変化する日常

 彼のことを颯さんと呼び始めた日を皮切りに、わたしと彼は、皆がいない時には、頻繁に会話をするようになりました。
 颯さんは帰宅部なので、放課後の教室で良く話をしました。わたしに対する気遣いなのか、彼は終礼後に一度教室を出て、それから、わたしだけが残る教室に戻ってきます。わたしは、大抵教師から頼まれごとか、翌日の予習で教室に残っています。
「日比谷さんは、普段何をしているの?」
 わたしの前の席の椅子に反対に座り、背凭れの上で腕を組んで颯さんは言いました。組んだ手の上に乗っている顔は、やはり美しいものなのかもしれません。
 今日は、昨日までなかった絆創膏が、右の頬に張られています。怪我をしたのでしょうか。
「――勉強、でしょうか。特には何も……」
「ふーん、勉強好きなの?」
「いいえ、まったく。やることが他にないだけです」
 好きでも嫌いでもないのです。いえ、勉強を好悪で考えるものだとは思えないのでしょう。何年も続けて身に染みた、習慣のようなものです。
「はっきり言うね」
「何かに夢中になれたら幸せなのかもしれませんけど、夢中になるものに出会ったことはないのです」
「そっか、俺も同じ。誰と過ごしていても、みんな同じにしか見えない」
 颯さんは、現在進行形で彼女がいるはずです。
 彼が恋人を切らした時期は、わたしが知る限りではありません。彼の恋人は、入れ替わり立ち替わりが激しいのです。何が原因で別れているのか知りませんが、今の話を聞く限り颯さんに原因がありそうです。
「恋人に理想を求めているんですか?」
「――そういう、考え方もできるのかな。俺は別に関係性はどうでもいいんだよ」
 颯さんの恋人からしてみれば、酷い言葉です。
 彼は俗に言う女誑しで、最低な男なのかもしれません。口にすれば彼は笑って肯定しそうでしたが、何故だかわたしは口にすることはできません。
 代わりに、今の彼女について当たり障りのない質問をしました。
「今のお付き合いしている方は、理想ではないのですか? 理想ではなくとも、それに近いからお付き合いしているのでしょう?」
 思い出しました。わたしと同じくらいの長い黒髪に、切れ長の目をした長身の美人さんでした。ピンクのアイシャドウが扇情的だったのを覚えています。
「ああ。――あいつとは別れたよ。昨日」
 淡々とした声でした。彼女と別れた事実に、何の感慨も抱いていないようです。自分には関係ないというような、矛盾した主張をしているようにも見えました。
 彼の頬に張ってある絆創膏の理由に、わたしは気づきました。
「頬の絆創膏は、別れ話の際に?」
 確か、先日読んだ本に、別れを切り出された女性が男性を引っ叩く場面があったような気がします。紅葉型の痕が残るという話は、本当なのでしょうか。一度見てみたいものです。
「良く気づいたね。そうだよ、引っ叩かれそうになって避けたときに、爪が掠ったんだ」
「叩かれては、さしあげなかったのですね」
「嫌だよ、叩かれるなんて。痛いのは嫌いなんだ」
 飄々と言った彼に、わたしは少しだけ眦を下げます。
「――原因は、聞かないほうがいいのでしょうね」
「同じだよ、いつもと」
「いつも?」
 彼は胸に手を当てて、お芝居を演じる女優のような仕草で顔をあげました。
 そのまま、おそらく昨日彼女から言われた言葉を口にします。
「颯が本当にあたしのことを好きなのか分からない。一緒に帰ってもくれない、メールもちゃんと返してくれない。付き合ってくれるって言ったのに、どうして大事にしてくれないの? だってさ」
「――そうです、か」
 本で読んだものとほぼ同一の台詞でした。女と男の別れ話というものは、本も現実も変わらぬものなのでしょうか。
「大事にされていない? それはあいつらの基準じゃないか。俺が大事にしてないなんていつ言ったんだ? 付き合ってるなら一緒に帰らなくちゃいけないのか、メールは必ず返信しなくちゃいけないのか?」
 若干の興奮と共に、彼は早口で言葉を吐き出します。
「……颯さん、落ち付いて下さい」
「そうだよ、俺はあいつのことなんて好きじゃなかったさ! でも、それなりに大事にしてたはずだ。俺のこと好いてくれるなら、俺もいつか好きになれるんじゃないかって思った。そんなの、付き合ってきた女全員に対して思ってたけど」
「好きにはなれなかったのですね……、彼女さんを。それとも、時間切れでしたか?」
「さあ、それはあいつの判断だから、俺は知らない」
 彼は、少しだけ寂しそうな顔を作りました。瞳は相変わらず、色を映さないので、彼の心はわたしには分かりません。
「俺はね、ただ、自分が好きになれるものを探しているだけなんだよ」
 自分が好きになれるものを探していると言う彼の言葉は、根拠はありませんでしたが、わたしにはそれが真意であるという確信がありました。
「女の子たちは可愛いと思う、好きだって言ってくれるのはたぶん嬉しい。だけど、無理なんだよ。どんなに可愛くても、綺麗でも、好きだって囁いてくれても――俺は、彼女たちを好きになんてなれなかった」
 無理だから、彼女とも別れたのでしょうか。彼が女の子との付き合いを一月続かせたことは、一度もないと誰かが言っていました。
 早い時で一日、遅くとも三週間程で別れているそうです。
 彼は新しい彼女ができる度に、淡い期待を抱いていたのでしょうか。もしかしたら、この子のことを好きになれるかもしれない、と希望を持ち続けていたのかもしれません。
「それは、今まで何も好きになったことがない、と言っていることと同じですよ」

