花と髑髏

第三幕 四百の夜を超えて 23

 暗闇の中に、静謐な月の光を見た。夜明けを導く美しい光は、エデルを暗闇から連れ出す。
 薄らと目を開けると、輝く金髪を短く切り添えた青年がエデルの顔を覗き込んでいた。身を起こしたエデルは、随分と大人びてしまった青年を見上げる。かつての少年の面影はなくなり、その顔立ちは何処となくフェルディナントに似ていた。
「イェルク?」
 朝焼け色をしたエデルの髪を梳いて、イェルクは太陽のような笑みを浮かべる。それはかつてと変わらない、エデルと共に在った笑顔だ。
「おかえり、エデル」
 何故、彼に見捨てられたなどと思ったのだろう。距離を置いたのは、彼が注いでくれた家族愛を身勝手に踏み躙っていたのは他でもないエデルだ。望む想いをもらえないからと癇癪を起して、ずっと、エデルは彼の愛情を疑っていたのだ。
 ――ああ、今ならば、伝えることができるだろう。
「兄、様。……結婚、おめでとう」
 あの時、彼にだけは伝えることのできなかった祝福。幸せになるイェルクを受け入れることができず、その背を見つめていた少女はもういない。今ならば、彼の選んだ道を祝福することができる。
 イェルクは泣きそうに目を細めて、それから、エデルの細い身体を強く抱きしめた。
「ありがとう。俺の、可愛い妹」
 一言一言を噛みしめるように口にしたイェルクの背に恐る恐る腕をまわして、エデルは身体を震わせる。
「……っ、わたし、大切な人ができたの」
 貴方以外に、恋をした。貴方とは違う人から、自分の生を認めてもらった。
 子どものように声をあげて泣いて、イェルクに縋りついた。もう二度と会えなくても、いつまでも愛そうと決めた人がいる。
 心の中で、月の髪をなびかせて愛しい人が微笑んでいた。
「知っている。お前が愛した人は、誰よりもお前を愛していたよ。決して、忘れなかった。共に過ごした時間をなかったものにしたくなくて、……そのために生きたんだ」
 時の魔術が廃れたのは、払う代償に起因する。エデルが過去に在る一年間のために、その何十倍もの時間をかけてひたすらに魔術を構築していくのである。それは気の遠くなるような作業で、水晶の老衰との戦いとなっただろう。
 それでも、エデルが去った時代で、彼は生涯に渡る賭けに勝ったのだ。
「さあ、顔をあげろ。――綺麗だろう?」
 背を優しく叩いてくれたイェルクに導かれるまま顔をあげて、エデルは息を呑んだ。
 見覚えのある巨大な水晶の向こう、壁一面にいくつもの絵が飾られていた。
 一枚一枚、描かれている者は違った。こちらに笑いかける朝焼け色の髪をした少女、幸せそうに寄り添う女性と単眼鏡の青年、賢王と謳われた青年に抱かれた金髪の赤子たち。
 そして、中央に飾られた大きな絵には二つの影があった。
 柔らかな髪を風に遊ばせた少女の傍に、月光のように冴え冴えとした美貌の男が佇んでいる。二人は寄り添い合うように手を繋ぎ、互いに優しい眼差しを向けていた。

 ――僕の最愛の花へ、幸せな未来を贈る。決して君を忘れはしない。

 絵の隅に刻まれた言葉に、エデルは再び涙を流した。