花と髑髏

第二幕 長い冬の終わりに 11

 澄み渡った青空の下で、白い布が朝風を孕んで揺れていた。溜まっていた洗濯物を干し終えたエデルは、真夏の空気を深く吸い込んで身体を伸ばす。
 日差しは強いが、湿り気がほとんどなく気持ちの良い天気だった。
「エデル」
 振り返ったエデルが目にしたのは、眩しげに紫水晶の瞳を細め、白銀の髪を風に揺らしたディートリヒの姿だった。降り注ぐ太陽に照らされた顔を正面にして、エデルは小さく息を呑む。
 いつも通りのだらしのない格好をしていようとも、その美貌が損なわれることはない。まるで物語から飛び出してきた貴公子のようだと、柄にもなく思った。
 美しい。この男は美しいのだと、改めて感じた。まさにディートリヒ――魔女語で月の光を意味する名に相応しい、黙っていれば物憂げで静謐せいひつささえ感じさせる美貌だ。
 まじまじと見つめていると、彼が不思議そうに首を傾げる。
「……あ、朝から、外に出るなんて珍しいですね」
 慌てて、エデルは当たり障りのないことを口にした。黙り込んだままでいるのは不自然だ。
「王城の図書館に行こうと思って。君も来る?」
 王城には、昔から巨大な図書館が設けられている。グレーティアの英知を集めたその場所に、元の時代では頻繁に通っていた。静かな本の海に身を委ねている間は、胸に抱く悲哀や嘆きをわずかに忘れることができた。
 懐かしさを覚えて、エデルは目を伏せた。
「行きたいですけど……。前みたいに襲われたら、足手まといになりますよ」
 アメルンの魔術師に襲われた際、エデルは何もすることができなかった。ただ、ディートリヒの腕の中で震えていただけだ。
「大丈夫だよ」
 ディートリヒはことさら明るい声で、エデルの不安を否定した。それでも、躊躇って動けずにいると、彼はエデルの手首を強引に掴んで歩き出す。
「ディー!」
「行きたいなら行きたいと言いなよ。誰も君を咎めたりしない」
「でも……」
 エデルが渋って足を止めると、ディートリヒは肩を竦めた。
「王城には人目があるし、今は王城仕えの魔術師も一人、二人しかいない。アメルンの者たちは何もできない」
 そこで、エデルは食い下がったところで一蹴されるだけだと気づく。面倒くさがりな彼は、不必要な嘘や気休めを口にしたりはしない。彼が大丈夫だと断言するのは、それだけの確信があるからだ。
「……人目は分かりますけど、魔術師の数が何か関係あるんですか?」
 抵抗を止めたエデルは、浮かんだ疑問を口にした。多くの人間が暮らす王城で凶行に及ぶとは考えにくいが、どうして、魔術師の数についてまで彼は言及したのだろうか。
 振り返ったディートリヒは、少しだけ考える様子を見せてから、艶やかな唇を開いた。
「魔術師ではない君には分かりにくいかもしれないけど。水晶の共鳴作用・・・・・・・、と言ってね。僕たちの額にあるのは花守の水晶の欠片だ。もとは同じ水晶だから、近くにいる魔術師と水晶を共鳴させ、一時的に力を増幅できるんだ。――そうでもしなければ戦えないほど水晶の力が弱まっている今の時代、単独や少数の魔術師は脅威にならない」
「ディーは、例外なんですか?」
 この間襲ってきたアメルンの魔術師たちと違って、ディートリヒは他の魔術師と一緒に行動することはない。それにも関わらず、彼は互角どころか魔術師たちをねじ伏せた。
 ディートリヒは頷いて、嫣然えんぜんとした。
「僕が母上から受け継いだ水晶は、特別、力が強いものだから。花冠の塔の外だったとしても、あの程度の人数なら負けることはないから安心して良いよ」
「ああ。城下町に出た時、そんなことを言っていましたね」
 記憶違いでなければ、彼は花冠の塔の外だと塔内ほど楽に魔術を行使できないと口にしていたはずだ。つまり、外にいる間の彼は十全な状態ではないのだ。
「魔術は精神の影響も強く受けるから、落ち着いた状態の方が行使しやすいんだ。……花冠の塔は、僕が選んだ逃げ場だから」
 驚くほど自然に、彼の答えは腑に落ちた。
 青年時代から老衰するまでの間、ディートリヒ・アメルンは花冠の塔で過ごしたとされている。この塔は彼にとっての逃げ場であり、やがては墓場となる。これ以上ない安息の地なのだ。
 しばらくすると、二人は小高い丘に差しかかる。ディートリヒが薬草園としている場所だが、彼が放置しがちのため、相変わらず雑草が物凄い勢いで生えていた。
「こんな状態で大丈夫なんですか?」
 思わず溜息が零れ落ちてしまう。
「雑草が生えたくらいで駄目になる弱い薬草は、ここでは栽培していないから大丈夫だよ。気になるなら整えてくれて良いよ?」
「構いませんけど、薬草まで抜いてしまいますよ。わたしが知っているのなんて、女神の実くらいなんですから」
 エデルは背の低い黒みがかった小花を指差した。薬草園にある植物で、エデルが知っているのは女神の実と呼ばれるあの小花だけだ。
「よりにもよって、知っているのがそれなの? 薬にもなるけど、猛毒の花じゃないか」
 笑い声をあげたディートリヒに、エデルは曖昧な笑みで応えた。
「あとで一緒に雑草抜きをしましょうか。引き籠ってばかりいないで、たまには身体を動かしてください。ぶくぶく太っても知りませんから」
「ぶくぶくって……、君、だんだん僕に対して遠慮がなくなってきたよね」
 ディートリヒは子どものように口を尖らせた。
