花と髑髏

第二幕 長い冬の終わりに 13

 一人朝食をとったエデルは、自室に戻って引き出しに仕舞い込んでいた袋を取り出す。小分けにされた粉末の一つを手にとって、用意していた水と共に口に流しこんだ。
 ほとんど身一つで過去に招かれたエデルの数少ない私物の一つが、コルネリアから受け取った薬とは、乾いた笑みが零れ落ちてしまう。イェルクから棄てられた今、この薬は不必要なものであるのに、未練がましく服用することを止められなかった。
 図書館に向かうために格好を改めようとしたエデルは、不意に鏡に映り出した自分の違和に気づく。剥き出しになった胸元に視線を遣って、エデルは凍りついた。
 そうして、気づけばそのままの格好で走り出していた。すぐ近くにあるディートリヒの部屋に駆け込むと、彼は椅子に座って小さく欠伸をしていた。徹夜明けなのか、青白い顔は若干窶れて翳が感じられる。
「ディー、見て!」
 肌蹴た状態のまま、エデルは声を張り上げて彼に近寄った。
「エデル? ……っ、なにやってるの!」
 ディートリヒは慌てて自らが着ていた上着を脱いで、エデルの肩にかける。その様子に首を傾げたエデルは、自らの胸元を指差して彼に見せつけた。
「新しい魔女文字が、浮かんでるの」
「え?」
 ディートリヒは間の抜けた声をあげた後、恐る恐るエデルの胸元に手を伸ばす。紫水晶の瞳を鋭くさせた彼は、刻まれた魔女文字に指先を這わせる。
「堕ちた太陽が昇り
 長い冬の終わりに
 四百の夜を超えて
 月の光が導く朝で
 花は朝焼けに咲く」
 文字を読み上げた彼は、口元に手を当てて考え込むように眉をひそめた。
「新しい文字が浮かんだのは良いけど、まだまだ曖昧な定義付けだね」
「でも、魔術の行使には、他にも何か条件があると言っていたよね……?」
 出逢ったばかりの頃を思い出して、彼に問いかける。定義付けは絶対条件でしかなく、他にも何かしらの条件があると彼は口にしていたはずだ。
「触媒のことだね。魔術を行使する際に、定義付けを強めるために何かしら縁のあるものを目印にするんだ。――たとえば、今回の場合なら君に縁のあるものを魔術の触媒にしているはずだよ」
 彼の言うことを頭の中で噛み砕いて、一つの疑問を抱く。
「わたしは未来の人間なのに?」
 二百年先の未来を生きるエデルと縁のあるものなど、果たしてこの時代で手に入るのだろうか。
「未来の人間でも――ううん、未来の人間だからこそ、君と縁のあるものがこの時代にあっても可笑しくないんだよ。時間とは連なるものであり、過去は未来に繋がっているのだから」
 ディートリヒの言うとおりなのかもしれない。エデルの生家であるカロッサ家は廃れているものの歴史だけは古く、この時代にも存在している。エデルと縁のあるものが――これから縁ができるかもしれないものが、この時代にあっても不自然ではない。
「まあ、ひとまず触媒のことは置いておこう。触媒の有無に関わらず、定義付けが不十分なことに変わりはないからね。……もしかして、エデルだけなく別の物にも魔女文字を刻んでいるのかな」
 呟いたディートリヒは、魔女文字をもう一度なぞった。
 その冷たい手の感触を意識した途端、エデルは思わず後退してしまった。
「エデル?」
 エデルは視線を落として身を震わした。ディートリヒの上着を被っているものの、胸元は肌蹴たままのはしたない格好をしている。
「どうかしたの?」
 気遣わしげな彼の声に応えることができず、頬にわずかな熱が宿った。
 羞恥心などあるはずがなかった。実際、この時代に招かれた当時ならば、彼に肌を晒すことに躊躇いさえ抱くことはなかっただろう。
 だからこそ、何故、心臓が早鐘を打つのか理解できない。
「あの、わたし、図書館行ってくるから」
 ディートリヒの返事を待たずに廊下に飛び出したエデルは速足で部屋に戻り、着替えを済ませる。
 花冠の塔から逃げるように出て、赤くなった顔のまま図書館へ至る王城の廊下を進んでいく。まだ図書館に向かうには早いと分かっているが、先ほどの光景が脳裏を過り、花冠の塔にいることが居た堪れなかった。
「どうか、してる」
