器と中身

 多くの人間が行き交う教室塔の昼休み、腕から零れおちそうなプリントと資料集の山を必死で落とさないように歩きます。
 不真面目な教師は、最近何でもわたしに頼むようになりました。断らないことを知っていての行動であることが憎らしいです。
 周囲の生徒たちは先ほどからわたしに視線を寄こしますが、それだけです。誰も手伝おうとはしてくれません。
 わたしはあまり好かれる人間ではない上に、周りからは勉強しか頭にない女と思われているので、当然なのかもしれません。好き好んでこんな無愛想な女を手伝おうとする人間はいません。
 わたしに少しくらい可愛げがあれば別だったのかもしれませんが、そのようなものは幼い頃も持ってなかった気がします。
「あ、日比谷さん!」
 明るい声が、わたしに声をかけました。
 反射的に振り返ると、相変わらずの笑みを浮かべた塩原さんがいました。
 その瞬間、塩原さんと一緒にいた女の子たちの視線が突き刺さりました。流石に二度目になると慣れて、わたしはあまり動揺しませんでした。
 出過ぎた真似をこちらからしない限り、彼女たちはわたしに対して酷い行いをすることはありません。詳しいことは知りませんが、こちらが何かしらの行動を起こさない限り、もしかしたら起こした後でも、彼女たちはただ視線を寄こすだけなのかもしれません。
「手伝うよ、大変だろ? こんなに思いの女の子が持っちゃ駄目だよ」
「いえ、大丈夫です。塩原さん」
 彼は余計なお世話という言葉を知っているのでしょうか。知らないのかもしれません、見るからに無神経そうです。
「颯でいいよ。苗字ってあんまり呼ばれ慣れてないんだ」
 彼はそう言って、わたしの抱えているプリントを自分の手に移しました。手持無沙汰になったわたしは、今さら有難迷惑とも言えず、彼の好意に甘えてそのまま隣を歩きます。
「では、颯さん、とお呼びさせてもらいます」
「――あれ、さん付け? 呼び捨てでいいのに」
「癖です。気にしないでください」
 彼の行動は不可解で、お節介もいいところですが、こんなに近くで彼の瞳を見れて幸せです。
 本当に、本当に綺麗な瞳です。そこに在るだけで幸せになれるものがある。何もしなくても幸福を与えてくれる存在なんて、所詮は夢物語でしかない。 彼の瞳を見るまではそう思っていたと言うのに、不思議なものです。

