も誘って、笑い合える未来が、優しく蝶子を勇気づけてくれる。
「蝶子っ……!」
 ユーリを振り返ることなく、蝶子は走り出した。



 死は恐ろしくなかった。
 怖いのは、レイの笑顔が消えることだ。
「レイっ……!」
 殴られて腫れた痛々しい顔で、彼が振り返った。
 どうして来たのだと、紫水晶の瞳が絶望に染まっていく。
「蝶……!」
 周囲の生徒が叫ぶ。
 大勢の人間に囲まれて、お飾りの王冠を頂いた王が、静かに蝶子を見た。

 冷たい美貌は、先日、妹を亡くしたという国語教諭、そのものだった。

 幸せな方を現実と選んだ彼は、幻想曲こそが己の生きる世界だと決定した。
 妹が生き返ることのない地球よりも、蝶を殺すことで妹が蘇る可能性がある幻想曲の方が、彼にとっては幸せだったのだ。
 蝶子は手に持っていたレイの短剣を抜いて、自らの首筋に宛がった。
「彼を解放しなさい」
 瞬間、場にいる全員が息を呑む。
「あたしが死ねば、望みは叶わないわ」
 少し力を入れると皮膚が切れ、生温い血が流れる。感じた痛みを我慢して、蝶子は前を見据えた。震える手を勇めるように、強く剣を握り直す。
「その震えた手で、何ができる。お前に自害は無理だ」
「……できるわ。貴方がレイを殺した瞬間、あたしは自分を殺す」
 死が恐ろしいのではない。恐ろしくなどない。
 本当に怖いのは、レイの存在が失われてしまうことだ。
 王は小さく息をついて、口を開いた。
「……レイを、解放しろ」
「リヒト様!」
「これだけ探しても、蝶はもう見つからなかった。この蝶まで喪えば、姫は永遠に眠りから覚めることはない」
 鱗が這う手で指示を出して、王は蝶子を睨みつける。
 解放されたレイは、動揺しながらも、ゆっくりとした足取りで蝶子の元まで歩いてくる。
 深い怪我を負ったその身体を、蝶子は強く抱きしめた。
「……、生きていて、良かった」
 声にならない声を発して、レイが首を振る。
『どうして、来た! 俺の命、どうでも、良かった』
 いつになく動揺した彼は、蝶子の肩に顔を埋めた。
『蝶子、助かるなら、良かった』
 彼も、自分と同じ気持ちでいた。
 蝶子とて、レイが助かるならば、自分の命がどうなろうと構わないと思っていた。
「一緒に、いましょう? レイは、願えばいいの」
 互いが互いを優先しているのならば、二人して助からなければ、誰も幸せになどなれない。それでは、自分たちを弟妹のように思っていてくれるユーリも救われない。
 抱きしめていた腕を放して、彼の頬に触れる。
 蝶子は、自分たちが幸せになるためにレイの下に来た。助けに来たのではない、彼に願ってもらうために傍に来たのだ。
「願って、あたしたち三人の幸せを」
 蝶子が囁いた瞬間、怒号が上がる。
「蝶を捕らえろ!」
 予想通り、王は蝶子とレイが一緒になった途端に、捕獲の命令を出した。
 蝶子は、静かにレイに視線を遣る。
 これから蝶子がやろうとしていることを彼は察している。
『……、願う。だから、叶えて、蝶子』
 察してもなお、レイは微笑でくれている。月光に照らされた顔からは先ほどまでの動揺は消え去り、彼は凪いだ瞳で蝶子を見つめていた。
 恐怖がないわけではないだろう。蝶子とて、これから自分がやるべきことを考えただけで、手が震えてしまう。
 それでも、一緒ならば大丈夫だと、レイは蝶子と同じように思ってくれたのだ。
「大好きよ。……、またね、レイ」
 レイが頷いたのを見て、蝶子は微笑んだ。
 瞬間、短剣を掲げて、蝶子は勢いよく彼の心臓を穿った。同時、レイは鋭利な龍の牙で蝶子の喉元を食いちぎる。
 視界に紅が飛び散り、響き渡る絶叫が誰のものなのかも分からない。

 蝶は、願いを叶える。

 願いを抱く者が、蝶と運命を共にすることが、願いを叶える唯一の手段だったのだ。一方的に屠られたところで、蝶は願いを叶えられない。花々を飛び交う蝶を射止めるためには、命を投げ出すほどの覚悟がなくてはならなかったのだ。
 それ故に、王は幾度も願いを叶えることができなかった。
 蝶子は信じている。
 レイはきっと、三人が地球で幸せに生きられる道を、幻想曲での眠りに就くことを願ってくれたはずだ。
 もう、何も怖くなかった。
 きっと、また会えるから。



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