花と髑髏

第一幕 堕ちた太陽が昇り 09

 薄闇に包まれた部屋で、エデルは一着のドレスを手にとった。花冠の塔に住み始めて間もない頃、ディートリヒが用意してくれたものの一つだ。普段はその時一緒に用意してもらった王城の侍女と同じ格好をしているのだが、城下町に降りることを考えるとこちらの方が良いだろう。
 夜着を脱ぎ捨てると、化粧台の鏡に映った凹凸のない身体が目に入る。丸みのない痩せ細った肉体から目を逸らし、エデルは手早くドレスを身に着ける。
 ドレスを着るのはイェルクとコルネリアの成婚式以来だ。あの日、エデルは幸せそうに笑い合う二人を遠目にすることしかできなかった。
 祝福の鐘が鳴り響き、人々が撒いた花弁が降り注ぐ中、精一杯着飾ったエデルは一人立ちすくんでいた。背伸びして似合わない真似をしたところで、彼が振り向いてくれることはないと知りながら無駄な努力をした。
 純白の花嫁衣装を身に纏い、日向で咲き誇った美しいコルネリアを、エデルは生涯忘れることはできないだろう。どうしようもない惨めさと、姉のように慕った女に抱いた嫉妬心しっとしんは、今もこの心にくすぶったまま消えてくれない。
 エデルは部屋を出て、ディートリヒのもとに向かう。
「エデル? 入って良いよ」
 彼の部屋の前に立つと、エデルの来訪に気づいたのか、ディートリヒが室内から声をかけてくる。それにしたがって扉を開けると、視界に飛び込んできたのはシャツを片手に上半身を晒している男だった。
 驚いたエデルは慌てて目を逸らそうとするが、その場に釘付けになってしまう。
 ――彼の身体は、死人のようだった。
 日の光を知らぬ肌は蝋を塗り込めたかのようで、肉つきの薄い身体は骨が浮き出ている。こちらに向けられた白皙の美貌が、なおさら、彼から生の気配を遠ざける。
「……着替えているなら、そう、言ってください」
 辛うじて言葉を紡いだエデルは、直後、思わず顔を歪めた。
 彼の青白い肌を引き裂いて、胸元から腹部にかけて引きつった傷痕が刻まれていた。変色して色を濃くしたそれは、一見するだけで命に関わるような大怪我だったと分かる。
 ディートリヒが遺した功績の数々なら、知識として頭にある。だが、この場所で息をしている青年のことなど、エデルはほとんど知り得ていなかった。その身に刻まれた傷の理由も、背負ってきたであろう苦しみも、決して後世に遺された史料などから理解できるものではない。
「傷が気になる?」
 エデルの視線に気づいた彼は、自らに刻まれた傷痕を指でなぞった。
「子どもの頃、実母に刺されたものだよ。あの人は僕のことを憎んでいたからね。……まあ、その後、母はメルヒオールに殺されたわけだけど」
 ディートリヒは持っていたシャツを羽織りながら、まるで世間話をするかのごとく理由を口にした。
「なんで、そんな、淡々と言うんですか」
 紫水晶の瞳には悲哀も絶望も感じられない。実母に刺され、祖父が実母を殺した事実に対して、彼は何の感情も抱いていないようだった。
「だって、僕は母上のことなんて愛していなかったから」
 ディートリヒは口元を綻ばせた。少女のように可憐な微笑みが、逆に痛ましかった。
 エデルとて母のことなど愛していなかったが、彼のように笑って切り捨てることはできないだろう。
 ――愛はなくとも、愛してくれなかったことに対する悲しみはある。
 きっと、彼が母を愛せなかったのはエデルと同じ理由だ。愛してもらえなかったから、愛することができなかったのだ。
「でも、痛かった、でしょう?」
 身体だけではなく心までも引き裂かれたはずだ。生まれは誰にも変えられないというのに、己を産み落とした母に憎まれ、存在を否定されることに痛みが伴わないはずがない。
 彼が平然としているのは、その痛みさえ分からぬほど心が麻痺しているからではないのか。彼は、ただ一人を想うことで痛みを誤魔化して生きてきたに違いない。
 ――フェルディナントをひたすらに想うことで、心を麻痺させたのだ。
