硝子玉

 午後の麗らかな日差しが教室を温める昼休みの後半。皆が各々の昼食を食べ終わった教室は、賑やかな話し声に満たされています。
 愛しい瞳を持つ人は、今日もいつもと変わらず空っぽの瞳をしていました。
 他人が楽しそうに過ごしているのを横目で見るのは、少しだけ幸せをお裾分けされた気分になります。他人の話は、自分に関係のないことなので聞いていて楽しいものです。もちろん、盗み聞きもいいところだとは承知です。
「ねー、颯、今日遊べる?」
「今日? ちょっと待って、白藤の友達から遊び行こうって誘われてるんだよね」
「またぁ? たまにはあたしたちも相手してよ。白藤なんて勉強ばっかの金持ちでしょ」
「そういうこと言わないの。ま、そのうちね」
「うわ、ひどい……!」
 甲高い笑い声を上げる女生徒に囲まれて、塩原さんは軽薄な笑みを絶やしませんでした。周囲の人間は誰一人気付いていないようですが、彼の笑みはやはり作り物なのでしょう。
 その瞳は相変わらず笑ってなどいなくて、硝子玉のように澄んでいました。思わず惚けてしまいます。
 わたしは宝物などと思えるものに出会ったことがないので分かりませんが、宝物を見つけた子供はこのような気持ちなのではないでしょうか。
 いけません、今は英語の予習の最中でした。
 彼を見ていた視線を、わたしは慌てて机の上に広がるノートに移しました。特別上手でもない字の並んだノートは、分かりやすいものとはいえませんでしたが、中途半端な成績のわたしには相応しいのかもしれません。
 分からない単語を調べようと辞書を広げると、机に影ができました。
 電灯が切れたのかと顔を上げれば、先ほどまで窓際にいた塩原さんが佇んでいます。
 先ほどと同じ作り笑いが、うすら寒い笑みが、彼の顔には浮かんでいます。
「…………」
 わたしは言葉もなく、ただ彼を見ました。
 何か用があるのでしょうか、彼とわたしは一度も言葉を交わしたことのなかったような気がします。
「日比谷さん、何やってるの?」
 まるで旧知の仲のように、彼は親しげな雰囲気を醸し出しながら、わたしに話しかけました。
 馴れ馴れしいとも呼ぶのかもしれません。
「え……?」
 彼とわたしは、何の関係もないはずです。
 それとも、誰とも話さない地味で何処にでもいるようなクラスメイトに情けでもかけに来たのでしょうか。余計なお世話です。
 言葉の見つからないわたしなど構うことなく、彼は続けます。
「あ、英語の予習? 毎日やってるんだ、偉いね」
 予習どころか授業も真面目に受けていないのにも関わらず成績の良い人は、わたしの机に腕をつきながらしゃがみました。
 整った顔立ちに絶妙に人間らしさを加えるのは、薄らと散った雀斑です。女の子ならコンプレックスになっても可笑しくないものだというのに、彼にとっての雀斑は美点でしかないのです。
 わたしを見上げる彼に、わたしはただ混乱します。
 そして、先ほどまで彼がいた場所から来る敵意の籠った視線に、目眩がしました。
 周囲を取り巻いていた女生徒達が、敵意の籠った眼差しでわたしを見ています。
 心なしか胃が痛いような気もします。
「偉くはありません。何かご用ですか?」

 原因はきっと――女の子たちの、視線です。

 わたしは彼の瞳に興味はありますが、彼自身には興味などありません。
 それなのに、彼が原因で大嫌いな視線に曝されるなんて、冗談ではありません。
 久方ぶりに浴びた悪意のある目は、わたしの体に変調を齎すには十分過ぎるのです。
 今まで築き上げてきた心地良い場所を壊されかねません。
「用がなくちゃ話しかけちゃいけないの? 俺、前から日比谷さんと仲良くなりたかったんだ」
「結構、です」
「なんで? クラスメイトと仲良くするのっておかしいかな?」
 無邪気に見えるように作られた笑顔。計算された仕草に、軽い苛立ちが募ります。
「……わたしは、貴方が仲良くするような人間ではありません」
 一人の女の子がこちらに向って大股で歩み始めました。
 当たり障りのない言葉を選び、はっきりと断りました。自分が何様のつもりかと思いましたが、波風を立てられるのは耐えられません。
「つれないなぁ……って……、日比谷さんどうしたの?」
「……っ……」
「凄い顔色。具合悪いの?」
 焦ったような声色をつくり、塩原さんがわたしの額に手を伸ばしました。
 そもそも、彼が原因でこのような息苦しい事態になっているというのに。
「熱はないみたいだけど……大丈夫?」
 女生徒の眼差しが、さらに憎しみを持ちます。
 頭が痛いです。
「……、ほうって、おいてください」
 落ち着きなさい。
 ここには、誰もわたしを害する人間はいません。いないと思いなさい。この程度の視線に耐えられないなんて愚かなことがあっていいばずがないのです。
 わたしは、普通に生きていかなくてはいけません。
 二度と、両親にも弟にも迷惑をかけるわけにはいかないのです。
「……えと……、ごめん。後で怒っていいから」
 彼は小さくつぶやくと、いきなりわたしの体を引き上げて立たせました。そのまま、力ないわたしの体を肩で支えながら歩き出します。お昼に食べたものが、揺れたような気がします。
「颯、何してるの!」
「保健室連れてくよ。放っておけないし。日比谷さん、平気?」
 わたしは、彼の行動に諦めて、小さく頷きました。
 頭が痛い――というより、ただ単にわたしはこの場にこの状態でいることが耐えられないのでしょう。
「保健室に行くまでの辛抱だよ。しっかりしてね」
 彼が原因でこのような事態に陥っていると言うのに、その瞳を見て心なしか落ち付きます。
 やはり、美しい瞳です。
 彼の価値など知りませんが、彼の瞳には相当の価値があります。

 その日、わたしは彼に引きずられるようにして保健室まで運んでもらい、早退しました。
 翌日の女生徒からの反応は、思ったよりも大変なものではなく、わたしは小さく安堵しました。