花と髑髏

第三幕 四百の夜を超えて 22

 まだ薄闇が空を包みこんでいる朝方、エデルとディートリヒは花冠の塔を出た。
 ――あの騒動から、既に二十日ほどの月日が流れた。
 フェルディナントは変わらず王として君臨している。凛とした横顔は、これから賢王の治世が始まることを思わせた。
 彼がしてきたことは赦されることではない。守るべき民の多くに苦痛を与えた責任と罪を、彼は背負っていかなければならない。
 それでも、どうか逃げることなく、多くの民を幸せにしてほしい。彼のしたことが赦されることはないが、向き合って償っていくことが無意味であるはずがない。
「ディー、アメルンのこと、本当に良かったの?」
 メルヒオールを喪ったアメルンの一族は、ディートリヒが一時的な長となって魔術師たちを束ねている。未だに反発は多いが、落ち着くのは時間の問題だと彼は苦笑していた。
「建国よりも昔、女神の加護を受ける前の僕たちは、ただの薬師に過ぎなかった。だから、元に戻るだけなんだよ」
 これから魔術を失っていくアメルンの一族たちを集めて、彼は一つの部署を構想している。それこそが、エデルの生きる時代にある国立研究機関――花冠の塔の前身となるのだろう。
 小高い丘に辿りついて、ディートリヒは足を止める。
「やっぱり、ここで見る朝焼けが一番綺麗だ」
 彼は昇り始めた太陽と、空を染め上げる朝焼けに目を細めた。灼熱の赤と陽光の金が混じり合った朝焼けが、彼の美しい顔を照らしていく。
 彼はおもむろに両手を広げ、柔らかに微笑んだ。
「おいで、エデル」
 エデルはゆっくりと歩み寄って、躊躇いがちに彼の胸に飛び込む。彼はエデルの背に腕をまわして、包み込むように抱きしめた。
 ディートリヒの身体は死人のように冷たかったが、エデルにとっては何よりも温かく感じられた。
 ――貴方は人だ。
 氷の身体でも、こんなにも温かな心を持っている。化物などであるはずがない。
「大好きだよ、エデル。朝焼けの名を冠する僕の花」
 自然とエデルの頬を透明な涙が伝った。幸せを感じているのに、悲しみが霧のように立ち込めていて、上手く息をすることができない。
「永遠が手に入らなくても良いんだ。限りある時間で君を想うから、愛するから。忘れないで。……どうか、僕を愛していて」
 その台詞は、愛の囁きと言うより懇願に近かった。
「そんなの、嫌。限りある時間なんて、嫌だ」
 叶わぬ未来だと知りながらも、共に生きて、共に死にたかった。時の魔術など、永遠に解けなければ良いと願った。
「ずっとが良い、……永遠が、良い」
 傍にいて欲しいと願った者のすべてが掌から零れ落ちていく。ようやく巡り合えたはずの、この命を認めてくれた人は、エデルと同じ時を生きてはくれない。
「それでも、僕と出逢ったことを君は後悔しないはずだ。僕はエデルと巡りあえて幸せだから。――僕の幸せを、君は悔いたりしない」
 紫を帯びた彼の瞳には、エデルが持てないでいる覚悟が刻まれていた。彼のことを手のかかる子どものようだと感じていた時もあったが、勘違いだったとさとる。
 少なくとも、駄々を捏ねるエデルよりも彼は大人だった。運命を受け入れるだけの強さと覚悟を、彼は持っていた。
「別れの日まで、手を繋いでいよう。時の流れは戻るけれど、僕と君の時間は離れるけれども。のこされるものはあると、僕は信じるから」
「……ディー」
「君と出逢ったばかりの頃、僕は未来のグレーティアがどうなろうと知らない、と言った。あの言葉を撤回するよ」
 ディートリヒの大きな右手が、エデルの頬に宛がわれた。泣きじゃくるエデルと目線を合わせて彼は笑う。
「君が生きる未来を、僕は幸せなものにしたい。これから歩む時間が君に続くと言うならば、……これは永遠の別れではない。僕の命が君に繋がるなら、それは不幸ではない」
 自らに言い聞かせるような告白に、エデルは彼の首に手を伸ばした。触れた場所から彼に伝わる熱は、離れた後もなかったことにはならない。
 こんなにも愛おしいと想う心は、消えたりしない。
「月の光が導く朝で、朝焼けの花は美しく咲くだろう。時は繋がっている」
 たとえ、二度と手が届かなくなろうとも、遺されたものを抱いて生きていこう。こんなにも彼が自分を想ってくれるならば、それ以上の想いを返してあげたい。
「ねえ、……過去は、あげられないから、貴方にはわたしの未来をあげる。ずっと一緒にはいられないけど、これから先の時間は、いつも貴方を想って生きていく」
 彼が繋げた未来が、エデルの生きる時間だ。それは、この場所ではない。彼が愛してくれたのは、二百年先を生きるエデルなのだ。
「忘れても良いよ、ディートリヒ。貴方の幸せを祈っている、貴方を、愛しているから」
 互いの額を合わせて、エデルは目を閉じた。