 エデルがイェルクにすべてを捧げて、膿んで爛れた愛と独り善がりの痛みに見ないふりをしたように。
「どうして、君が泣きそうな顔をするの? 僕の傷なんて、どうでも良いだろうに」
 着替えを終えて額の水晶を帽子で隠した彼は、心の底から理解できないと言わんばかりに首を傾げる。
 その仕草が、彼の在り方が、酷く遣る瀬無く思えた。

  ◆◇◆◇

 早朝であるにも関わらず、城下町は随分と賑わっていた。大通りの両脇にたくさんの露店が並び、買い物客と店主たちが明るく言葉を交わしている。
 きょろきょろとまわりを見ていると、隣を歩いていたディートリヒが噴き出す。
「そんなに珍しい?」
「わたしの時代では、こんな風に露店で商売をするのは禁止されています。それに、数年前に大規模な区画整理を終えたばかりだったので……」
 見慣れない街並みが新鮮で、エデルは物珍しさを感じずにはいられなかった。新たになった城下町の視察に同行したことがあるが、あの時と様子がかなり違う。
「そうなの? あんまり想像できないなあ」
 そのまま彼と他愛のない会話を重ねて歩いていたエデルの視界に、一つの露店が飛び込んでくる。眠たげな少年が番をしているその店には、様々な装飾品が並べられていた。
 露店の前で足を止めて、屈みこんだエデルは並べられた品物の一つ、白いリボンに手を伸ばす。おそらく、髪飾りなのだろう。レース編みで作られた愛らしい代物だった。
「意外と可愛いものが好きなんだね」
 ディートリヒの呟きに、エデルは咄嗟に髪飾りを戻した。心惹かれて手にとってしまったが、可愛げのない自分には似合わないと分かっている。
 その様子に、店番をしていた少年が笑う。
「恋人さん、どう? 彼女に一つ」
「……こ、恋人なんかじゃ……!」
 少年の言葉を理解した瞬間、エデルは慌てて否定するが、動揺のあまり声が上擦ってしまう。
「ふうん、随分と照れ屋な女の子つかまえたね、綺麗なお兄さん」
「だろう? まあ、そういうところも好きなんだけどね。さっきの髪飾り、貰えるかな」
 ディートリヒが懐から銅貨を取り出すと、少年は快活に笑って髪飾りと交換した。
「御買い上げありがとうございまーす、今後も御贔屓に」
 彼は買ったばかりの髪飾りをエデルの手に握らせる。
「お礼は? エデル」
「……っ、ありがとう、ございます」
「ふふ、耳まで真っ赤にして可愛いね」
 ディートリヒから顔をそむけて、エデルは眉間に皺を寄せた。揶揄やゆされているだけだと分かっていたが、それでも聞きたくなかった。
「可愛くなんて、ありません」
 可愛げがない、と何度も言われてきた。周囲の大人たちは背伸びするように知識を吸収していくエデルに、時に憐憫の情を、時に嘲笑を向けた。
 ――無駄な努力は止めてしまいなさい。
 滅多に顔を見せなかった母親の言葉が、胸を抉る傷となって甦る。どれだけ努力しても、女である限りイェルクと共に在ることはできないと彼女は言い捨てた。
「女を棄てる覚悟をして、……ここまで、来たんですから」
 だから、薬に頼って子どもでいることを望んだ。過ちが起こる可能性さえなければ、子を孕む機能なんて持たなければ、傍にいられるのだと信じていた。
「でも、女を棄てる覚悟をしたと言う割に、君は女らしさを厭っていないよね。好きな人に可愛い、と思ってもらいたい心を捨てきれずにいる」
 囁いたディートリヒに、言い返すことができなかった。
 女になったらイェルクの隣にいられないから、子どもでいる必要があった。それでも、彼に女として可愛いと思ってもらいたいという浅ましい願い。矛盾した二つに板挟みにされていた本心が剥き出しになる。
「図星だった?」
 まるで悪びれない様子で、ディートリヒはエデルの髪に触れた。
「莫迦にしているわけじゃないよ、むしろ、僕は君が少女らしい心を持っていることを嬉しくさえ思う。――綺麗な朝焼けの髪だから、男みたいに髪を短くしていなくて良かったと思ったんだ。僕が創った、大好きな花の色」