「その通りだよ、俺には好きなものなんて一つもない」

 意外でした。
「…………、あんなに笑っているのに?」
 空っぽの瞳をした彼が周囲に笑いかけているのは、周囲が好きで、好かれたいからなのだと思っていました。確かに、先ほどの言葉を聞く限り女の子を好きになれたことはないのでしょう。
 しかし、彼は周囲を、弛まず流れて変化していく日常を愛しているように見えます。
 彼は、続けます。
「笑える相手に好意を抱いていることを前提にするのが間違ってるよ。笑顔なんて……、所詮筋肉の運動だろ」
「確かに、顔なんてただの皮ですし、それを動かすのもただの筋肉です」
「皮が動いたくらいで相手が自分に好意を持っているなんて思うのは変だよね。外面が真実なら、こんなにうまく社会は回らないよ」
「そうですね……顔でなら、いくらでも心は隠せますから」
 表情はある程度自分で作れるものなので、顔を相手の心の機微として判断するのは不確かです。
 顔は、自分が自由に操作できるものです。
 瞳には、それができません。瞳は、嘘をつくことのできない場所なのです。
 開けた奥の瞳孔に宿る思いを誤魔化すことは、誰にもできません。
「いっそ、心だけなら良かったのに」
 囁きのような、小さな声でした。
「心だけなら、怯えることも恐れることもなかったのにね」
 彼が何を考えているかは、わたしには推し量れませんでした。
 彼の瞳は、何一つ色を映し出しません。それは心地良いことですが、心が見えないことは時に不安を煽るのです。
 ああ、まったく。わたしは都合のいい考え方ばかりをしています。
 そもそも、空っぽの瞳は心を隠せるからこその瞳なのか。
 それとも、本当に何も感情を抱かないが故の空っぽなのか。
「でも、貴方のいう器がなければ、きっと他の人たちは生きられないのでしょうね」
「どうして?」
「本音だけで生きていくことは、我を通すことですから」
 皆が自分勝手に気ままに生きていたとすれば、誰も触れ合い関係を結ぶことなどできないでしょう。
 それは、破綻した世界。独りにしかなれない世界です。
「――でも、自分勝手に生きなくちゃ、手に入らないものもある」
「時に我慢しなくてはならないこともあるのでしょう? なんでしたっけ、押してダメなら引いてみろ?」
「……合ってるのだろうけど、違って聞こえるは俺だけなのかな」
「違うのですか? 本に書いてありました」
「いや、……うん。日比谷さんがそれを俺に向けて言ってるわけじゃないんだよね?」
「何で颯さんに向けて言わなくちゃいけないんですか?」
 颯さんは微妙な顔をして、一言だけ呟きました。
「――本当、面白いよね、日比谷さんは」
 その呟きをはっきりと聞き取ったわたしは、少しだけ怒りを滲ませた声で抗議します。
「貴方に面白がられる謂われはないと思いますけど」
「褒めてるんだよ」
 わたしが貶し言葉だと思っていたものは、褒め言葉だったようです。それならば、素直に受け取るべきです。
「それなら……、素直に受け取っておきますけど」
「素直に受け取るんだ?」
「褒め言葉は受け取るものだと両親が言っていた気がします」
「へえ、ご両親は日比谷さんに似てるの?」
「いいえ、似ていません。貴方の言う、中身が」
 あの二人は、二人で一つの世界を共有しています。互いを雁字搦めに鎖で縛りつけあうことで、互いを唯一確かなものとしているのでしょう。
「心まで親に似るのはおかしいものね」
「影響はされていると思いますけどね。変な人たちですから」
「実の親を変な人たちだという君も変だと思うよ」
「それなら、……面白くて、変なんでしょうね。わたしは」
「でも、日比谷さんと話していると楽しいんだよ、俺」
 彼の社交辞令に、わたしは応じます。
「ありがとうございます」
 ただし、わたしには社交辞令なんて高度な技術はありません。精々無難に礼を言うのが限界です。
「そこで、わたしも楽しいです、って言ってくれないのが日比谷さんだよね」
「言ったほうがよろしいですか?」
「いいや……、言わないでくれる方が、ずっと嬉しい」
 彼がどうして嬉しそうな笑みを浮かべたのか、わたしには分かりませんでした。瞳には何一つ感情が現れていないのに、どうして彼が嬉しそうだと思ったのかも、分からなかったのです。
 ただ、少しだけ、わたしも笑みがこぼれました。
「やっぱり……、笑顔の方がずっといい」

 彼が呟いた言葉は、何故だか、とても心地良くわたしに溶け込みました。