花と髑髏

第一幕 堕ちた太陽が昇り 08

 夜中、紅茶を飲みたいと駄々を捏ねたディートリヒに起こされたエデルは、花冠の塔の外にある井戸で水を汲んでいた。
 桶一杯に水をいれたエデルは、塔に戻る途中、立ち止まって空を見上げる。闇色の空には星が瞬き、青白い月の光が地上へと降り注いでいた。穏やかな夜風は生温かく、夏の気配が色濃くなり始めている。
 ――エデルがこの時代に招かれた春から、季節が移り変わろうとしていた。
 エデルの存在に関わらず、季節は廻り世界は移ろいでいく。その当たり前の理に、イェルクのために駆け抜けていた頃は気づくことがなかった。
 この時代に来てから、時折、エデルは考える。自分は彼にとって必要不可欠な存在なのだと、ずっと、驕っていたのかもしれない。エデルがいてもいなくとも季節は廻るように、イェルクの世界も変わらず移ろいでいくだろう。
「おや、ようやくあの子も侍女を迎えたのか」
 不意に聞こえた声に振り返れば、そこにいたのは一人の男だった。薄闇の中では顔も良く見えないが、頭まで外套を被ったかなり大柄な男だ。見知らぬ男に一瞬だけ身構えるが、男の両手を塞ぐ大量の荷物に警戒を解く。両手を塞いだ間抜けな不審者などいるはずがない。
 第一、この場所はディートリヒが望まぬ者を寄せ付けないように結界が張られている。エデルがこの時代に招かれた時に彼が驚いていたのは、その結界の内側に突如姿を現したからだ。
「……お客様、でしょうか。御荷物、お持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。あの子のことだから何もかもなくなっていると思ったのだが……、用意し過ぎたようだな」
 あの子とは、おそらくディートリヒのことだろう。
「ありがとうございます。ちょうど、色々足りなくなってきたところだったんです」
 食糧品だけはディートリヒが定期的に調達してくるが、他に必要な物資に関して彼は無頓着である。近々、買い出しの許可を求めようと思っていたのだが、これで手間が省けるかもしれない。
「それなら良かった。ああ、すまないが名前を教えてくれるだろうか」
 大量に荷物を抱えた男は、ひどく優しい声音で名を尋ねてきた。
「名乗るのが遅くなって申し訳ありません、エデルと申します。あの方には大変良くしていただいてます」
「そうか。エデルは、あの子に気に入られているのだね」
「え?」
 思わず聞き返してしまったエデルに、男は声を出して笑った。
「あの子は人嫌いで、今は事情が事情だからな。よほど気に入っていなければ、自分以外の人間を花冠の塔に入れたりしないだろう」
「そう、ですか。……それは、光栄なことですね」
 ディートリヒはエデルを気に入っているわけではないのだが、敢えて伝える必要もないので口を噤んだ。
 男と共に歩いていると、やがて花冠の塔に辿りつく。
 扉を開けるとほぼ同時、階上から慌ただしい足音が聞こえてくる。どうやら、塔の主はお待ちかねのようだ。
「エデル! 遅かったね、喉が渇いて死んじゃいそ、う……」
 階段を勢い良く駆け下りてきたディートリヒは、エデルの隣にいる人物に目を丸くした。
「兄、上?」
 ディートリヒの兄と言えば、たった一人しかいない。
 フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティア。後の時代で賢王と讃えられ、グレーティア史上で最上の治世を築き上げたとされる人物だ。
 隣に立っていた青年が荷物を下ろして、頭まで覆っていた外套を脱ぐ。足首に届くかと思うほど長い、眩い金の稲穂の髪が宙を舞う。透き通る澄んだ碧の瞳を瞬いて、精悍な青年は微笑んだ。
 その笑顔にイェルクの面影を見て、エデルの胸は柔らかに締め付けられる。この人の血が、確かに彼の中にも流れているのだ。
「兄上! また、こんな夜更けに城を抜け出したのですか? せめて護衛をつけてください、貴方は王なのですから」
「あまり心配するな。お前ほどではないが、これでも武術の心得はあるんだ。――それよりも、ディー。こんな夜更けに女性を一人外に出して感心しない」
「え、……あ、それは、そう、ですけど」
 エデルに文句を言われたところで飄々として我儘を通すのだが、大好きな兄に言い含められているせいか、ディートリヒは叱られた子どものように視線を彷徨わせた。
「あの、お話するなら中に入った方が宜しいのでは? 紅茶はわたしが淹れていきますから、先に上にあがっていてください」
 エデルは入口で話し続ける男二人に向けて提案する。重たい水を持ったまま、これ以上外にいたくなかった。
「気が利くね。それじゃあ、僕はいつものやつで」
「分かりました。いつも通りの茶葉で、砂糖たっぷり・・・・・・のものですね」