 ふと、取り巻きの彼女たちのことが気になりました。
 彼の有難迷惑を受け取ることにしました。今更気付きましたが、それは先ほどまで颯さんを取り巻いていた彼女たちを放っておくことになります。
「……、颯さん、いいんですか? 彼女たちのこと、放っておいて」
 一度やってしまったことはどうしようもないので、とりあえずは口に出して問いかけるのが礼儀でしょう。
「うん? 大丈夫、大丈夫。あいつら、俺に放っておかれたくらいで怒ったりしないし」
「何を根拠にそのようなことを?」
 放り出されれば普通は怒るでしょう。怒らないまでも、苛立ちくらいは覚えそうなものです。
「だって、あいつらは俺のことなんて、好きじゃないから
「――好きじゃない、ですか?」
 好きだから彼の傍を取り巻いて、彼に近づく女子を威嚇しているのではないのでしょうか。
 恋する女の子はとても可愛いらしいですが、時に、呆れるほどの執念を見せつけてくれます。
 わたしなど恋敵にもならないでしょうが、彼女たちにとっては塩原颯に近づく女子の全てが敵なのでしょう。
 全人類の半分を敵に回すなど、天晴れ過ぎて何も言えません。
「そう。あいつらにとって俺の顔さえあれば、俺の中身なんて関係ない。だから、俺のことを好きなんかじゃない」
「はあ……、つまり体目当てと」
「あはっは、体目当てって……、うまいね、日比谷さん。でも、言っている意味の半分も実は理解してないでしょ?」
「……? 貴方に付属されるお顔が目当てなのでしょう?」
 何か間違っているのでしょうか。
 わたしは、事実を述べたはずです。
「……でも、顔なんてどうやって手にするのですかね」
「……わあ、本気で言ってる?」
「剥ぐ……? でも、そんなことしたら血塗れに」
 スプラッター映画も泣いて慄く結果になりそうです。
「あー、グロテスクな想像は止めてほしいかな。面って言っても別に顔のことだけ指してるんじゃないんだよ。俺ってさ、ほら、器が美しいからね。美しいって罪だよね、本当」
 彼の言葉を聞きながら、颯さんのような人が俗に言うナルシストなのだろうと思いました。実際に会ったことは初めてになりますが、それほど衝撃はありませんでした。
 考えてみれば、弟もそのような兆候が見られる子です。弟とは毎日顔を突き合わせていますから、わたしはナルシスト予備軍と暮らしているわけです。 人間、慣れとは怖いものです。
「器……」
 わたしは隣を歩く塩原さん、――颯さんを、上から下まで見まわします。長身で、長く細い手足、均衡の取れたしなやかな体をしています。この年頃の男の子は、そう太らないものですが、そういう問題ではないのでしょう。
 彼の体つきは同年代に比べて完成されているような印象を受けます。
「確かに、周囲と比べれば良い……、のでしょうか?」
 わたしは彼の瞳ばかりを見ていたので、全く気付きませんでした。彼の体は、人間が求める美の基準値を超える、素晴らしいものなのかもしれません。正直、わたしにはよく分かりませんでしたが。
「……傷ついた」
 自らを美しいと自負するくらいですから、それは自信があったのでしょう。正直、少し羨ましくも感じます。人は中身だと主張する流れもあるようですが、やはり最初は外見から入るものです。
 麗しく美しい者には、それに伴う弊害もあるのかもしれませんが、広い人間関係を円滑に行うための利点もあるものです。
「それはすみません。でも、顔も器も所詮は皮と肉にしか過ぎませんから。顔なんて皮膚を剥いだらみんな同じです。体なんて、バラバラになったらただの肉片です」
「……結局行きつくのはそこなんだ。日比谷さんってやっぱり変わってる」
「そうですか、初めて言われました。友達いなかったので」
 ちなみに、現在進行形でいません。
 しかし、友達がいない生徒など、そう珍しくないと、わたしは認識しています。
 哀れまれる対象となるのは不愉快ですが、友人ができないことを卑下したくはありません。
「えー、なにそれ」
 颯さんが、わたしに友達がいないのを知らないのも無理ありません。わたしは、道端に生えている雑草のような慎ましさを目指しています。目立っているはずがないのです。
「良く避けられるんですよ。たぶん、空っぽだからじゃないでしょうか」
「空っぽって、中身が?」
「そう、中身が。何の目的もなしに生きてる人間ですからね」
「ふーん、でもそんなのはここにいるやつら全員に当てはまるよ」
「――貴方が言うのならば、そうなのかもしれませんね。でも、きっと、わたしはその中でも異質なのですよ」
 自分自身を異質だと思うなど、個性を主張したいがための愚かな行動にしか見えないかもしれません。
 わたしは、愚かでも構いません。
「だから、溶け込めない。いいえ、溶け込みたくないんです」
 異質だから溶け込めない、そう思えば、心は軽くなります。
「攻撃されるのが怖い?」
「それもあるのかもしれませんね。わたしは、基本的に人が苦手なんでしょうね」
「だから、避けてるんだ」
 颯さんの言葉に、わたしは足を止めました。
 まさか、彼が気付いているとは思いませんでした。
「……そんなに、あからさまでしたか?」
「いや、なんとなく分かっただけだよ」
 それは、わたしの行動が下手だったという意味でしょうか。
「すごく上手な避け方だった。こっちが日比谷さんを避けてるよう感じたもの」
「意図したわけではありませんけど、そのように思われていたのですね」
「人間は勘違いの生き物だからね」
 上手いことをいうものだと思いました。
 流石は秀才です。
「――颯さん、ありがとうございます」
 社会科教室が見えてきた辺りで、わたしは彼に声をかけます。
「助かりました。ここまでで結構です」
「だーめ、最後まで持ってく」
「…………、ですが、頼まれたのはわたしですから」
「こんなに重いもの、女の子が持つ量じゃないんだよ? 手伝わせてよ」
 ここで彼の行為を無碍にするのも変かもしれません。
「では、半分こにしましょう。颯さんの好意に甘えます」
 わたしは苦笑します。
「――日比谷さん、笑ったほうがいいよ。苦笑っていうのがマイナスだけど、うん、笑顔の方が可愛い」
「か、……かわいい……?」
「初心なんだね、日比谷さん。もしかして、可愛いって言われのも初めて?」
 くすくす、と颯さんは人形のような瞳で笑います。
 ああ、なんと甘美な色をしているのでしょうか。
「颯さんは、慣れているんですね」
 彼女たちの視線にも、その思いを浴びることが耐えられる人。
 わたしとは決定的に違う人。
「それ、俺が遊び慣れてるってこと? やだなぁ、そんな風に見てたの? 日比谷さん」
「ごめんなさい。そういうつもりではないのですけど……」
 硝子の瞳をしたお人形さん。
 貴方はいつまで人間のように振舞うのでしょうか。

 心の声は、当然ながら彼に届くことはありませんでした。