 胸元を握りしめてエデルは唸るように呟いた。
 ディートリヒが興味を持っているのは、エデルではなく時の魔術だ。乾いて骨ばった、イェルクとは違う男の指先なんて忘れてしまえば良い。それなのに、速まっていく鼓動を抑えきれない。
「何が、どうか、してるの?」
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには黒髪の少女が立っていた。
「ドーリス? いつからそこに……」
 そう口にしかけたエデルは、目を見開く。
 彼女の様子は明らかに常と違った。頬は赤く染まり、潤んだ黒い瞳はうまく焦点が合わず揺れている。目元には色濃く隈があり、足元がおぼつかないのか壁に手をついて歩いていた。
「どうしたの……? 具合、悪い?」
 慌てて彼女に駆け寄ったエデルは、その額に手を伸ばす。掌から伝わった熱に自然と眉をひそめてしまった。
「ううん。大したこと、ないの。ちょっと頭が痛くて吐き気がするだけで……。でも、今日、アロイス様と約束した日だから」
 ドーリスは気持ち悪さを我慢するように唇を噛み、再び歩き出そうとする。その様子を見ていられなくて、エデルは彼女の手を握って引きとめる。
「だめ、今日は休んだ方が良い」
「でも、……約束、したもの。はやく会いたい。会わなきゃ、きっと後悔するから」
「会おうと思えば、いつでも会えるでしょう? 今日は戻ろう、ね、そうしよう?」
 宥めるように言うと、彼女は小さく首を横に振った。
「いつでも会えるなんて、ことないから……。離れなくちゃいけなくなるまで、離されてしまう時まで、時間を大切にしたい」
 青紫色の唇が震えた瞬間、彼女の身体が大きく傾いだ。
「ドーリス!」
 その身体を咄嗟に支えたエデルは、少しだけ逡巡した後、半ば引き摺るような形で彼女を連れて歩き出す。この場所からだと、王城にある使用人の居住区より、図書館の仮眠室の方が近い。
「……っ、ドーリス!」
 図書館の入り口にさしかかると、受付にいたアロイスが彼女の名を呼んで駆けつけてくる。
「アロイ、ス様? そこに、いる?」
 力なく微笑んでか細い声を出したドーリスに、彼は顔を歪めた。
「……ええ、ここにいますよ。少し眠ったほうが良さそうですね」
 彼女の目を閉じさせた彼は、その身体を抱き上げ奥にある仮眠室へと連れていく。エデルも小走りになって彼に続いた。
 人気のない仮眠室で、アロイスはドーリスの身体を横たえる。彼と会って安心したのか、彼女の唇からは幽かな寝息が零れ落ちていた。
「エデル。ドーリスを連れてきてくれてありがとうございました。約束の時間になっても来なかったので、何かあったのかと心配していたんです」
「いえ、大したことはしていませんから……。大丈夫なんですか?」
「おそらく病気ではないので、安静にしていれば大丈夫だと思います。心配なら、彼女が目覚めるまでここにいてくれませんか? きっと喜びます」
「お邪魔しても良いんですか? せっかく、二人きりなのに」
 エデルが遠慮がちに問いかけると、アロイスは目を瞬かせた。
「そんなに、分かりやすいですか?」
 エデルは小さく頷いて肯定する。互いを見つめる瞳に籠められた熱は、誰が見ても明らかだろう。まるで、イェルクとコルネリアを見ているかのようで、見る度に胸が締め付けられた。
「ねえ、アロイス様。どうして、……ドーリスのことを好きだと思ったんですか」
 想い合う二人を見ると、エデルの胸にはいつも一つの疑問が浮かび上がる。
 ――恋をするとは、どのようなものなのだろうか。
「笑っていてほしかった、できることならば私の隣で。泣いている彼女を見ていることが嫌だったから、私は彼女が好きなのだと思いました」
 それが恋だと言うならば、エデルがイェルクに抱いていた気持ちも、紛れもなく恋だったと信じて良いのだろうか。ずっと彼の泣いている顔が嫌いだった。できることならば、エデルの隣で笑っていてほしかったのだ。
 その役目は、結局、エデルのものにはならなかったけれども――。
 かつてのエデルは、確かに彼に恋をしていたのだろう。