 わざと強調して言えば、ディートリヒは恨めしげにこちらを見る。何故知っているのか、と顔に書いてあるが、花冠の塔の厨房を預かっているのはエデルだ。砂糖の異様な減りの速さに気づかないはずがない。
「子どもの頃と変わっていないのだな。まだ、あんなに砂糖を入れているのか」
 フェルディナントが肩を震わせると、ディートリヒはかすかに赤くなった頬で、向こうに行け、とエデルを追い払うように手を動かした。それを無視して、エデルはフェルディナントを見上げる。
「フェルディナント様は……」
「フェル、と呼んでほしい。ここにいるときの私は、ただのフェルだ」
 そう言って寂しげに眦を下げた表情に、弱虫だった幼い頃のイェルクの姿が重なって、エデルは懐かしさを覚えた。彼のことをイェルクと呼び始めた時、今では考えられないことだが、彼は声をあげて泣いたのだ。
「分かりました。フェル様は、いかがなさいますか?」
「兄上、その子が用意するものに関しては信用しても大丈夫ですよ。その子には貴方を殺すと困る理由がありますから」
「……間違ってはいませんけど、物騒な言い方しないでください」
 フェルディナントを殺害すれば、イェルクは生まれない。ディートリヒの言い分は間違っていないのだが、彼のことがなくてもエデルは無暗に人をあやめたりしない。
「事情は良く分からないが、お前が傍に置いている時点で信用している。エデル、私にも用意してくれるか?」
「ええ、もちろん。すぐにお持ちしますので待っていてください」
 水の入った桶を手にエデルは厨房へと向かおうとすると、フェルディナントに肩を叩かれる。何か他に用があるのだろうか、とエデルは首を傾げた。
「一つ言い忘れた。――私は、砂糖は要らないよ」
 楽しげな笑みを浮かべた兄に、ディートリヒは頬を引きつらせた。

  ◆◇◆◇

 エデルが厨房に消えてからも、フェルディナントは微笑ましそうにディートリヒを見つめてくる。その視線に居た堪れなくなって、ディートリヒは軽く咳をした。
「それで……、本題は何ですか? 兄上」
 彼が花冠の塔を訪ねるのは、物資を運ぶためではない。そもそも、王である異母兄に召使いの真似事をさせるほど、面の皮が厚くなった覚えはない。
 物資は彼なりのディートリヒと会うための口実に過ぎず、彼が自分を頼るために使う稚拙な言い訳の一つだ。それを知っていて、そのような兄の行動を愛おしく思っているからこそ、ディートリヒは何も言わずに彼を迎え入れるのだ。
「不作の報告が、近頃、また増えた」
「去年に引き続きですか?」
 眉をひそめたディートリヒは、顎に手をあてて考え込む。
 フェルディナントが即位した去年から、南部地方を中心に不作の報告があがっている。
 基本的に国守の水晶を有するグレーティアの国土は豊かになっている。無論、気候などの関係で収穫量が減少する年はあるのだが、去年と今年はそれらの条件は安定している。
 不作の報告が増える理由が見当たらないのだ。
「やはり、私が王として力不足なのかもしれない」
 悔しそうなフェルディナントの言葉を、即座に首を横に振って否定する。
「兄上、そのことについては納得されたはずでしょう。グレーティアの王に相応しいのは、王家に生まれた長子・・です。水晶との相性が一番良いのは長子だと歴史が証明しています」
 何らかの理由で長子が死したため、過去に長子以外の者たちが王位を継いだことはある。だが、彼らが長子ほど水晶の力を発揮できないことは、過去の収穫量や結界の強度から明らかである。
「自信を持ってください。貴方は正しい、貴方は王だ」
 毒を滴らせるように、不安に揺れる兄を優しく諭す。そうすれば、何度だって自分を頼りにして縋ってくれることを知っていた。
「すまない。ありがとう、ディートリヒ」
 泣きそうな顔で笑うフェルディナントの瞳に歓喜を見たディートリヒは、身も心も蕩けそうな甘い微笑みでそれに応えた。
「不作の件については、僕も引き続き調べます。兄上は毅然としていてください。まだ、貴方の足を掬おうとする者たちがいるのですから」
「ああ、そうだな。……私が、しっかりしなければ」
 この愚かしく優しい兄を誰よりも愛している。ディートリヒにとって大事なのは、魔術でも国でもなく、この半分だけ血の繋がった兄だ。だからこそ、もっと頼りにして、もっと愛してほしかった。
 自室にフェルディナントを招き入れると、しばらくしてからエデルが部屋に入って来る。
 ディートリヒの胸元にしか届かない小柄な身体で、彼女は背筋を伸ばして歩いていた。顔立ちも体つきも幼く子どもにしか見えないというのに、表情は硬く、零れ落ちそうなほど大きな瞳には子ども特有の無垢な煌めきが見当たらない。だが、輝きの代わりにある種の強靭さを滲ませた蜜色の目が、ディートリヒは嫌いではなかった。