  ◆◇◆◇

 眩しい朝日の差し込む部屋で、エデルは自分の胸元を見下ろした。
 ――今日、エデルは十六歳の誕生日を迎える。
 ディートリヒのもとを訪ねると、彼は少しだけ驚いたような顔をして、それから苦笑した。
「やっぱり、今日がそうなんだね」
 エデルの胸元にあった魔女文字は、目を凝らさなければ見えないほど薄くなっている。この分だと、今日中には綺麗に消えてしまうだろう。
 彼の傍に近寄ったエデルは、そっと手に持っていたリボンを差し出した。レース編みの白いリボンは、たった一度、彼と共に城下町に出かけた際に買ってもらったものだ。髪に飾る勇気を出せず、ずっと引き出しの奥に入れたままだった。
「ディーが、飾ってくれませんか?」
 すべてのことが落ち着いた時から、エデルは決めていた。別れの日には、大切に仕舞い込んでいたリボンを、彼の手で髪に飾ってもらおう、と。酷なことだと知りながらも、彼に背中を押してほしかった。
「いいよ」
 エデルを鏡台の前の椅子に座らせて、ディートリヒはそっと髪に触れた。灼熱の赤と陽光の金が混じり合う髪を、彼は指で梳いて丁寧にリボンを編み込んでいく。
 骨ばった指先が項や耳の後ろをかすめる度に、エデルはかたく目を瞑った。そうしていなければ、今にも泣き出してしまいそうだった。
「エデル」
 名を呼ばれた瞬間、彼が後ろから覆いかぶさるようにエデルの身体を抱きしめた。
「……アロイスたちを呼んであげる。別れの挨拶くらい、したいだろう?」
 そう言ったディートリヒに、エデルは頷いた。


