口付けは甘く

 ある日の終礼後でした。
「日比谷、残ってアンケートの集計やってくれ。連絡は以上」
 不真面目な教師は、またもやわたしに仕事を頼みます。
 いえ、もう頼むというより投げ捨てていると言ったほうがいいかもしれません。わたしが断らないのを知っているのでしょう。わたしに断らせるつもりがないのでしょう。
 授業を終えた解放感に、放課後の喧騒が始まります。
 クラスの人たちは皆、部活や遊びなど、各々の行動を取り始めました。
 そんな中、わたしは黙って教師の押し付けたアンケートを自分の席に持っていきます。
 暫くして、教室にはアンケートの集計をするわたしと――何故だか颯さんだけが残りました。
 彼とは頻繁に放課後話すようになりましたが、それは毎日というわけではありません。何日か空くことが普通なので、昨日話したというのに今日も彼がここにいるのは不思議なことでした。
「手伝うよ」
 彼は短くそう言って、わたしの机と向かい合わせになるようにもう一つ机を合わせました。その席に座った彼、お互いの顔が良く見えます。
「…………、ありがとうございます」
 相変わらず、人間のふりをしたような笑顔です。



 暫く無言で集計をして、わたしはふと顔をあげました。
 硝子玉の瞳が、こんなにも近くに在ります。考えてみれば、ここ最近のわたしはとても幸せ者なのではないでしょうか。
 欲しいものを間近で見られることの幸福に酔いしれながら、わたしは彼を見つめていました。
「日比谷さんって、やっぱ面白いね」
 わたしの視線に気づいて、颯さんは顔を上げて柔らかく微笑みました。
 睫毛が影を作るほど長いです、唇はわたしよりも綺麗な桜色をしています。鼻は低いけど小振りで形が良いです。人形のように白い頬には、僅かに雀斑が散っています。それさえも、一つの芸術品のように美しいのです。
「そんなに視られると、照れちゃうんだけど」
 いつものように軽い口調で、彼は肩を竦めました。相変わらず、その瞳は美しいまでに空っぽです。
 思わず、感嘆と共に言葉がこぼれ落ちました。
「――、綺麗、でしたから」
「は……?」
 不思議そうに問いかけた颯さんを見て、わたしは慌てて付けたしました。
「颯さんの顔が、とっても綺麗でしたから」
 その瞳が欲しい。
 焦がれています。美しいまでに空っぽで、綺麗なほど澄んでいます。わたしは自分の顔が綻ぶのを抑えることができません。
「ありがとう、――日比谷さんも、綺麗だし可愛いよ」
「……? ありがとう、ございます」
 彼の軽いお世辞を、わたしは流しました。
 以前に、彼に可愛いと言われた時は動揺しました。お世辞だというのに莫迦な話です。
「今日はこれから何かあるの? すごく、嬉しそうな顔をしてるけど」
 彼はまた微笑みを浮かべました。作り笑いなのでしょうが、そんな些細なことはわたしは気にしません。
 彼はとにかく、とても良く笑う人です。本当か嘘か、――わたしには推し量る必要もありません。わたしが彼に求めているのは、その硝子玉の瞳だけなのですから。
「……、とても、良いことがありました。明日はきっと、幸せな気持ちでいられるでしょう」
 こんなにも間近で、その瞳を見ることができました。
 それが連日となれば、気分が高揚するのも無理ありません。
 彼の瞳を見られるほどの幸福が、他にあるのでしょうか。いや、あるはずがありません。
「良かったね。日比谷さんが嬉しいなら、俺も嬉しいよ」
 甘い台詞を吐きながら、彼は生徒名簿に次々と丸印を書き込んでいきます。わたしといったら、彼の半分にも満たないスピードでししか集計ができていません。
 彼が優秀だという話は、間違いではないようです。
「面白いことを、おっしゃるんですね」
 他人が幸せなら自分も幸せなんて、そんな世迷い事あるはずがありません。どこまでも自己犠牲を貫ける人間など、常軌を逸しています。他人の痛みを分かち合えないように、また幸せも分かち合うことなどできません。
 わたしがこんな風に考えてしまうのも、両親が阿呆みたいに互いしか必要としないからかもしれません。彼らの世界は二人で完結していて、わたしや弟の入る隙間は既に存在しないのですから。まったく、理不尽なものだと思います。
 だけど、その弊害のせいで今のわたしができたのならば、少しは感謝するべきなのかもしれません。
 わたしは、意外と今の自分を気に入っています。
「幸せは、分かち合えませんよ、共有できるようなものじゃないんです。だから、颯さんがわたしが幸せなら幸せだって言うのは、間違っています。痛みが共有できないのと同じなんですよ」
 彼は何も言わずにわたしの分のアンケートを取り、集計を始めました。
「わたしの両親はお互いで世界が完結しているんです。……つまり、そういうことなんですよ。本当の意味で幸せや痛みを共にしたいならば、お互いで世界を閉じてしまうしかないんです」
 二人で一つの世界を共有すること。
 それは、他の世界を棄てて二人で落ちていくことと変わりません。両親はそれを承知の上で、行動したのでしょう。
 互い以外は、全て必要のないものだと切り捨てることで、お互いを確かなものとしたのです。
「颯さんが言った言葉は、これに当てはまりません。わたしたちは、お互いで世界を完結しているわけではないのですから」
 久しぶりに長々と喋ったせいか、喉が痛いです。
 颯さんはわたしの言葉に呆けた後、またしても笑い始めました。
「あはは、ははっ……」
 いつもの作り笑いと様子が異なり、気味が悪いほどに明るく、意地の悪そうな笑みでした。
「やっぱり、君、面白いよ」
「……、そうですか?」

