花と髑髏

第一幕 堕ちた太陽が昇り 10

 大通りに並ぶ露店をひととおり見たエデルたちは、路地を抜け、比較的人の少ない道に出る。こちらにもいくつか露店が並んでおり、買い物客の姿が疎らにあった。
「そろそろ帰ろうか。あまり長居すると厄介な人たちに見つかるかもしれない」
「厄介な、人たち?」
 首を傾げたエデルに、ディートリヒは深々と溜息をついた。
「僕は王位継承権を放棄したけど、王族から除名はされていないんだよ。だから、まだ僕を王にすることを諦めていない人たちもいる。……たとえば、僕の生母の実家であるアメルンとかね」
「そう言えば、わたしがこの時代に来た時、アメルンの者なのでは、と疑っていましたね」
 彼が王位継承権を放棄した今も、争いの火種は燻り続けたままなのだ。諦めが悪いことこの上ないが、それだけディートリヒは求められているのだろう。
「別に彼らが来ても追い返す自身はあるんだよ。ただ、花冠の塔の外だと、僕は塔内ほど楽に魔術を使えないから、あまり相手にしたくないんだ。無駄な労力は使いたくないし、面倒だろう?」
 あまりにも彼らしい理由に、エデルが笑みを零しそうになった時だった。
「おい、南部の不作の話、聞いたか?」
「ああ、去年よりも酷いらしいな。値上げをしなくちゃならないかも」
 不意に、露店の店主たちの話し声が耳に入って来る。その不穏な内容に、エデルは眉をひそめた。
 エデルの記憶では、二百年前に起こった不作は南部地方から始まり国中に広まった。何が原因だったのかは記録になく、後の時代に伝わるのは、ディートリヒ・アメルンが不作に喘いだ国を救ったという事実だけだ。
「バルシュミーデの子が呪われているという噂、本当なのか?」
「ゲオルク・グレーティアの血の薄い市井から王を迎えたことで、森の女神がお怒りだっていうやつか。まあ、元々は、城下町を駆けまわってただけの餓鬼だからな」
「俺、憶えているよ。何の苦労もしてないような顔で、いつもへらへらと笑っていたよな」
 嘲りを隠さずに言葉を交わす男たちに、隣を歩くディートリヒが視線を遣る。静かな怒りが宿された眼差しに、店主たちは身体を強張らせた。
「帰るよ、エデル」
 ディートリヒはエデルの手を強く握り締め、花冠の塔への帰路につく。彼は明らかに急ぎ足になっており、エデルは小走りをしなければならなかった。
 やがて、花冠の塔が見える野道に出ると、彼は足を止めた。
「……ばかみたいだと思わない? 兄上のことなんて何一つ知らないのに、噂に振り回されて。即位した当時は、市井から王が出た、と大騒ぎで祝っていたくせに、今では掌返して呪われた王扱いだ」
 震える声に籠められていたのは、嫌悪と侮蔑だった。誰よりも愛している兄に対しての、謂れのない中傷が赦せないのだろう。
「それなのに、兄上は……、こんな民を愛しているんだ」
 どうして、と呟いた彼を、エデルは見上げた。
「だからこそ、フェル様は王に相応しいのでしょう?」
 民を愛する心は、誰にでも持てるものではない。直接触れ合ったことすらない者に思いを馳せ、愛し、守ろうとできる者は稀有だ。少なくとも、ディートリヒにはできないことだったのだろう。
「そう、だね。……愚かしいほど、あの人は優しいから」
 ディートリヒが頷いた時だった。

「ですが、優しさだけの無能な王など、この国には相応しくありません」

 突如聞こえた声に、エデルたちは反射的に振り返った。
 ――人気のない道に複数の男たちが立っていた。無表情で立つ彼らの額には色鮮やかな水晶が輝いている。
「……アメルンの魔術師たちが、僕に何の用?」
「お久しぶりです、ディートリヒ様。メルヒオール様の命により、お迎えに参りました」
 中央に立つ男が、ディートリヒに向かって恭しく頭を下げる。