 ディートリヒが王城に遣いを出してから、それほど時間が経たぬうちに、アロイスとドーリスは花冠の塔に駆けつけてくれた。
 いつもと違う服装――元の時代で纏っていた侍女服に身を包んだエデルを見て、彼らは今日呼ばれた理由を察したようだった。
「来てくださり、ありがとうございます」
 ドーリスは、何処か居心地悪そうな様子で、アロイスよりも半歩下がって佇んでいた。メルヒオールに荷担したことを、彼女はずっと後悔していただろう。
 だが、エデルには彼女に対する恨みはなかった。
「ドーリス、身体の方は大丈夫? 無理していない?」
「……ありが、と。元気に、育っているって」
 言葉に詰まりながら、彼女は自らの腹部に手をあてた。
 彼女が守りたかった赤子は、無事に成長を遂げているらしい。以前よりも随分と大きくなった彼女の腹を見た後、エデルはアロイスに視線を遣る。
「今さら聞くのもどうかと思っていたんですけど……。アロイス様、確信犯でしたよね?」
 具合の悪いドーリスを図書館に連れて行った際に、病気ではないと思います、と彼はっきりと言ったのだ。彼自身、思い当たるふしがあったからこその台詞だろう。
「さあ、どうでしょうね」
「二人して、何の話、してるの?」
 首を傾げたドーリスに、エデルは苦笑する。
「この子が生まれるのを見られないのが、残念だな、と思って」
「そうですね、是非、貴方には生まれた子の姿を見てもらいたかった。……貴方がいないと寂しくなりますね。とても楽しい日々でしたから」
 そう言ったアロイスは、エデルの手を握りしめた。図書館の手伝いをしている間、彼には随分と良くしてもらった。他の司書たちと分け隔てなく接して、様々なことを教えてくれたアロイスには感謝している。
「わたしも、とても楽しかったです。――だから、お約束します」
「約束?」
 単眼鏡モノクルの奥で蜜色の瞳を揺らしたアロイスに、口元を綻ばせる。
「貴方が中興させる家は、未来でも消えさせない。わたしが守ります」
 燃えるような赤毛と蜜色の瞳は、カロッサ家に代々受け継がれてきた色だ。彼の手が導く先にエデルの明日があるのならば、彼が繋げた家を守っていきたい。
 朝焼けの髪を風に遊ばせたエデルは、そっと彼から手を離してドーリスの傍に寄る。
「……エデル、もしかして、貴方、は」
 何かを言いかけた彼女の唇に、そっと指をあてた。
「幸せに。ちゃんと、わたしに命を繋げてね」
 その瞬間、彼女は大粒の涙を流してエデルを抱きしめた。柔らかな肢体に包まれて目を伏せると、とても優しく、甘い香りがした。エデルは母の抱擁を知らないが、きっと、このように温かなものなのだろう。
 彼女の胎に宿った赤子は、母に愛されて幸せに育つに違いない。
「アロイス様。ドーリスを、お願いします。わたしの……、初めての、友だちなんです」
 そっとドーリスから身体を離すと、アロイスは力強く頷いて、泣きじゃくる彼女の肩を優しく抱きとめた。何も知らないはずの彼は、生来の聡さ故か、これが今生の別れとなることを理解しているようだった。
「エデル」
 少し離れた場所でこちらを見守っていたディートリヒが声をかけてくる。エデルは小さく頷いた。
「さようなら、アロイス様、ドーリス」
 二度と会えない大事な人たちに背を向けて、エデルはディートリヒと一緒に歩き出す。
 やがて小高い丘に足を踏み入れると、彼は足を止めた。
「君が帰る前に、渡したかったものがあるんだ」
 そう言った彼は、一冊の本を差し出してきた。真白な装丁の分厚い本は、慌てて製本したのか辛うじて綴じられているだけの粗末なものだ。
「あげる。――きっと、先の時代で君のためになるから」
 手渡された本を開いたエデルは、思わずディートリヒを見上げた。それは魔女語について書かれた本だった。
「あまり時間がなかったから、全部を記すのは無理だった。だけど、基本的なことは網羅している。賢い君なら、大丈夫だよ」
 イェルクに棄てられた、と言ったエデルを案じてくれたのだろう。先の時代で、独りになったとしても生きていけるように気遣ってくれたのだ。
 涙で潤んだ瞳を隠すように俯くと、彼はエデルの頬を大きな手で包んで顔をあげさせる。
「ほら、顔を見せて。寂しいよ」
 瞬間、堪えていたはずの様々な感情が込み上げて胸を穿った。
 もう、この冷たい手が触れてくれることも、柔らかな声が語りかけてくれることもないのだ。交わるはずのなかった道は元に戻り、二人は別々の場所を生きていく。
「ねえ、エデル。僕の夢を、聞いてくれるかな」
 今にも泣き出しそうなエデルに向かって、彼は青紫色の唇を開いた。
「僕はね、眠りに就くときはこの丘で眠りたいんだ。大好きな花が咲いていたこの地に、死してからも寄り添いたい。そうして……、いつか、君に巡り会う未来を夢見させてほしい」
 荒れ果てた土地を見渡したディートリヒは、優しく囁く。柔らかな春風が二人を包み、互いの瞳からは愛しさばかりが溢れ出していた。
 ――この人に巡り合えた運命に、感謝を。
「また、……会える、の?」
 ディートリヒは頷いて、エデルの頬をそっと撫でた。大きな手に頬をすり寄せて、エデルは幽かに笑みを浮かべた。
 重ねられたのは羽のように軽い唇だった。
 額に、瞼に、唇に落とされた口付けは優しかった。降り注ぐ唇はひらすらに柔らかく、甘く胸を締め付ける。

「この丘で、また会おう。エデルガルト」

 淡い光が周囲を包み込み、ディートリヒは微笑んだ。伸ばした手はすり抜けて、エデルは声にならない悲鳴を必死で飲み込んだ。
 ただ、笑顔のままに。
 再び出逢う彼がどのような姿であろうとも、エデルは笑って再会を祝そう。
 これは、永遠の別れではないのだから。