 エデルの生きる時代で髪の短い女性は珍しくないが、この時代では髪を長くするのが一般的だった。あの時代では廃れてしまった慣習だが、昔、女は髪を長く伸ばし、死した時にその髪を森に還していた。
 遺髪は命の見立て、森は女神の住処である。森の女神から生まれついた命を、彼女の懐に還すための慣わしだ。
「わたしの大嫌いな、花の色で、……名、ですけどね。わたしの生きる時代では、あの花はエデルガルトと呼ばれています」
 腰元まで伸びたエデルの柔らかな髪は、朝焼けの名を冠した花の色をしている。
 ――失われた魔女語によって、朝焼けエデルガルトと名付けられた花。
朝焼けエデルガルト夕焼けイェルクに寄り添えない。君が嫌いになる理由も頷ける」
 対になる名を嬉しく思ったこともあった。だが、朝焼けと夕焼けは似て非なるものでしかない。どれだけ努力したところで、暗く深い夜に隔たれ、傍にいられなくなる日が来ると知っていた。幼い心が、それを認めることを拒んだだけだ。
 俯いて唇を噛みしめたエデルの手を、そっと冷たくて大きな手が握りしめる。驚いて顔をあげると、ディートリヒは目を細めた。
「はぐれないように、手を繋ごうか」
 こんな至近距離で歩いているのだ、はぐれるはずがないと彼も分かっているだろう。それなのに、手をとってくれたのはどうしてだろうか。
「昔、兄上が僕を城下町に連れ出してくれた時に、こうして手を引いてくれたんだ。あの人にとって、城下町は王城よりも馴染み深い生まれ育った場所だから」
 後の時代で賢王と讃えられるフェルディナントは、幼少時代を市井の生家――彼の実母が生まれた商家で過ごした。長子として王家に見出されたのは、彼が八歳の時だった。
 彼が民から慕われたのは、距離感が近かったこともあるのだろう。王城に引きとられてからも、彼は市井の暮らしを忘れず、その心を良く理解していた。
「兄上は僕をいろんな場所に連れて行ってくれた。国の広さも、人の温もりが優しいものであることも、教えてくれたのは兄上だけだった。……兄上だけが、僕を愛してくれた」
 その声音に宿る愛しさは、決して偽りではないのだろう。こんなにも柔らかに誰かを想う言葉に、嘘などあるはずがない。
「だから、僕は兄上の道の邪魔をしたくない。それなのに、……同じくらい、あの人の傍で生きたいと願ってしまう。邪魔をしたくないなら、離れるべきだと知っているのにね」
 どれほど深く兄を愛しても、ディートリヒに流れる血潮は兄を蹴落としかねないものだ。実際、彼らは王位を争うこととなり、周囲の思惑によって対立せざるを得なかった。
「……わたしも、同じです。いつかあの人の重荷になると知っていたのに、傍にいたかった。傍にいて、ずっとあの人のために生きたかった」
 太陽のようなイェルクの笑顔が脳裏から消えない。いつだって隣にいた半身、唯一の宝。本来ならば疎むべきエデルに、彼だけが手を差し伸べ、温もりを教えてくれた。
「僕たちは、似たもの同士なのかもしれないね。君と仲良くできる気がしてきたよ」
 ディートリヒは楽しそうに声をあげて笑い、繋いだ手を強く握り直した。イェルクの手よりも大きい、男の人の手だった。
 元の時代を恋しく思いつつも、彼の傍で過ごす日々も悪くないと感じている自分がいた。せわしなく彼の世話をしている限り、イェルクに棄てられた現実から目を逸らすことができた。
「ディー」
 勇気を出して、初めて会った時に彼が望んだ通りに、その名を呼んだ。立ち止まった彼は、驚きに目を丸くしている。
「わたしを拾ってくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
 紫水晶の目に柔らかな光を湛えたディートリヒは、エデルの手を引いて再び歩き出した。
 ――彼と自分は、きっと、良く似ているのだろう。
 ただ一人のために生きたいと願いながら、その道を阻みかねない場所で生きている。