 丘を越えてしばらくすると、巨大な石造りの王城が姿を現す。エデルにとって十五年間の時を過ごした家であるはずなのに、まるで知らない場所に迷い込んだようだった。
 王城は早朝であるためか閑散としており、警備の者たちとわずかな文官がいるだけだった。皆、ディートリヒを見て驚いていたが、すぐさま目を逸らした。関わらない方が懸命だと判断したらしい。
 辿りついた図書館の内装は、知っているものと随分と違っていた。二百年の間に増築や改装が行われていて当然なのだが、眉をひそめてしまう。
 ――この時代における自分は、異物でしかないのだと思い知らされる。
「まだ、開館前ですよ」
 図書館に入ってすぐの場所に、優しげな面差しをした青年が立っていた。いかにも頼りなさそうな風貌で、男性にしては背が低い。目が悪いのか、細い銀の鎖で吊るした単眼鏡モノクルを左目に装着していた。
 燃えるような赤毛に蜜色の瞳をした彼は、溜息を一つ零した。その視線の先にはディートリヒがいる。
「どの面下げて、今さらここに来たのですか」
 王弟に向けるものとは思えない棘のある言葉だった。あまりの言い様に絶句してディートリヒを見上げると、彼は何がおかしいのか楽しげに笑っていた。
「ごめんね、アロイス。そんなに怒らないでよ。僕たち友だちだろう?」
「怒ってなどいません。二年近くも姿を見せなかった友人に呆れているだけです。……貴方が手紙で頼んでいたものなら、まだ届いていませんよ」
「嘘。意地悪言わないでよ」
「南部から王都まで何日かかると思っているのですか。一昨日頼んだものが、今日に届いているなんてありえません。――それより、ディー、見慣れない方を連れていますね」
 アロイスと呼ばれた青年は、エデルに顔を向けて微笑む。特別顔のつくりが整っているわけではないのだが、人当たりが柔らかい笑みだった。
「僕の侍女だよ。とても頭の良い子だから、図書館で雇う気ない?」
「は?」
 間抜けな声をあげたエデルに構わず、ディートリヒは続ける。
「事情があって期限付きで預かっているんだけど、僕の引き籠りに付き合わせるのが可哀そうになってきて。外に出してあげたいんだ」
「貴方が言うなら本当に頭の良い子なのでしょうけど……、正式に女性を雇うことはできませんよ」
「それでも良いよ。たまにで良いから、預かってほしいんだ。君の下なら安心だし、良い経験になるだろうから」
 エデルが口を挟むことができずにいる間も、話は次々に進んでいく。
 アロイスはわずかに逡巡した後、苦笑いを浮かべた。
「分かりました、他でもない貴方の願いですからね。お嬢さん、御名前は?」
「え、エデル、と申します」
「では、エデル。これから、時折、私の手伝いをお願いします。早速ですが、明後日こちらに来ていただけますか?」
「あ、はい。……よろしく、お願いします」
 エデルは愛想笑いを浮かべながら、なんとか返事をした。
「それじゃあ、アロイス。また後日、頼んでいたものを取りに来るから」
「今日は寄って行かないんですか?」
「うん。長居すると会いたくない子に会いそうだし、戻って薬草園を整えたいから。ね、エデル」
 同意を求めるディートリヒに、そう言えば、来る途中にそのような会話をしていたことを思い出す。
「そう、ですね」
 薬草園を整えることは今日でなくとも構わないのだが、彼のやる気があるうちに行った方が良さそうだ。
「また、必ず来てくださいね」
「はいはい、ちゃんと顔を出すよ。またね」
 アロイスに手を振って、ディートリヒは図書館をあとにする。その背を追うエデルは、彼の服の袖を強く掴んだ。
「わたし、図書館で手伝いをするなんて話、聞いていなかったんですけど」
 一緒に来るかとは問われたが、図書館の手伝いをするかどうか聞かれた覚えはない。
「嫌なの?」
 意外そうに目を瞬かせたディートリヒに、言葉に詰まってしまう。急なことではあったが、嫌なわけではないのだ。
「花冠の塔に籠っているの疲れるだろう? これから忙しくなるから、僕もあまり相手してあげられないし。せっかくなんだから、今のうちに色々吸収しなよ」
 ディートリヒの言い分は尤もだった。この時代の書物や知識には、二百年後には残っていないものもある。ただ時間が過ぎ去るのを待っているくらいならば、イェルクのためではなく、自分のためになることを始めるべきなのだろう。
 帰ったところで、イェルクのために生きたエデルには、もう戻れないのだ。
「どういう風の吹き回しですか? 鳥肌が立ちそう」
 ディートリヒにとって、エデルの価値は胸元に刻まれた魔術だけであり、彼が気を配るのはその点のみのはずだ。
 彼はおもむろに右手をエデルの頬に伸ばした。訝しげに軽く眉をひそめた瞬間、頬を強く抓られる。
「失礼なことを言うのは、この口かな」
「……っ、だって、貴方には、こんなことする必要なんてない」
 彼は時の魔術の研究をするために、エデルを保護しているに過ぎない。ここまで手をまわしてもらう理由が見当たらない。
「君に良くしてもらった分、良くしてあげたいと思うのは、そんなに変なことかな」
 ディートリヒは声を落として、エデルの耳元でそっと囁いた。エデルは目を見開いて、弾かれたように彼を見上げる。
「特別なことなんて、何もしていません」
「君にとってはそうでも、僕は嬉しかったんだよ」
 ディートリヒは、もう一度エデルの頬を抓って微笑んだ。その笑みが思いの外柔らかで、エデルの心は少しだけざわついた。