「ディーだって、きっと貴方に対して同じように思っていますよ」
「……どうして、彼が出てくるんですか? あの人がわたしを傍に置いているのは、好きだからではありませんよ」
 ディートリヒの目当てはこの身に刻まれた時の魔術だ。エデル自身に興味を抱くことはなく、まして想いを寄せることなど有り得ない。
「ですが、ディーは貴方に甘えているように見えました。貴方になら遠慮せずに我儘を口にしている。違いますか?」
「それは、あの人がわたしの雇い主だからでしょう?」
 アロイスは首を横に振って否定する。
「いいえ、彼が我儘を言うのは相手が彼にとって特別だからです。――彼は試しているんです、我儘を言っても変わらず自分の傍にいてくれるのか。昔から臆病な子どものような人で、今も変わりません」
 苦笑したアロイスは、横たわるドーリスの頬をそっと撫でた。壊れものを扱うような手つきだった。
「できることなら、どうか傍にいてあげてください。ディーはとても寂しがり屋なんですよ」
 そう呟いたアロイスの声音には、ディートリヒを案じる響きがあった。

  ◆◇◆◇

 花冠の塔に戻り、書斎に足を踏み入れたエデルは苦笑する。
 毛足の長い絨毯の上で、背の高い青年が身体を投げ出していた。徹夜明けの身体を引き摺って書斎に入ったものの、そのまま力尽きて寝てしまったのだろう。
 エデルは彼の傍に近寄って屈みこむ。青白い頬に手を伸ばすと、彼は甘えるように頬をすり寄せて来た。その行動に、アロイスの言葉が思い出される。
 ディートリヒは、アロイスの言うとおり寂しいのかもしれない。
 だが、彼が我儘を口にするのは、エデルがいつか帰る人間だからだ。彼の中にはフェルディナント以外は存在できない。二百年後から来た少女のことなど、四百の夜を超えた暁に何でもなかったかのように忘れていく。
「ディー、寝るなら、自室に戻ってください」
 ほんの少し窶れた頬を指で突くと、彼は薄らと目を開いた。
「帰って、たの?」
 エデルは小さく頷くと、彼は気だるげな様子で前髪を掻きあげた。
「……今、いつ? 兄上は?」
「御昼時が終わった頃です。フェル様がいらっしゃるのは、今日ではなく明日ですよ。ほら、はやく自室に戻って寝てください。何日、徹夜しているんですか」
 おぼつかない足で立ちあがった彼は、案の定、均衡を崩してエデルの方に倒れてくる。慌ててその身体を支えようとするが、体格差故に支えきれず、床に腰を打ちつける。痛みに顔を歪めたエデルは、彼の頭を軽く叩いた。
「もう、何しているんですか……」
 彼は応えることなく、エデルの肩に顔を埋めてきた。突然の行動に、エデルは抵抗することも忘れて目を瞬かせた。
「君は、温かいね」
 驚くほど柔らかな彼の声が、当たり前のことを口にする。
「まだ、寝ぼけているんですか? 生きているのだから、温かくて当然でしょう」
「でも、……僕は冷たい。生きてるけど、人じゃないからかな」
 寝起きだからだろうか、まるで小さな子どものような口ぶりだ。
 死ねない己の身体を自虐するディートリヒに、エデルは何も言うことができなかった。
 ――貴方は人だ、と伝えたところで、彼の心には響かないだろう。
「冷たくて寒いから、傷がうずくんだ。化物のくせに、どうしてだろうね」
 彼は自らの胸元に手をあて、それから首筋に骨ばった指先を這わせた。
 胸元から腹部にかけて刻まれた傷だけではなく、自ら突いた喉が疼いているのだろう。あるいは、疼いているのは麻痺してしまった彼の心なのかもしれない。
 古傷に触れるディートリヒの手に、そっと小さな手を重ね合わせる。そうして、エデルは彼の指先をなぞるように刻まれた傷痕を撫でた。表面上の傷は塞がっても、心の柔い場所に刻まれた傷は未だに癒えていない。
「……どうして、僕は死ねなかったのだろう」
 エデルは堪らず、彼の頭を抱きしめた。
 愛しい兄の道を阻むと知りながらも死ねない自分に、彼は吐き気がするのだろう。その気持ちは、エデルにも良く分かる。
 ――望まれて生まれた子ではなかった。
 むしろ、エデルもディートリヒも生まれてはいけない子どもだったのだ。