 二百年後から来たなど、魔術の痕跡がなければ絵空事として切り捨てていたのだが、一緒に生活するうちにそれが真実であることが確かになっていく。生活様式の違いに戸惑っていた始めの頃の姿や、この時代の子女にはまず見られない高い教養が、そのことを裏付けていく。
 ――時の魔術を行使した者が、確かに存在したのだろう。
 この儚げに見えて強かさを秘めた少女を招くために、気の遠くなるような時間と制約のかかる魔術に縋った者がいたのだ。
 ディートリヒたちに紅茶を淹れたエデルは、部屋の隅に静かに佇む。そのような態度を見る度に、彼女が誰かに仕えるために生きてきたことを意識した。彼女の背後には、いつだって顔も知らぬ男――イェルクと言う名の王太子の影がある。
「とても美味しい。外で何かを口にするのは久しぶりだ」
 カップに口を付けたフェルディナントが、エデルの淹れた茶を褒める。ほんの少し目を見張った彼女に、兄は微笑みかける。
「基本的に余所では何も口にしないことにしているんだ。一度、毒で倒れたことがあってね。メルヒオールたちのおかげで助かったのだが、あまり良い思い出ではないな」
「そう、なのですか。あの、申し訳ありませんが……、メルヒオール様というのは?」
 すまなそうに聞いてくるエデルに、ディートリヒは眉をひそめる。できることなら、この時代の人間ではない彼女に内情を教えたくなかった。
「メルヒオールは、ディーの祖父だ。昔は王城に仕えていた魔術師で、今はアメルンの長を務めている。私が毒に倒れた時、助かったのは彼とディーのおかげだ」
 メルヒオール。思い出したくもない、血縁上は祖父に当たる魔術師の顔が脳裏を過る。
「それはどうなんでしょうね。あの男こそ、兄上に毒を盛ったんじゃないかと僕は思いますけど。あれは魔術のためなら何でもしますよ。――なにせ、守るべき主君の血筋に無理を通してアメルンの娘を送り込んだ恥知らずです」
 王家と同じように水晶を保有するアメルンだけは、王家と交わってはいけなかった。互いに個別の存在として在り続けることこそが国のためだった。メルヒオールはそれを破って自らの娘を妾妃として献上し、ディートリヒを産ませた。
「メルヒオールはお前の家族だろう。そのような言い方をしてはいけない」
「僕の家族は兄上だけです。兄上は忘れたのですか。二年前の王位争いは、あの男によって引き起こされたようなものです。貴方の母上も、その最中に亡くなったのですよ」
「ディー、それは……」
「あの男は、今もアメルンの血筋を王にすることを諦めていない。自分が老い先短いとを知っているから、前以上に躍起になっているでしょう。――だけど、僕は王になりたくない。兄上の道を邪魔したくないのです」
 顔をしかめると、フェルディナントは小さく頷いた。
「分かっている。お前はとても優しい子だから、二年前の争いさえも、お前の本意ではなかったと知っている。そんな泣きそうな顔をするな」
 優しいのは自分の方だと、彼は知らないだろう。愛していると言いながら心の中ではその愚かさを嘲笑っている、異母弟の愛情の醜悪さなど彼の知るところではない。
 立派な王になってほしいと思いながら、もっと頼ってほしいと願う矛盾した想い。それは、きっと、手酷い裏切りにも似ている。自分だけは兄の味方でいなければならないのに、おそらく誰よりも彼をおとしめているのはディートリヒだ。
「ああ、そうだ、ディー。あまり塔に籠り過ぎるな、あらぬ疑いがかけられているようだ」
「あらぬ疑い?」
「王弟は、兄を殺すために塔に籠って妖しい魔術を研究しているらしい」
「……誰ですか、そんな大嘘ついたのは」
「残念だが、未だに私とお前の不仲を信じる者がいるからな。親切な者はわざわざお前を排除するように進言してくる。お前もお前で、塔に籠って滅多に外に出ないからな。くだらない噂が立つのも当然なのかもしれない」
 ディートリヒは言葉に詰まる。昔から籠りがちだったが、王位継承権を棄てて花冠の塔に逃げ込んでからは、以前にも増して人前に出ていない。自分の態度こそが、口さがない者たちを調子づかせているのだ。
「エデルと一緒に、城下町にでも降りてきたらどうだ? 噂も少しは落ち着くだろうし、お前もたまには気分転換をした方が良い」
 城下町という単語に、黙っていたエデルの肩が少しだけ揺れたことを、ディートリヒは見逃さなかった。
 堅苦しい子だが、まだ十五歳を迎えたばかりの少女だ。半ば塔に閉じ込められているような日々に、声に出さないものの不満が溜まっていたのかもしれない。
「だってさ、エデル。城下町、行ってみたい?」
 問いかけると、彼女は黙り込んだまま瞳を揺らした。自分の希望を口にして良いのか迷っているのだろう。
「明日、朝早くなら連れていってあげるよ。僕も久しぶりに出かけたいしね」
 我儘一つ言えない子どもに、ディートリヒは溜息をついた。