花と髑髏

第二幕 長い冬の終わりに 12

 窓の外では、初秋の風に乗って木の葉が舞い落ちていた。
 ディートリヒの身の回りの世話をしつつ、図書館での手伝いをしているうちに、瞬く間に時間は過ぎ去った。夏の盛りは遠のき、景色は少しずつ秋の色を映し出している。
 エデルは司書室を慣れた様子で歩き、アロイスの机に頼まれていた本を届ける。
「ありがとうございます、エデル」
 書状を睨みつけていた彼は、本を受け取って柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ。こちらで大丈夫でしたか?」
「間違いありません。――ああ、すみませんが、もう一つお願いして良いでしょうか? 投函箱を見てきて欲しいのです」
「はい。今、見てきますね」
 アロイスからの頼みに、エデルは作り笑いを浮かべて返事をした。
「エデル。今日、アロイス様の手伝いの日だったのか?」
 司書室を出て入口に設置された投函箱へと向かう途中、顔馴染みになった司書の一人に話しかけられる。裏表のない爽やかな笑顔に、エデルは足を止めた。
「ええ。と言っても、夕方までには戻らなければなりませんが」
「あ、そうなんだ。てっきり、今日も仕事終わりにアロイス様と二人で難しい話でもするのかと。今度は俺も呼んでくれよ? 同席したい」
 手伝いを始めた頃、元の時代のように遠巻きに見られるものだと思っていたのだが、アロイスの同僚である司書たちは皆好意的だった。
 そのことに戸惑ったが、アロイスは苦笑して理由を教えてくれた。
 図書館に勤めている司書たちは、元々は文官志望らしい。先代の王の方針により、身分が低い者や落ちぶれた家の者は文官として登用されない。彼らは実力こそあるものの、文官になれなかった者たちなのである。
「はい。是非、お願いします」
 イェルクと同じ教育を受けていたエデルは、元の時代では文官の真似事をしていたため、多少彼らと話が通じるところもある。また、この時代において女は文官になれないこともあって、彼らはエデルに対して同情的なようだった。
 司書と別れ図書館の入口に辿りついたエデルは、次の瞬間、誰かと衝突した。衝撃で後ろに傾いだ身体は、幸い壁に寄り掛かることで転倒を免れる。
「きゃっ……!」
 可愛らしい叫び声に顔をあげると、床に倒れ込んでいる侍女が一人いた。黒髪を後ろで纏め上げ、目にかかりそうなほど前髪を伸ばした少女だ。長い前髪のせいで陰鬱な印象を受けるが、良く見ると非常に整った顔立ちをしていた。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 慌てて手を差し伸べると、少女は切れ長の黒い目を瞬かせている。
「あ、え……、だ、大丈夫!」
 口ごもりながらも力強く声をあげた少女は、エデルの手を恐る恐る掴んで立ち上がった。年の頃はそれほど変わらないように見えるが、幼さを色濃く残すエデルと違って、背が高く丸みを帯びた身体をしていた。
「すみません、わたしが余所見をしていたから。怪我はありませんか?」
「怪我は、ないです、けど……。あの、あ、アロイス、様、と」
「アロイス様が、どうかしましたか?」
 急に出てきた名前に首を傾げると、少女は震える唇を開いては引き結ぶを繰り返す。しばらくして決心がついたのか、彼女は勇気を振り絞るように口を開いた。
「アロイス様と! ど、どんな関係、です、か……!」
 突然の質問に戸惑いを覚えるよりも先に、少女が必死な表情で迫ってくる。その勢いに押されて一歩下がろうとするが、後ろは壁であるため動けない。その間にも、少女はさらに顔を近づけてきた。
「恋人なの? 最近、ずっと傍にいるって、聞いた!」
「え、いえ、あり得ません!」
 少女の剣幕に押されて、その言葉を否定する。ディートリヒの気遣いで図書館に手伝いに来ているが、目当てはアロイスではない。
「ほ、本当? 絶対?」
 必死で問いかけてくる少女を面倒に思いながら、エデルが頷いた時だった。
「帰りが遅いからどうしたのかと思えば……、二人とも何をしているのですか?」
 図書館から顔を出したアロイスが声をかけてくる。燃えるような赤毛を揺らした彼は、単眼鏡モノクルの奥にある蜜色の瞳でこちらを見ていた。
「あ、アロイス、様!」
 少女が甲高い声で名を呼ぶと、彼は穏やかな笑みを浮かべる。その眼差しに宿る色に気づいて、エデルは苦笑した。どうやら、彼にとって特別な少女らしい。
「ドーリス、お久しぶりですね。元気そうで安心しました。この頃は顔を見せてくれなかったので、何かあったのかと思っていたのですよ」
「ごめんなさい。お祖父様に呼ばれて、家に帰ってたの」
「ああ、それなら仕方ないですね。お祖父様の機嫌はいかがでしたか?」
「……あんまり、良くなかった、かな。なんだか予想外のことが、起きたみたい」
「なるほど。あの方にとって今の状況は面白くないのでしょうね」
 苦笑したアロイスは意味ありげにエデルに視線を遣る。
「それで、ね! お茶に良いかと思って、家にあった美味しい茶葉、持ってきたの。そろそろ、休憩時間だよね」
 彼の視線の意味を分からずにいるエデルを余所に、ドーリスと呼ばれた少女はアロイスに小包を押しつける。
「そうですね、今からお茶にしましょうか? エデル、貴方も一緒に休憩にしましょう。ドーリス、彼女はエデルです。月に何度か司書の仕事を手伝ってもらっています。年が近いからきっと仲良くなれますよ、貴方、他の侍女たちとあまり仲良くないでしょう?」
「……お手伝いなんて、今まで、いなかったのに」
 小さな呟きに込められた愛らしい嫉妬に、エデルは笑みを零してしまう。それを悪い意味にとったのか、ドーリスは眉をひそめた。
「アロイス様は、わたしの雇い主に逆らえなかったんですよね。だから、渋々、手伝いとして置いているんですよ」
「まあ、少々強引でしたが、君は良く働くから重宝していますよ」
 ドーリスの嫉妬に気づいているだろう彼は、エデルに調子を合わせて笑った。柔らかな物腰に反して、彼もなかなか人が悪いところがある。
「エデルと申します。よろしくお願いします、ドーリス様」
「……よろしく、お願い、します」
 囁くように口にした少女は、軽く唇を噛んでエデルを恨めしげに見た。