「御苦労なことで。こんな道端で声をかけずに、正面から花冠の塔に来たら歓迎してあげるのに」
「御冗談を。貴方様の支配下にある場所で、我々が貴方様に勝てるはずがないでしょうに。あの結界に阻まれて、何度追い返されたことか」
 そう言った男が片手を挙げると、後方に控えた者たちが理解できない音の羅列を唱え始める。
「エデル! 目を瞑って!」
 叫んだディートリヒが、エデルの小さな身体を抱きこんだ。訳も分からぬまま、勢いに任せて彼の胸に飛び込む。
 次の瞬間、響き渡ったのは爆裂音だった。肌を舐めるような炎が一気に吹き荒れて、あまりの熱さに固く目を瞑る。
 ――魔術とは、魔女語によって抽象を定義付け具象化させる術だと、ディートリヒは話していた。それならば、先ほど男たちが唱えていたものこそ魔女語なのだろう。
 音が止んだ頃、恐る恐る目を開けると、舌打ちしたディートリヒが一振りの懐剣を取り出していた。剣を鞘から引き抜いて、彼は花と髑髏の意匠を日の下に晒す。その柄には魔女文字と思わしき細かな文字が刻まれている。
 彼の額の水晶に宿された紫が、色を濃くして渦巻いたのを、エデルは確かに目にした。
「ごめん、怖いと思うけど少し我慢して」
 エデルの耳元で謝ったディートリヒは、懐剣で躊躇うことなく自らの腕を刺した。流れ出した血潮を夥しいほど刀身に纏わせて彼は歯を食いしばる。
 もう一度響いた爆裂音と同時、赤く濡れた刃で彼が空中に弧を描き、二人を守るように半透明の盾が出現した。
 ディートリヒは、爆撃の余波で煙る世界の向こうに鋭い目を向ける。
「いきなり攻撃してくるなんて、相変わらず礼儀を知らないね」
 立ち込める土埃が治まり視界が開けると、先ほどまでの光景は跡形もなく消え去っていた。野道に生えていた緑は燃え尽き、地面は土の色を剥き出しにしている。灰燼が宙を舞う中、アメルンの魔術師たちは無表情で佇んでいた。
「致命傷を負わせてでも連れて来い、とのことです」
「メルヒオールは、ついに手段を選ばなくなったの? ばかな奴。こんなことをしたって、僕はお前らには従わないよ」
「口が過ぎますよ。メルヒオール様は偉大なる魔術師にしてアメルンの長。たった一人の、貴方の家族ではないですか」
 男の言葉は、ディートリヒを激高させるには十分過ぎた。
「あの男を家族だなんて思ったことはない! 僕の家族は兄上だけだ!」
 エデルは彼の腕で身じろぎをした。彼がここまで激しい感情をあらわにしたのは、出逢ってから初めてのことだった。
「ディートリヒ様、どうか抵抗はお止めください。我らと共に再び王への道を。商家の血を引く長子などよりも貴方こそ王に相応しい」
「それを信じているのはお前らだけだ。グレーティアの王に相応しいのはフェルディナント兄上、ただ一人。アメルンなど、……魔術など、滅びてしまえば良い」
 喉の奥から絞り出すような声からは、一族に対する憎しみが痛いほど伝わってきた。
「何と言うことを! 貴方様の紋章に刻まれた髑髏を、……花守の水晶を宿した誇りを忘れてしまったのですか」
「お前らの何処に誇りがあるんだ、ただ、魔術を失うことを恐れて国守の水晶を欲しがっているだけじゃないか。そんな奴らに、兄上の生きる国を渡すことなんてできない!」
 そうして、ディートリヒは歌うように魔女語を口にした。
 刹那、紫紺色をした太い蔦が数本、勢い良くディートリヒの懐剣から伸びる。アメルンの魔術師たちに向かって伸びた蔦は大きくしなり、意思を持つかのように凄まじい速度で彼らに迫る。驚いた彼らは咄嗟に反応しようとするが遅い。
 蔦は魔術師たちを薙ぎ払い、乱暴に地面へと叩きつけた。
「数人がかりで来れば、水晶の共鳴作用・・・・・・・で勝てると思った? 甘いよ、定義付けにばかみたいな時間がかかるお前たちと僕では、与えられた才が違う」