「じゃあ、君と俺で世界を完結させればいいんじゃない?」

 どこまでが、本気なのかわたしには分かりませんでした。
 彼の瞳はいつも空っぽなので、他の人のようにその色を読むことさえできないのです。いつもは心地良いはずのそれが、今は急に不安になりました。彼が何を考えているのか、どこまで本気なのか、わたしには推し量ることができません。
「…………、嘘、ですね」
 わたしは喉から捩り出すように声を発しました。それは上手く言葉として纏まらず、ただの音のような頼りないものでした。
 彼は、その笑みを携えたまま、わたしに手を伸ばしました。思わず身を引いたわたしを、彼は空いてる手で捕まえます。
 力強い手が、骨が軋みそうなほど強くわたしの腕を捕らえています。
「きれいな髪だね」
 そうして、柔らかくわたしの髪を撫でつけます。そこにどのような感情があるのか、わたしには分かりません。分からないのです。
 彼のことになるとわたしは何も分かりません。
 いつもは、颯さん以外の他人ならば、気持ちが悪いほどに何を考えているのか分かってしまいます。
 だから瞳が怖かったのです。
 しかし、今の状況は一体何なんでしょう。
 この思いは、――不安です。
 わたしは、恐れていた瞳の色が見えないことを、不安がっているのです。
「……、……っ……」
「大きな眼だね、可愛い」
 誰にでも甘い言葉を囁く人だとは、知っていました。
 ですが、その言葉が毒にもなるとは、知りませんでした。
 少しずつ侵されて、最後にはわたしという存在を塗りつぶしてしまいます。
 思えば、最初からそうだったのかもしれません。
 彼は、遅効性の毒です。
 わたしは、すでに、気づかないうちに侵されていたのです。
 颯さんの手が、わたしの顎を捕えました。
 包み込むように優しく、片手で捕えています。わたしの顎をそのまま掬って、彼は微笑みました。
 今までよりも、さらに柔らかく優しい。だけど――わたしはそれが怖かったのです。
 やがて、彼の顔が、わたしに近づきました。
 わたしは驚きの余り目を見開き、与えられる行為を甘んじて受けました。
「眼は、閉じるものだよ。君の瞳は好きだけどね」
 今、唇に触れた物は一体何なのでしょう。
 柔らかくて幽かに甘い、温かなものは何なのでしょう。
 理解できない、理解できません。
「だ、……え? ど、……して」
 言葉は、今度こそ紡げません。
「もっかい」
「……っ……!」
 彼の思いも、この行為の意義も何もかも分かりません。知識はあります、わたしは読書家です。でも、――何も分からないのです。理解なんてできないのです。わたしは、本の住人ではないのです。
 彼の唇は先ほどのように、すぐには離れてくれませんでした。
 身を捩っても、男の力にわたしが叶うはずがありません。
 とても長い時間でした。
 わたしにとっては永遠にも等しい、恐怖でした。
「不思議だよね。幸せも痛みも、君の言う通り共有なんてできないよ」
 息ができなかったわたしは、小さく咳をしました。
「……はっ……!」
 彼は、赤い舌で艶めかしく自らの唇を舐めました。怪しく濡れて光る唇が、恐ろしいほどに魅惑的で、またしてもわたしの恐怖を誘います。
「なのに、恐怖は伝染して、共有できるんだよ。恐怖なんて、分かち合うこと自体が虚しくて不毛なことなのに。知ってた?」
 小さく首を傾げるその後ろに、暗い影が確かに見えました。空っぽの瞳はどこまでも澄んでいて、だからこそ怖いことを知りました。
 震えるわたしの唇についた唾液を、彼は指で拭いました。わたしは、動くことさえもできませんでした。
 体が、心が、震えています。
「ばいばい、日比谷さん。また明日」
 彼が去った教室では、集計が終わったアンケートが、静かに積み上げられているだけでした。
 知っていたはずです。彼が女誑しで最低な男だということを、分かっていたはずです。自他共に認めることでした。
 どうして、わたしは勘違いをしてしまったのでしょう。
 わたしだけが例外になれるなんて過信は、心に傷を残すだけだと、気づけなかったのでしょうか。

 わたしは訳のわからない衝動で、涙を流しました。