 司書室の奥に備え付けられた休憩所で、三人は丸いテーブルを囲んでいた。
「……美味しい」
 エデルが淹れた茶を口にしたドーリスが、ぽつり、と零した。
「きっと、茶葉が良かったんですね」
 ドーリスは首を横に振って、それから深く俯いた。
「違う。淹れ方が良いの。私、こんなに美味しく、淹れられなかった。……王城の侍女なのに、役立たずだから」
 呟かれた自虐に、エデルは内心で引っかかりを覚える。謙遜やその場の会話に合わせて取り繕ったものではない。本心から、彼女はそう思っているようだった。
「確かに貴方にはそそっかしい面もありますが、良いところもたくさんあると思いますよ。だから、そんなに自分を卑下するのは止めなさい」
 アロイスが困り顔で諫めるが、ドーリスは下を向いたままだった。
「でも、侍女頭さん、いつも怖い。家のせいで、いろんな人に陰でこそこそ悪口言われるし。侍女じゃなくて、私もエデルみたいなお手伝いが良かった」
「手伝いと言っても、大したことをしているわけでは……」
 エデルが行っているのは、主に書庫の整理や雑務である。
 仕事終わりにアロイスたちから有意義な話を聞いたり、新しいことを学ぶための書籍も紹介してもらっているが、手伝っているのは当たり障りのないことばかりだ。
「でも、羨ましい。お手伝いなら、閲覧禁止のも読ませてもらえるんでしょ?」
 ドーリスの言葉に、エデルは目を丸くした。
 確かに一般の人間は閲覧禁止の書物も読ませてもらっているが、あれらは彼女のような年頃の少女が興味を持つものではない。ドーリスが王城務めならば、出自は悪くないはずなので、なおさらのことだった。少なくとも、エデルの知る令嬢は、コルネリアという例外はいるものの、本より装飾品などに興味があったはずだ。
 アロイスに視線を遣ると、彼は口元を綻ばせた。
「この子は暇さえあれば図書館に入り浸る子ですからね。そもそも、出逢いが出逢いでしたから。夜な夜な図書館から少女の啜り泣きが聞こえると苦情が来た時、どうしようかと……」
「アロイス様! それは、他の人には言わない約束!」
 ドーリスは顔を真っ赤にして、隣に座るアロイスの腕を強く引っ張る。
「うう、お祖父様の命じゃなければ、侍女なんてやりたくなかったもの。どうせなら、エデルみたいに図書館のお手伝いが良かった」
 不満げに頬を膨らませたドーリスに、エデルは意外な印象を受ける。外見は少女の域をもうすぐ抜け出しそうなほど大人びているのに、ねた子どものようだった。
「ドーリス様は、どんな本が好きなんですか?」
 気付けば、エデルは彼女に話しかけていた。そうして、同年代の少女に自分から話しかけるのは、ほとんど初めての経験だと気付いた。
 彼女は一瞬驚いたように目を見開いて、それから、じっとこちらを見つめてくる。
「ドーリス、と呼んで。……本なら、なんでも好き。心が落ち着くから」
 やがて、ドーリスはわずかに笑んだ。控えめだが可憐な笑顔に、エデルも自然と微笑む。
 その後に続いたささやかな茶会は、とても楽しいものだった。
 度々言葉に詰まるドーリスだが、話せば話すほど色々なことに造詣ぞうけいが深い少女だった。同年代の少女たちの話題についていけなかったエデルにとって、彼女との会話は驚くほど肩の力を抜くことができた。
 自分には友人と呼ぶべき人物がいたことはない。だが、茶会の最後、はにかみながら笑顔を向けてくれた彼女とならば、良き友になれるような気がした。