 ディートリヒはひれ伏した男たちを嘲笑った。自ら傷つけた腕が痛むであろうに、そのことを微塵も感じさせない様子だった。
「メルヒオールに伝えて。――僕の答えは変わらない、僕は王にならない」
「残念、です。ディートリヒ様」
 蹲ったままの男たちは、そのままエデルたちの前から煙のように姿を消した。
「はやく花冠の塔に戻るよ」
 エデルの手をとって、ディートリヒは走り出す。彼の腕から零れ落ちる赤い血が、点々と地面に赤い染みを作っていた。彼に置いていかれないように、エデルは息を切らしながら必死になって駆けた。
 ディートリヒは花冠の塔の入口に辿りついた直後、膝から崩れ落ちた。
「ディー!」
 屈みこんで慌てて彼の顔色を窺うと、いつも以上に血の気の失せた青白い顔をしていた。呼吸は浅く、額には脂汗が滲んでいる。
「今、手当します。少し待っていてください!」
 夥しいほどの血に塗れた彼の腕を見て、慌てて治療道具を取りに行こうとする。だが、駆け出そうとしたエデルのドレスの裾を掴んで、彼は首を横に振った。
「良いよ、放っておいて。この程度の傷なら、どうせ治り始めているから」
「ばかなことを言わないでください!」
 こんなにも血が流れているのに、放っておくことなどできるはずもない。
「……これを見ても、まだ、言うの?」
 エデルに見せつけるように、ディートリヒは自らの指で血に濡れた腕を拭った。
 ――そこには、ほとんど塞がった傷があった。
 はっとしたエデルが顔をあげると、彼は一筋の光も感じられない紫の目を細くした。
「アメルンの男魔術師たちは、一生、水晶の影響を受ける。傷の治りは早くなり、老いを忘れ、……やがては次代を遺す機能さえ失う。唯一の死は、水晶が老衰した時だけ」
 ディートリヒは力なく微笑んで、己の喉から腹にかけて指を這わした。
「何度も死にたいと願ったのに、死ねなかった。母上に腹を裂かれた時も、王位争いの最中に自分で喉を突いた時も、……僕は、生き残って、しまった」
 本当は死にたかった、という彼の囁きに、エデルは強く唇を引き結んだ。
 潤んだ目を釣り上げて、治りかけている彼の腕の傷痕に強く爪を立てる。塞がりかけた傷に何度も指を沈め、肉を抉るようにして引っ掻く。
「エデ、ル?」
「どうして、……なんで、貴方は、そんな風に笑うの?」
 この傷が永久とわに癒えなければ良い。永遠に痛みを訴え続けてくれれば良いと願った。そうすれば、きっと、彼は痛みに麻痺してしまった心に気づいてくれる。
「また、泣きそうな顔をしているね」
 血に濡れた指で、ディートリヒはエデルの頬をなぞった。彼の指先に合わせて頬を濡らしたのは、温もりなど何一つない、氷のように凍てついた血だった。
「分からないな。僕のことなんて、君はどうでも良いだろう?」
「……だって、貴方が、泣かないから」
 ――本当は痛いはずなのに、何でもないように笑うから。
 堪えていたはずの涙がエデルの頬を滑り落ちた。
「ねえ、もしかして、僕に同情しているの?」
 次から次へと流れてくる涙で霞んだ瞳で、エデルは小さく頷いた。
 エデルは自分の人生を彼に重ねてしまっている。あまりにも似ている部分が多すぎた。ディートリヒと自分の関係は契約によって成り立っていると知りながら、もう無関心ではいられなかった。
「ばかだね。僕なんかに同情しちゃだめだよ」
 彼は泣いているエデルの頭を胸元に引き寄せた。血まみれの手が、そっとエデルの頭を撫でて髪を梳いていく。
「でも、少しだけ嬉しいな。……ありがとう、僕なんかのために泣いてくれて」
 ディートリヒの胸に顔を埋めて、エデルは思う。
 もしかしたら、彼にとって自分の命は誰のものより軽いのかもしれない。