花と髑髏

終幕 月の光が導く朝で 24

 甘い花の香りをのせた春風が、長く伸ばした柔らかな髪を攫っていく。髪に編み込んだ白いリボンを軽く手で押さえながら、エデルは漂う春の匂いに足を止めた。柔らかな陽光に包まれていると、心は何処までも穏やかになった。
「エデル! エデルガルト!」
 背後から名を呼ばれた瞬間、ドレスの裾を掴まれる。視線を落とせば、金髪に碧い瞳をした愛らしい少年がこちらを見上げていた。
「ゼルギウス様」
 愛しい異母兄の子、決して公言はできないが自らの甥にあたる少年に、エデルは屈みこんで目を合わせた。
「どうかしましたか?」
 小首を傾げて問いかけると、彼は満面の笑みを浮かべる。好奇心旺盛で陽気な性格は幼い頃のイェルクと真逆なのだが、笑い方は驚くほど似ていた。
「今日、勉学は御休みなんだろ! なあ、俺と一緒にいよう?」
 魔女語に関する学者として身を立てはじめた傍ら、エデルはゼルギウスの教育係の一人として月に数回ほど彼についている。聡明なコルネリアに似たのか、彼は土が水を呑むように知識を吸収していった。
「とても嬉しいお誘いなのですが、残念ながら今日は予定がありまして」
「えー、予定なんて今度で良いだろ!」
 駄々を捏ねるゼルギウスに苦笑していると、目の前で小さな身体が抱きあげられる。
「ゼル、あまりエデルを困らせるな」
「イェルク様」
 息子を窘めるように苦笑した男に、エデルは立ち上がって微笑む。すっかり父親の顔になった彼は、抱きあげた息子と額を合わせた。
「だって、父上」
「だって、ではない。エデルの代わりに俺が遊んでやるから、今日は諦めろ」
「父上と遊んでもつまらないもん! エデル、ね、俺といようよ」
 上目遣いで甘えるように口にしたゼルギウスの頭を撫でて、エデルは目を細めた。子ども特有の我儘が、脳裏に一人の男を思い浮かばせた。
 幾度季節が廻ろうとも、変わらず心に刻まれたままの愛する人。
「ごめんなさい。今日はお赦しください」
「でも……、俺、一緒に、お祝いしたい」
 小さく呟いたゼルギウスに、エデルは目を丸くする。どうやら、彼は今日が何の日か知っていて、声をかけてくれたらしい。
「ありがとうございます、ゼルギウス様」
 ――今日は、エデルの二十回目の誕生日だ。

  ◆◇◆◇

 王城を出たエデルは、鬱蒼とした森を歩く。
 この時代に戻った時、イェルクの口から伝えられたのは、この森がディートリヒが創り出したものだということだった。彼が望んだ者以外は足を踏み入れることができない、特別なものらしい。
 国守の水晶を保管する花冠の塔を守るために、彼が講じた策の一つだった。
 森を抜けると、視線の先には彼と過ごした花冠の塔が見える。今は花守の墓と呼ばれるその塔を見る度に、エデルの胸は締め付けられた。
 あの別れから、既に四年の歳月が流れた。背丈こそあまり伸びなかったが、薬の服用を止めた身体は少しずつ女らしくなり、今では少年のように平坦だった身体が嘘のようだ。
 丘一面に咲く朝焼けの色をした花の上に座り込んだエデルは、そっと目を閉じる。瞼の裏では、銀の髪を風になびかせた美しい青年が微笑んでいた。あと数年もすれば、自分は記憶の中の彼に追いついてしまう。
 ――ディートリヒ・アメルン。
 片時も忘れたことなどない、エデルの生を認めてくれた人。
 こうして自分の名が付けられた花に埋もれていると、彼の息遣いが聞こえてくる気がした。もう二度と触れ合うことなどできないと分かっていても、直ぐ近くに彼が寄り添ってくれているように思えた。
「また、会えるんじゃなかったの……?」
 小さく呟いた時、花に埋めた指先が固いものに触れた。自然と目を向けると、それが過去に招かれる直前に見つけた黒い石だと気付く。
 連鎖的に石に刻まれていた紋様を思い出して、エデルは息を呑んだ。
 ――ただの石だと思っていたものが、エデルの勘違いでないのならば。
 石の表面をなぞる様にして刻まれた紋様は魔女文字だった。一つ一つ確かめるように何度も指でなぞって、エデルは唇を震わせる。
「ディートリヒ・アメルン。ここに、眠る」
 ――僕はね、眠りに就くときはこの丘で眠りたいんだ。
 そう言った彼の墓石に縋りついたエデルの膝が、傍に半ば埋まった何かに触れた。ドレスが汚れることも厭わずに、無我夢中で土を掻きわける。地中の石が指先を傷つけ血が滴ったが、気にする余裕などなかった。
 やがて現れたのは、宝石の散りばめられた豪奢な箱だ。表面の土を払って、震える手で箱を開けたエデルは息を飲む。
 仕舞いこまれていたのは、額に紫水晶を宿した髑髏だった。
「また、会えたね。ディートリヒ」
 髑髏を両手に掲げて、エデルは彼の名を呼んだ。
 ああ、彼は美しい花々に囲まれて、望んだとおりこの丘に寄り添ったのだ。
 月のように輝く白銀の髪も、深い孤独を湛えた紫の瞳も、優しい笑顔も憶えている。繋いだ手から伝わった温もりも、抱き合った時の鼓動も、彼が与えてくれた全てのものがエデルの中で息づいていた。
「花が、咲いているの。貴方が望んだ世界だよ」
 土地が枯れ荒野のようだったこの地は、今では愛らしい花々で満たされている。滅びることなく脈々と受け継がれた血は、今を生きるエデルに流れているのだ。
 ディートリヒと過ごした時間が、エデルに命を繋げた。
「ずっと、ずっと……、愛している」
 隣に手を繋いだ人がいなくても、月の光が導く朝で、朝焼けの花は美しく咲いてみせよう。
 髑髏の額に色づいた紫水晶に口づけて、エデルは涙を流しながら微笑んだ。

 ――貴方の夢見た未来を、わたしは生きるのだ。